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Ostalgieとメルケル:再統一ドイツの物語

こんなはずじゃなかった―

世界第3位のGDPを誇る欧州の大国。しかし、そこには閉塞感と分断が色濃く残っている。



東西ドイツ時代

冷戦に引き裂かれるドイツ

正式名称をドイツ連邦共和国というこの国が、35年前まで東西に分裂していたことは広く知られているであろう。
1990年10月3日、ドイツ民主共和国の領域を構成していた全ての州がドイツ連邦共和国に加入する、という建付けのもとでドイツにおける東西冷戦の歴史は終わりを告げる。
つまり、「東ドイツという箱の中身が0になった」というのが法的な解釈である。
ちなみに翌年の12月にソビエト連邦が崩壊し、第二次大戦後46年に渡った冷戦の構図は終結するが、実はソ連崩壊も似たような解釈である。
「ソビエト連邦に加入する国が0になった」ということであり、いわゆる「ロシアに詳しい人たち」の言う「ソ連はまだある」の根拠はこれである。
第二次世界大戦での敗戦後、ドイツは米英仏ソの4ヶ国による占領下に置かれるが、その後の西側陣営と東側陣営との方針の違いから冷戦の構造が顕著となり、1949年に東西ドイツは分裂。東部5州+ベルリン市が東ドイツの領域となった。
よくある勘違いとして「ベルリンの壁は国境に沿っている」というものがある。実際のところ戦後のドイツは全土で4ヶ国共同占領であった一方で、ベルリン市内もまた別口で4ヶ国共同占領であった。ベルリン市は周りをブランデンブルク州に囲まれており、ブランデンブルク州はまるまる東ドイツに組み込まれた。つまり、ベルリン市内における米英仏占領エリア(西ベルリン)が東ドイツに囲まれる形で取り残されてしまったというのが実態である。

広がる経済格差と技術格差

とはいえ当初はベルリン市内に壁など存在しなかった。元々は自由に行き来できた東西ベルリンは、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンの死去により転換点を迎える。スターリンの死去に動揺した東ドイツの指導部、それに重なる計画経済の失敗などに伴い、唯一「開かれた国境」であったベルリンから人材流出が相次いだのだ。業を煮やした指導部が1961年8月に突如建設したのがベルリンの壁である。まさに物理的に押さえつけにかかったのだ。自由に移動ができなくなったことにより、東ドイツの人材流出や人口減少は一旦歯止めがかかり、経済成長も伴ってくる。1960~70年代の東ドイツを「社会主義の優等生」と呼ぶ向きもあるが、この言葉は旧ユーゴスラビアなんかにも使われることもあって、実際のところ筆者はあまり真に受けてなかったりする。

この頃の東ドイツの国民車がかの有名なトラバント(Trabant)である。これはドイツ語で「衛星」とか「仲間」とかの意味とのことだが、当時のソ連の人工衛星スプートニク1号からインスパイアされて名付けられたあたり、東側の情勢が色濃く反映されている。
トラバントは壁建設以前の1958年から、東西再統一前夜の1990年まで実に30年以上発売されたが、その間ほとんどモデルチェンジがされなかった。
発売当時は最先端とまでは行かないまでもさほど古臭い車ではなかったのだが、後述する1989年のベルリンの壁崩壊以降東西ベルリンの車が行きかうことで、皮肉にもこの30年間で開いてしまった技術力の差が露呈する結果になってしまった。
その格差は現在も厳然として残っており、現在でも旧東ドイツ住民の月収に西と比べて2割程度低いとか、保有資産は4倍の開きがあるとも言われている。

スポーツにおける東ドイツの矜持

冷戦下のスポーツイベントにおいて最悪の事態となったのが1972年ミュンヘンオリンピック。現在も続くイスラエルとパレスチナの対立から起きた「黒い九月事件」である。パレスチナ人のテロ組織が、イスラエルや西ドイツで拘束されている囚人の解放を要求し、オリンピック開催中の選手村を襲撃したのだ。この事件で主にイスラエルの選手、そして現地警察、犯人らの計17人が亡くなっている。
この頃の社会主義国は、国威発揚の観点からソ連を筆頭にスポーツに力を入れており、東ドイツの獲得メダル数も開催国の西ドイツを上回った。

最終メダル獲得数

  1. ソビエト連邦: 99

  2. アメリカ合衆国: 94

  3. ドイツ民主共和国: 66

  4. ドイツ連邦共和国: 40

  5. 日本: 29

もう一つ東が西に一矢報いたのはやはりかのサッカーW杯、1974年の西ドイツ大会である。

―実は西ベルリンは正確にいうと西ドイツではない。年配の方の中には西ドイツの首都はボンだと憶えている方もいるであろうが、西ドイツの基本スタンスとしてはあくまで首都はベルリンであり、ボンは暫定でしかない。経済都市としてフランクフルトも候補に挙がっていたらしいが、歴史はあれど都市としてはパッとしない(失敬)ボンを敢えて選んだのは、米英仏に対して「ドイツ国民は東西分裂を善しとしてないしあくまでボンは仮住まいだぞ」「ベルリンを拠点としていた前体制(つまりナチスドイツ)とは別物だぞ」というアピールがあったとされる―

