人類がつづくかぎりおそらく執筆した文章がそのまま残っていくこと
はじめに
現存する紙や皮に記された書物。これらは管理が行き届かないとそのうち朽ち果てる。そのまえに書き写されたり、電子化されたりして後世へ伝わる。引き継ぐ作業をだれかが気づいてやらない限りそのまま忘れ去られてしまう。
きょうはそんな話。
書物などは
博士論文を紙で綴じて提出した。その一部は国立国会図書館へ。ここで仕舞われ保存される。ずっと残るのかと思うことがある。もちろん間違いなどがあったら本人ならば所定の手続きを踏めば訂正できるらしい。自分ですら博士論文を再度見直すことをほぼしない。人の目に触れることはなおさら今後もないに等しい。
英語で著した書籍をいくつか書いたが、版が改まり電子化された。はたしてこののちどうなるだろう。そのまま消えてしまうのか。比べるのもおこがましいが、世に名の通る作家の方々の作品は、書物として大勢の人々の目に触れる。過去の著名作家の作品はこうして出版が続く。本として連綿と世の人々のまえに衣装を変えつまびらかにされるのはどんな心持ちなのだろう。
noteはほんの一瞬の期間(数日だろうか)に過ぎないが、自らの記事が公衆の面前に晒される。あとは情報の洪水の中に揉まれてどこかに消えていく。投稿するたびにどこかに不安や期待をごちゃまぜにした気持ちが湧く。
電子化されると
有限の存在の紙から移り変わり、そのうちいくつかは記した文章が電子化される。noteは最初から後者に属すわけだが、ほぼいつでもほしいときに取り出せて読める。これは時代が先へ進んでもおそらく同じ。普遍的な記事ならば後の時代の人々にも通じる可能性はある。過去との接触。その感触はいまも紙の書物のなかでそれなりに感じられる。あくまでも読み手の限られた感覚のなかで。
それでも本に描かれた世界は想像に遊べばそれなり広く、時空を越えてさまざま多様なもの。それだけに書く作業で得た文章は異世界の人々とのそんな感覚のやりとりの場といえそう。通じ合えるときにはやはり充実感や感動がある。
残るもの
自然科学の研究対象にも流行り廃りがある。なるべくひと文字、あるいは書物のひと隅にでも残るしごとができないだろうかと思う。ひとりの人間のやれる範囲で書物の一画にやったことを残そうとするのはやろうとしてひとりでできることでない。その記述や新事実が普遍的でのちの人々にとっても常識になるほどの事象をみつける、探し出すことはそんなにたやすいことでない。
それがわかっているからこそ、やりがいがある仕事にちがいない。せっかくこの世の中に生まれ出たのだから、この世の中のしくみや道理を知りたいし、自らの手で明らかにしたい。
おわりに
そんな「欲」は、がむしゃらに出てくるものでない。懸命に追い求めて、するどく観察をつづけてある時にひょっこり顔を出す。そのわずかなチャンスを見逃さずにつかまえることができるかどうか。日ごろの何もない変化の少ないなかからそんなセレンディピティ を見いだせるか。
こればかりは日頃の心がけが大事かもしれない。やはり職場についたら掃除しよう。この心がけから何か生まれるかもしれない。日常とは違う何かが見つかるかもしれないと思い続けよう。日々すごすなかから、人類がつづくかぎり残っていくものをいくつか手にしたい。どうやらそんなふうに思い続けることこそが大切なのかもしれない。
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