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あたまのなかにあるイメージをそのまま絵に描くということ


はじめに


 見たとおりだけでも描けるようになるにはけっこう練習がもとめられる。視覚をつうじてさらに手の感覚をやしない、絵の具の色の適切な選択などさまざま技術やセンスもいる。さらに空想の世界をあらわそうとすると今度はあたまのなかに思い描いたものを表出させる。色もさまざま。想像を描くにはあたまのべつの部分をつかい描く感じ。

きょうはそんな話。

見たままを


 ふだんは身のまわりのものや人物などを描く。風景であれば数十年変わらぬままの場所については、基本的に思い出しつつ描くこともかなりできる。一度スケッチで確認すればなおさら。のちにふたたび描く場合にはかなり頭のすみに残影として残っている。

それだけ絵に描く行為はものを確認や記憶をさせるには好適。なるべく見たままを描けるようになるとなおさら捗る。なるべく人物を早描きするクロッキーデッサンを訓練すると、把握のコツがよくわかる。

加味するもの


 ただ描くだけでなく、印象をより明確にする強調やデフォルメがあってもいい。絵は自由な世界。なにも事実に忠実でなくてもかまわない。実際の風景のよぶんなものは描かねばよい。あるいはこの木をもうすこし画面の左に寄せるなどしてもいい。

だれもそれをとがめないし、そんな制限や規則があるわけでない。それがふさわしいならばかたちを歪ませようが、本来見えないはずの裏面を表そうが自由。現実の世界とはくいちがってもみずからが描きたいならば表現すればいい。

それとはべつに


 じぶんのあたまのなかの世界。それはもしかしたら宇宙が有限かどうかはべつにして、それよりも広いといっても過言ではない。そんな空想にあそぶことができるぐらいだから、それを絵に表現してもいい。わたしが唯一所有しているシャガールの石版画。色もかたちも彼のあたまのなかからそのまま飛び出したかのよう。その自由でのびやかな世界はながめつづけても飽きることはない。

そのてもちの版画を模写する。するとひとつひとつの線や描いたものをわたしなりにみつめて、一本一本の線や面、かたちで捉えなおす。おそらく彼の描きたかった100分の1も再現できていないだろう。

それでいいしかまわないし、わたしはそれで満足できる。むしろ畏れおおいきもちのほうが大きい。模写させてもらっているという感謝のきもちのほうが圧倒的。版画なので彼自身がお墨付きを与えたうえで世に出ることをゆるされた。それ自体が彼の分身でもあり、表現したかったものがそこにある。

空想の世界


 わたしにも小さいけれど脳は備わっているし、空想できる。そんなにうまく活用できていないし、わが身の一部でありながらまだまだ使いこなせていない。残念ながら現実にある風景だけでもわたしの頭のなかの空想よりもはるかにすばらしい。

それでも空想だけは意識があるかぎりできる。つたない空想でもそのごく一部でも絵に表現できればそれに越したことはない。

おわりに


 絵の表現はさまざま。なにも現実を忠実に再現するだけでもなかなかだが、かたくるしく考えないで空想で描く。こんなイメージが思い浮かんだ、それならきょうはこの色でそれを表現してみよう。そんなに深刻に考えずともいい。

目をつぶって1本の曲線を紙の上に置いて、ふたたび目をひらいてイメージできる世界を思い描いてみる。これがなかなかおもしろい。絵の教室ではこどもたちとよくそんな1本のなにげない線やかたちで「遊び」、空想の世界を表現していた。


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