代理戦争としてのスポーツ: サッカー戦争からWBCまで
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珍しく野球で代理戦争が勃発した
野球という競技が盛んなのは、発祥国である米国とその裏庭である中南米、そして日本や韓国、台湾といった東アジア地域だ。
今回のWBCで快進撃を起こしたイタリア代表も、本国よりもイタリア系米国人選手が中心。
つまり、構造上は代理戦争が起こりにくい競技ともいえる。
マドゥロ大統領の仇討ち
2026年の年明け直後、一国の大統領が突如米軍に拘束され、米国へと移送されることとなった。いやこら拉致だよ。
ベネズエラ・ボリバル共和国
第48代大統領 ニコラス・マドゥロ
前大統領、ウゴ・チャベスに端を発したベネズエラの反米路線は、彼の腹心の部下であるマドゥロにも引き継がれた。
米国がベネズエラに対し継続的に設備投資を行ったのは、その石油利権を独占したかったからだとされている。
粘っこくて使い勝手の悪いベネズエラ産の石油に対し、特殊な設備まで投入し散々開発に貢献してやったのに、俺たちに背を向けてあろうことか中国に接近するとは何事だ、というのが大方の言い分である。
マドゥロが拉致られ、現在進行形で幽閉されている米国で、3月17日に開催されたWBCの決勝は、くしくも代理戦争の構図となった。
2026年3月17日
WBC 決勝 米国・フロリダ州マイアミ
米国🇺🇸 2-3 ベネズエラ🇻🇪
翌18日、暫定大統領のデルシー・ロドリゲスは、3月18日を祝日にすると発表した。サッカーでドイツに勝とうがスペインに勝とうが、働いて働いて働いて働き続ける社畜大国からすると大変に羨ましい。
マイアミの歓喜は、囚われの身となったカラカスの王の耳にも届いたのだろうか。
いきなり! 代理戦争。 ~ 第1回WBC
1959年。かつて米国の傀儡国家であったキューバは、フィデル・カストロやチェ・ゲバラらの蜂起によるキューバ革命を経て、突如として社会主義国家へと変貌する。
米国・フロリダ半島のもっと先、アーネスト・ヘミングウェイがこよなく愛したとされるキーウエストから、キューバ北海岸まではわずか90マイル (約145km)しかない。東京からだと沼津市ぐらいの距離感だ。
当時は米ソ冷戦時代の真っただ中。それほどまでに近い場所に社会主義国家が誕生するということは、米国にとっては喉元にナイフを突きつけられたようなものだ。
いわゆるキューバ危機である。米国のキューバに対する長年にわたる経済制裁はこの頃から始まる。
キューバ国内で1950年代の車が未だ現役で走っているのはそのためだ。
1990年代からの急速な国際化を受けて、MLBは突如自ら主催する大会の開催を宣言する。これがWorld Baseball Classic、WBCの始まりだ。
米国とキューバは国交断絶中。2006年といえば、バラク・オバマ政権下の雪解けムードよりもさらに前だ。
米国当局は当初、キューバ代表の入国を拒否。
その後、MLBと選手会は「キューバに利益分配金が入らないようにする」条件で入国再申請。
当時はまだ健在であったカストロ議長も、大会参加には乗り気だったため、「WBCによって得られた収益金を全て米国のハリケーン被災者に寄付する」と表明し、ようやくキューバ代表の参戦が実現した。
キューバ代表はその後、不俱戴天の敵である米国の地で何と決勝進出。
キューバと同様、大会前に米国にいびられまくった日本代表と対決する事になる。
2006年3月20日
WBC 決勝 米国・カリフォルニア州サンディエゴ
日本🇯🇵 10-6 キューバ🇨🇺ナイスネイチャおじさん松坂大輔が先発したこの試合で、王会長監督率いる日本はこの大会の初回を優勝で終えている。
もしこの大会でキューバが優勝していたら、今般の日本でのWBCの扱いも、米国の野球大国としての矜恃も、今とは大きく異なったものになっていたかもしれない。
サッカーでは頻繁に起こる代理戦争
一方、サッカーという競技は世界中で行われているというその特性上、しばしば代理戦争の様相を呈する。
「サッカー戦争」と呼ばれた戦争
サッカーと戦争といえば最も有名なのが、ホンジュラスとエルサルバドルによる、その名も「サッカー戦争」だ。
こんな名前ではあるが、サッカーはあくまでも引き金に過ぎない。両国間には以前から様々な問題が存在していた。
