大人が蟻の行列を飽きずに見続けられるということは
はじめに
こどもがじーっと蟻の行列を飽きもせず眺めつづけている。よくもそれだけ同じものを見つめ続けることができるものだとこちらは思う。
本来ならばわたしのほうが自然科学者であり、そのような観察を通じてより深い思索に励むべきかもしれない。そんなこどものようすを通じてあらためて自分の立ち位置を思い知らされる。
きょうはそんな話。
蟻の専門家
わたしの知り合いに蟻を専門に研究される先生がいる。この方はいつでもフィールドで観察できるようにふだんからカジュアルな姿。いつでも這いつくばって地面に頭を擦り寄せようかという姿勢がそこから見えてくる。まるでご自身が、地面のあたりに生息する虫か何かになったかのよう。
こどもが幼い頃、蟻にたかられて噛み跡が残ったことがあった。この先生に会議のときにお会いし、それを伝えたところ、「いや、そのまま蟻がいても支障ない。そこまで悪さしないから。気になるならその蟻が何アリかわかれば教えて。対処法を教えるから。」と言ってくださった。とはいえ何アリなのかわたしには判別できない。なるほど専門家の言うことはひと味違うと納得。
噛まれたこども
その蟻に噛みつかれたこども。幼い頃、わが子ながらわたしから見るかぎり、この子は少し変わっていると思った。庭にしゃがんだまま蟻の行列をながめている。こどもはそんなもんさとそのまま放って遊ばせる。日が変わってもそのまま眺めている。幾日かすぎても飽きもせず巣のあたりを見つめたまま。それを逐一、きょうは何をしていたとわたしに伝えてくる。
さぞかし重大事を見つけたかのように話す。よくもまあ蟻のことだけでこれだけ話せるものだと思う。しかも見てきたことがじつに細かい。触覚のあたりでなかまにこちょこちょ何かつたえていたとか、伝えてくる。
我に返る
そこでふと気づいた。わたしとて同じ。職場に向かえば実験や観察からそれなりに世間の方々は関心のない物事に関して、原稿用紙にして何十枚もの文章をしたためる。蟻の先生と対象は違えど、やっていることは何ら変わらないはず。それはちょうど我が子が庭でしゃがんでじーっと蟻たちを眺めているのとも本質的に同じかもしれない。
何だ、子どものままじゃないかと気づく。素朴な疑問や不思議を追っている点では幼子と何ら出発点は変わらないし、出た結論もさほど我が子と大きな差はない。大の大人が寄って集って子どものように知的好奇心を満足させているといえそう。物心ついてわずかだけわきまえを持てるようになっただけに過ぎない。
おわりに
それはそれでいい。わたしにとって子どもの頃の疑問の多くはいまだに解けていないものが多い。宇宙の果てはどうなっているのか、地球に生きものはどうやって誕生したのか。こんな疑問に明確な答えをわたしはまだ知らない。それこそ蟻たちの行動すらいまだ表面的にわかっていることはそんなに多いわけではない。意外と無駄な争いごとをしないとか人間のほうが蟻から学べることはまだまだありそう。
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