日常をnoteに綴るということ —— 5年 2か月を振り返って

はじめに
2021年4月からnoteへと移ってきた。それまでのブログからの移動を含め、記録を積み重ねる営みは5年と2か月になる。書き始めの頃、「世の中が激しく動く中で、こんなに個人的な文章を書いていてよいのだろうか」という迷いがよぎり、いったん手が止まった時期があった。
しかし、長く続く世界の情勢を報道で知るにつれ、むしろ「普段どおり」を維持することの大切さに気づかされた。その思いから、わたしはほぼ毎日、ここに言葉を置くことを続けている。
きょうは、そんな話。
(注意:本内容にともない、AIとのやりとりを経てわたしの責任で文章を整理して掲載しました。ふだんとの違いをお感じになられるでしょうか。)
日常のもつ意味
この国では長い間、大きな争いごとを直接的に経験せずに過ごせている。しかし、世界の各地に目を向ければ、決してそうとは言えない現実がある。ちょうどわたしがこのnoteへ移ってきてまもなく、世界は激動の渦中にあった。事態の行く末を案じ、このままのんびりと投稿を続けてよいものかと自問自答した。いつ自分の足元が崩れるかわからない——そんな不安に駆られたことも一度や二度ではない。
ところが事態は膠着し、日常というものは私たちが思う以上に脆く、同時に、たゆまぬ努力によって維持されているものだと気づかされる。普段どおりを維持することは貴重で、何ものにも代えがたい。平和を希求することは万人の願いであるはず。
そう教わってきた
これまでに折に触れて学び、また現実の光景を目にする中で争いを避ける知恵の大切さを自覚してきた。力で現状を打破しようとすることは良策ではない。歴史が証明するように、それは決して望ましい方向ではない。
そうした平和な日々が維持されているからこそ、些末なことも含めてすべてをここに記せる。じつは、それはとても贅沢なこと。もしその自由が失われたらと思うと、切なさが込み上げる。何の制約もなく表現できる環境があるのなら、こうであったとなおさら記録を残すべき。いつ何時、そうできなくなる時が来るかもしれないのだから。
静かに刻むこと
こうしていつもどおりの由無し事を書き連ねることができるのは、じつに貴重なこと。この自由が保証されていること自体、望ましい状況であると言える。
それに気づいたらもはや書くしかない。敢えて些末なことをひっさげて、この場に載せる。この作業を通じて、ひとり静かに心に刻んでおきたい。平和であることの尊さは、もし失ってしまってからではどうしようもないのだと。
おわりに
世界が抱える問題は複雑で、打開は容易ではない。物事を知ろうとすればするほど、個人の力では及ばない混沌があることを思い知らされる。どんなふうに動こうとも、その先の正解を容易には示せない。
そんな混沌のなかにあって、やはり自分をしっかりと保っておくために、これからもほぼ毎日この場所に訪れたい。新たな記事を置くという行為を通じて、日々の歩みを続けていくつもり。
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