中米のホンジュラスとエルサルバドルの対立構造は20世紀初頭、エルサルバドルの経済状況の悪化により、エルサルバドル移民をホンジュラスが受け入れ、両国国境付近の土地を無償で提供する代わりに、辺境地の開拓に従事させたことから始まる。
受け入れたのは良いものの、ホンジュラスにとって彼らはいつまでも『よそ者』であり、彼らはホンジュラス国内の情勢によって常に弱い立場として翻弄されることになる。
一般的に、経済発展には工業化が必須とされているが、先に工業化を果たしたのはエルサルバドルであった。
1950年代に工業化が進んだエルサルバドルはその後、米国による圧力により、中米地域において外資系企業の参入が自由化されたことを追い風に、貿易の恩恵を受ける。ホンジュラス国内には、市場の自由化によってエルサルバドル製品で溢れ、市場を圧迫する。
さらには長年の国境線問題から、このころには既に小規模な衝突が発生している。
1970年メキシコ大会の北中米カリブ海地区予選。同地区の常連であるメキシコが予選免除されていることから、中南米諸国にとってはまたとないワールドカップ本戦出場のチャンスであった。
ホンジュラスはそのワールドカップ予選のさなか、突如エルサルバドル移民の国外退去を命じたことで、両国は一触即発の事態となる。
熱狂的な雰囲気の伴う中南米のサッカーの試合において、相手チームへの妨害行為などは割と一般的ではあるが、それでもこの時期の両国同士の対戦は極めて異様な空気の中で行われた。
1969年6月8日
第1戦 ホンジュラス・テグシガルパ
ホンジュラス🇭🇳 1-0 エルサルバドル🇸🇻
この試合の結果を受けて、エルサルバドルの18歳の女性が拳銃自殺を図る事件が発生。彼女の葬儀には政府要人から代表選手まで参列。
エルサルバドルの国民感情はもはや頂点に達していた。
1969年6月15日
第2戦 エルサルバドル・サンサルバドル
エルサルバドル🇸🇻 3-0 ホンジュラス🇭🇳
ホンジュラス代表の宿泊するホテル周辺では群衆は自殺した女性の肖像画を掲げて彼らを非難し、腐った卵やネズミの死骸を投げつける事態となる。
またホンジュラスサポーターも殴る蹴るの暴行を受け、2名が亡くなっている。
直接対決は1勝1敗となり、中立地でのプレーオフへと持ち込まれた。
1969年6月27日
プレーオフ メキシコ・メキシコシティ
エルサルバドル🇸🇻 3-2 ホンジュラス🇭🇳
厳戒態勢の中で行われたプレーオフは延長戦の末に辛くもエルサルバドルが勝利し、最終ラウンドへ進んだ。
プレーオフのさなか、両国は国交断絶。翌7月にかけて急速に状況は悪化。
そして7月14日、両国は戦争状態に突入、5日間に亘り戦闘が繰り広げられる事態となった。
なおこのサッカー戦争はその期間から、100時間戦争とも呼ばれている。
両国の国交が復活するのに、ここから10年もの歳月を要した。
一時の感情で信頼を壊すのは一瞬だが、一度壊れた信頼を修復するのには、これほどまでに時間がかかるのだ。
北中米カリブ海地区予選での両国の対戦はその後、11年後の1980年11月に実現している。試合は2-1でエルサルバドルが勝利した。
そして1982年スペイン大会、ホンジュラスとエルサルバドルは予選を通過、ともに本大会出場を果たしている。
絶対に負けられない戦いがそこにはある~東西ドイツ
東西冷戦時代。鉄のカーテンに引き裂かれた東西ドイツはW杯で直接対決している。
1974年、西ドイツにとっては自国開催のワールドカップである。
当時の西ドイツは、皇帝ことフランツ・ベッケンバウアー、爆撃機と呼ばれたゲルト・ミュラーを擁し、優勝候補の一角であった。
そんな西ドイツと、1次リーグで同じグループに運悪くぶち込まれてしまったのがなんと、あろうことか東ドイツであった。
この頃にはお互いの存在を認めており、経済的、人的交流もあったのだが、それが皮肉にも両者の経済格差を可視化する形となっていた。
東ドイツからすれば、相手は愛憎入り乱れる同胞。しかも世界屈指の経済大国であり、優勝候補でもある。燃えないわけがない。
1974年6月22日
1次リーグ グループ1 西ドイツ・ハンブルク
西ドイツ🇩🇪 0-1 東ドイツ🇩🇪☭
西ドイツ代表はこの敗戦により、1次リーグ2位での通過となるが、これが功を奏する。
2次リーグの相手はポーランド、スウェーデン、ユーゴスラビア。いずれも欧州の中堅レベルだが、皇帝や爆撃機を擁する優勝候補にはどうってことはなかった。
