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すり減った靴底に、ありがとう|自分を労うことが「甘え」に感じられる夜に


こんにちは、ゆきのです。


その日の雨は、音がなかった。


傘の表面をたたく雫はとても細かくて、でも確実に肩を冷やしていて。

最寄り駅から家までの12分が、いつもの倍くらいに感じられた。


玄関の鍵を開けて、靴を脱ぐ。

そのとき、ふと目が止まった。

──靴底が、すり減っていた。

左の踵がとくにひどくて、ゴムの溝がほとんど消えている。

いつからだろう。

今朝も昨日も、一昨日も、同じ靴で歩いていたのに、まったく気がつかなかった。

しゃがみこんで、裏返してみる。

細かいひび割れ、アスファルトで削られた跡、雨を吸って少しだけ柔らかくなった縁。
 


「まだ歩ける」という言葉の裏側


──ああ、こんなに歩いたんだ。

そう思ったら、なぜだか少しだけ、胸の奥が重くなった。

「まだ歩ける」。

この言葉を、ここ数年、何度自分に言い聞かせただろう。

仕事が詰まった月末も、誰かの不機嫌を受け止めた日も、思い通りにいかなくて布団の中で天井を見つめた夜も。

まだ大丈夫、まだいける。
そう思えることが自分の強さだと、どこかで信じていた。

でも玄関で靴底を眺めていたら、少しだけ気づいたことがある。

「まだ歩ける」は、「まだ歩かなきゃいけない」を、優しい言葉に着替えさせただけだったのかもしれない。

そう気づいたからといって、今すぐ何かを変えなくてもいい。
着替えていたことに気づけた。
それだけで十分なのだと思います。


靴底は正直だ。

どれだけ平気なふりをしても、歩いた距離はごまかせない。
溝が浅くなったぶんだけ、滑りやすくなっていることも、足はとっくに知っていたはずだった。
 


靴修理屋の、手書きの言葉


数日後、靴を買い替えようと思って立ち寄った駅ビルの片隅に、小さな靴修理の店があった。

ガラスケースの中に、磨かれた革靴がいくつか並んでいる。
古いけれど、どれも丁寧に息を吹き返したような艶があった。

カウンターの脇に、手書きの紙が一枚貼ってあった。


「靴の手入れは、履いてきた日々への敬意です。」
 


店主の字だろうか。少し癖のある筆跡だった。

でも私はその前で、少しだけ足が止まった。

──敬意。


靴を直すのは「まだ使いたいから」だと思っていた。
もったいないから。
節約だから。
愛着があるから。

でも「敬意」と言われたとき、見え方が少しだけ変わった。

修理は、「まだ使えるようにする」だけの行為ではなかった。

ここまで歩いてきた日々を、なかったことにしない行為でもあるのだと。
 


労いと甘えは、よく似た顔をしている


自分を労うという行為が、ずっと怖かった。

「お疲れさま」と自分に言ってあげて──

そう本に書いてあっても、実際にやってみると、居心地が悪い。
まるで、誰かの前でひとり芝居をしているような気まずさ。

その違和感の正体を、靴底を見てからずっと考えていた。

たぶん、「労い」は「甘え」とよく似た顔をしている。

表面だけ見ると区別がつかない。
だから労おうとした瞬間、心のどこかで警報が鳴る。


──いま休んだら怠けになる。

まだ頑張っている人がいるのに。
自分だけ楽をするなんて。

そう思ってしまうのは、ここまで一人で抱えてきた証なのかもしれない。

でも、靴を修理に出すことを「甘やかし」とは言わない。

すり減ったまま歩き続ければ、いつか転ぶ。雨の日に滑る。
足首をひねる。

修理は、次の一歩を安全に踏むための、静かな準備。

自分を労うことも、きっとそれと似ている。

甘やかしではなく、次の朝へ歩くための、靴底の張り替え。
 


二秒の敬意


あの修理屋を出た日の夜、ひとつだけ変えたことがあります。

家に帰って靴を脱いだあと、少しだけ間を置いて、靴をそろえた。

それだけ。
本当にそれだけのこと。

でもそのとき、心の中で小さな言葉がこぼれた。

──今日も、ちゃんと歩いたね。

大げさでもないのに、その一言が心の奥で小さく響いた。


靴を揃えるとき、指先が靴の甲に少しだけ触れる。
その触感が、一日の終わりを区切ってくれるような気がした。

「お疲れさま」と唱えなくてもいい。
日記を書かなくてもいい。
ただ、脱いだ靴を揃えるときに、指が靴に触れる、その二秒。

その二秒が、今日歩いた自分への、小さな敬意になる。

もちろん、揃えられない日もあります。

疲れすぎて、靴を脱ぎ散らかしたまま倒れるように寝てしまう夜。

朝起きて、玄関の靴を見て「ああ、またか」と思う朝。

でもそれは、靴をぞんざいに扱ったのではなくて、「それだけ歩いた日だった」というだけの話。

散らかった靴も、揃えられた靴も、どちらも同じ距離を歩いている。
 


すでに在るものに、気づくこと


最近、ときどき思うことがあります。

労いとは、何かを「足す」行為ではないのかもしれない。

特別なご褒美を用意したり、贅沢をしたり、大げさに自分を褒めたりすることでなくてもいい。

むしろ、すでに在るものに気づくこと。

すり減った靴底を裏返して、「ああ、こんなに歩いたんだ」と、ただ認めること。

それだけで、心のどこかに小さな余白が生まれる。
その余白が、明日また歩きだすための地面になる。

この文章を読んでいるあなたの足もとにも、
「よく歩いてきた跡」が、どこかにあるでしょうか。

見えない場所で、静かに、確実に。

もしよければ、今夜、靴を脱ぐとき──
ほんの少しだけ、足もとを見てみてもいいかもしれません。

揃えられた靴でも、
脱ぎ散らかしたままの靴でも。

どちらも、同じ距離を歩いてきた。

二秒だけ、
指先を靴の甲に触れてみる。

「ここまで歩いてきたんだな」と思える瞬間が、もし少しでもあったら──
それだけで、十分なのだと思います。

あなたの靴底に刻まれた距離が、
明日また歩きだすときも、
もう少し休むときも、
あなたの足もとを静かに支えていますように。


咲かなくても、あなたは美しい。


ゆきの



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【 あなたの心に近い枝葉 】

□  「まだ歩ける」と言い聞かせてきた身体に、最初に戻る場所
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□ 鏡の中の自分に「いるね」と認める──労いの、もうひとつの形
[ よく頑張ったねが言えない夜に ]

□ 沈む夜も、振り出しじゃない。波の途中の自分を責めない見方
[ 回復は、螺旋階段のように ]

□ 身体の声を後回しにしてきたのは、それだけ必死に歩いてきた証
[ 身体に残る「心の結び目」を、そっと緩める ]


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