全勝で2次リーグを抜けた西ドイツは、トータルフットボールを掲げ、当時世界最強とも謳われたオランダをも破り、遂には優勝してしまう。
一方、この試合で大金星をあげてしまった東ドイツは1次リーグ1位通過となり、2次リーグでオランダ、ブラジル、アルゼンチンというさらなる猛者がひしめくグループに放り込まれ、あえなく蹂躙されてしまう。
でもちょっと待ってほしい。
この大会の開催国かつ優勝国である西ドイツに唯一土をつけたのは、他でもない東ドイツだ。
実力と待遇と運に恵まれたエリート軍団を打ち負かしたのが、壁の向こう側でトラバントを製造する一工員であるならば、冷戦期の一頁としてはこれほどまでに痛快な話も珍しいのではないか。
フォークランド紛争とマラドーナ
アルゼンチン沖に浮かぶ大西洋の要衝・フォークランド(スペイン語: マルビナス)諸島は、古くは18世紀には、大英帝国とかつてのスペイン帝国から独立したアルゼンチンとの領有権問題が顕在化していた。
フォークランド/マルビナス諸島は長らく英国の実効支配下にあった。
1982年4月、内政に行き詰っていた当時のアルゼンチンの軍事政権は、フォークランド/マルビナス諸島に部隊を派遣、侵攻する。
72日間にも及ぶ、西側諸国同士の激しい戦闘の末、英国が奪還する。
アルゼンチン側にとってこの敗戦は、軍事政権によるガス抜きが失敗したことに他ならない。6月15日の「戦闘終結宣言」直後から反政府暴動が相次ぎ、軍内部からも責任追及の声があがる。
そしてそのわずか2日後、アルゼンチンのガルチェリ大統領はその職を追われることとなった。
一方で当時の英国首相、鉄の女ことマーガレット・サッチャーは、社会保障費の問題で国民からの信頼を失っていたが、このときの毅然とした対応により支持率を回復したという事実は、学びがあるのではないだろうか。
この戦争においての両国もやはり、国交再開までに8年を要している。
両国が国交断絶状態のまま迎えた1986年、メキシコの地で両者は再び相まみえることとなった。
1986年6月22日
準々決勝 メキシコ・メキシコシティ
アルゼンチン🇦🇷 2-1 イングランド🏴
世界が「神の手」と呼んでいるそのゴールのことを、イングランドでは「悪魔の手」と呼ばれている。
だがその4分後、センターライン付近から5人を抜き去ったあの一瞬において、ディエゴは「神」だったことに異論はないだろう。
試合後、ディエゴ・マラドーナはこのように述べている。
我々は試合前に『サッカーはマルビナスとは別物だ』と言ったが、たくさんの少年兵がまるで小鳥を殺すように殺されたことを知っている。この試合は復讐だった―
前評判の良くなかったアルゼンチン代表はその後、2度目の世界王者に輝いている。
番外編その1: マクシミールから始まったユーゴスラビア解体
ヨーロッパの火薬庫と呼ばれるバルカン半島は、アレキサンダー大王の時代から争いが絶えない土地である。
風光明媚な景色から、今でこそオーバーツーリズムに苛まれているドゥブロヴニクは、現在ではクロアチアという国に属しているが、かつてそこはユーゴスラビア社会主義連邦共和国という大きな統一国家の一部であった。
「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」とまで形容されたモザイク国家だ。
ちなみに日本でもお馴染みのドラガン・ストイコビッチはセルビア人、イビチャ・オシムはボスニア人だ。
時は冷戦末期。当時のユーゴスラビア中央政府は、セルビア民族主義を掲げるズロボダン・ミロシェビッチが権力を握っていた。
ほぼ時を同じくして、自らを純粋な愛国主義者と称するクロアチア人のズボニミール・ボバンは、ユーゴスラビア代表から外されてしまう。
1990年5月13日、現在のクロアチア、スタディオン・マクシミールで開催されたディナモ・ザグレブとレッドスター・ベオグラードの試合で、観衆同士、そして警察隊と衝突が起きてしまう。
この試合でボバンは警察隊に飛び蹴りを食らわせ、9ヶ月もの出場停止処分となる。
試合はもちろん没収試合となり、レッドスターが3-0で勝利という扱いとなった。
翌年、クロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言するも、この後に4年に亘る紛争を経験することとなる。
番外編その2: 二枚舌外交の残滓
国家が国際社会から国家として認められるかは、しばしばその相手国の立場によって変化する。本邦からもっとも近い未承認国家が、台湾だろう。
国際的な観点で言えばもっともタイムリーで有名なのが、やはり何といってもイスラエルとパレスチナだ。
ではこれらの国(未満の地域)にはサッカーの代表チームがあるかといえば、答えはYesだ。
サッカーパレスチナ代表はAFC、つまりアジアサッカー連盟に加盟している。
ではイスラエルはどうか、これも代表チームが存在している。
但しイスラエルはUEFA、つまり欧州扱いである。
イスラエルのサッカーチーム、マッカビ・ハイファは、イスラエルのチームとして初めてUEFAチャンピオンズリーグにも参加している。
つまり、場所は間違いなくアジアなのだが、実態通り欧州の飛び地のような扱いである。
スポーツの境界線は、しばしば政治対立によって作られる。
両国の直接対決が存在しないのは、ユーラシア大陸の2つの連盟による配慮による賜物なのだ。
2度の因縁 米国とイラン
さて、これまで米国の庭以外でも広く行われているサッカーでは代理戦争が発生しやすいということを述べた。
これは世界の警察、米国とて例外ではない。
いくら米国では四大スポーツが盛んで、男子サッカーは人気に劣るとはいえ、それでもコンスタントに本大会出場、たまに決勝トーナメントも狙える実力を持ち合わせるのはやはり超大国たる所以だろうか。
1998年6月21日
グループF フランス・リヨン
米国🇺🇸 1-2 イラン🇮🇷
最初の直接対決は日本のワールドカップ初出場となった1998年フランス大会。
この頃のイランといえば、車椅子に乗ったコダダド・アジジの姿を思い浮かべる方もいるだろう。
絶対的エースのアリ・ダエイやメフディ・マハダビキアを擁する当時のアジア最強軍団と、前回大会開催国だけど国内ではサッカー人気が今ひとつの超大国との組み合わせは、試合前には両チームが集合写真に収まり、花束の贈呈が行われ、政治的緊張とは裏腹に友好ムードでの試合となった。
2022年11月29日
グループB カタール・ドーハ
米国🇺🇸 1-0 イラン🇮🇷
前回のカタール大会でも両国はグループリーグで直接対決している。
この頃にはイラン国内情勢も不安定であった。反スカーフデモに端を発し、本大会で国歌斉唱を行わないなどのトラブルがあり、イラン代表は外患だけでなく内憂にも翻弄される。
一方の米国も、イラン国旗の中央の紋章を消した状態でソーシャルメディアに掲載するなど、その状況は常に緊張感を伴うものであった。
試合はクリスティアン・プリシッチの虎の子の1点を守り切った米国が辛くも勝利。
1998年のリベンジを果たしたどころか、米国代表は崖っぷちの状況から、大逆転で2大会ぶりの決勝トーナメント進出となった。
そして米国は、開催国として2度目のワールドカップイヤーを迎える
2026年2月28日―
ここからはもはや説明不要であろう。
かつてのサッカー不毛の地は、FIFAの手によって巨大なマーケットの中に組み込まれようとしている。
野心家のジャンニ・インファンティーノ政権下では、アジアの伝統的なサッカー強豪国よりも、競技としての公平性の名のもとに市場原理を選択することだってありうる。
ワールドカップ出場を決めた後に参加を辞退するとなれば前代未聞だ。敗退行為と見なされ、重い罰が課される。
前述のユーゴスラビアだって資格を剥奪されたのは欧州限定であり、かの大統領のグリーンランド発言のときも、ドイツは出場辞退をチラつかせつつも決行するまでは至らなかった。
それほどまでに辞退というのは重い選択なのだ。
現在のイランに与えられている選択肢は3つ。
レギュレーション通り米国で試合を行う
メキシコないしはカナダで試合を行う (メキシコが有力)
出場辞退
結論は4月30日までに出さないといけない。もう時間がない。
来月末の選択が、後世にとって汚点とならないことを、痛切に願っている。
2026年4月18日 0時30分追記
情勢は未だ流動的だが、ホルムズ海峡が開放された。
2026年5月1日追記
少なくともインファンティーノはこう言っているが…
2026年6月8日追記
自分がやりたいことをNHKさんがやってくれました。ありがとうNHK。
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