そんな経緯から会場の一つに西ベルリンが含まれることに対して東ドイツは猛反発したが、西ベルリンは実質西ドイツの飛び地のようなものなのでこれは大会前に一蹴されている。
この大会では皇帝ことフランツ・ベッケンバウアー、爆撃機と称されたゲルト・ミュラーを擁する地元西ドイツが、トータルフットボールの申し子ヨハン・クライフ、「じゃない方のヨハン」ことニースケンスを擁するオランダを退けて優勝したが、そんな西ドイツに唯一1次リーグで土をつけたのが初出場の東ドイツである。
東ドイツはその後、2次リーグでオランダと同じグループに放り込まれあっさり敗退してしまうのだが、東西ドイツの直接対決はこの後にも先にも存在しない。それどころか東ドイツ代表自体が1974年大会以降、冷戦終結までW杯出場が叶うことはなかった。

東ドイツイレブンはたった1回のチャンスをきっちり仕留めてきたのだ――

ベルリンの壁を巡る物語

旧東ドイツ住民、特に現在の親世代以上を中心に「二級市民」であるという劣等感は拭えないのだというが、東ドイツ出身者の中で実質西ドイツの枠組である統一ドイツでいちばん偉くなった人物がいる。

ドイツ連邦共和国第8代連邦首相 アンゲラ・メルケル

現在のポーランドの領域にルーツを持つ両親のもとで、西側の自由都市ハンブルクで生まれたメルケルは、牧師である父親の都合で生後すぐに東ドイツへ移住。ロシア語と数学に長けた彼女は物理学者としてのキャリアを積み上げていく。
格差がないのが共産主義と言われるが、実際のところ彼女は割と「良いとこの娘」だったようだ。父は宗教家、母は教師で、この時代の共産主義国の国民には珍しく、西側諸国への旅行も許されていた。

良いとこの娘としてアカデミックを邁進する彼女の運命が変わったのは1989年11月9日のこと。

―1971年に書記長(つまり社会主義国における最高権力者)に就任したエーリッヒ・ホーネッカーは、第一次オイルショックを経た後産業構造の転換に失敗し、東ドイツは不況に陥る。この頃東ドイツは西ドイツと実質の国交を結ぶが、実はもうこの頃には東の経済はボロボロで、西からの補助金をまくことで延命させていたということが後に判明している。
先程メルケルの話で触れたとおり、当時の社会主義国では基本的に移動の自由は保障されていないが、それでも1980年代に入るとハンガリーやポーランドといった社会主義国が少しずつ軟化していく。ところが、分裂国家である東ドイツが他の社会主義国と異なっていたのは、「イデオロギーこそが国家のアイデンティティ」であったこと。つまり西ドイツとは違うことに意義があるというのだ。
その結果、秘密警察であるシュタージ(Stasi、ソ連でいうKGB)による統制を強め、西側諸国はおろか東側の国ですら思想が違う国には渡航できないという状況であり、当然東ドイツ国民は不満を溜めまくっていた―

11月9日の夕方。東ドイツ国営テレビには報道局長に就任したばかりのギュンター・シャボフスキーが映し出されていたが、その記者会見がかの有名な「勘違い」を引き起こすとはこの時のメルケルは知らず、一度外出してしまう。自宅に戻って大変なことになっていると気づいたメルケルは、友人と検問所へ向かう。人波に押し出されるようにして西ベルリンに足を踏み入れたメルケルは公衆電話で親族のいるハンブルクへ架電を試みるが一度断念。その後、見ず知らずの一家にお願いし、そこから掛けることができた。
西ベルリンの繁華街へ誘われたメルケルであったが、それを断り東ベルリンへと戻っていった。

シャボフスキーによる勘違い。それはプレスリリース用の文章にあった。「旅行許可に関する出国規制緩和」の会議中に何度か席を外していたことで、正確に内容を把握していなかった。
規制緩和の案ですら当初はかなり制限が残るものであったが、議会の反発などもあり直前になりコロコロ変わるなど、かなり不安定な状態であった上、「翌11月10日から効力を発効する」というものであったが、事情をよくわかっていないシャボフスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、全ての国境からの出国を認める」、しかも「即時」と言ってしまったのだ。

当時の東ドイツは言論統制を敷いていたとはいえ、東西ドイツの国境付近から西ドイツの電波は発射されていたので、東ベルリン市民も東ドイツ国民のほとんども、西側の情報に触れることは容易に可能だった。北緯38度線のようにジャミング電波も出ていなかったのだ。
東西ベルリン市民は当初困惑。西側メディアも続々とその一報を打つ。国境が開かれると聞いた東西ベルリン市民が検問所付近に殺到することになってしまった。

当時、とある検問所の副所長を務めていたのが、かつてシュタージにも所属していたハラルト・イエーガーである。
記者会見の様子をテレビで見ていたイエーガーは突然の発表に耳を疑った。
何度も上司に確認を求めるが埒が明かない。殺到した群衆は止められない。
イエーガーは事態の鎮静化を目的に、最も憤慨している人たちを西側へ通すようにと命令したがもはや焼け石に水である。
これ以上は群衆雪崩が起きかねないと判断したイエーガーは、独断でゲートを開くよう命令。10日の未明に入るとどこからともなくハンマーやつるはしを持った人たちが現れ壁を破壊し始める。こうして、世界史の教科書に載るあの光景が現実になった。

28年間に渡るベルリンの壁による封鎖は、一夜にして突如終わりを告げたのである。

翌1990年、突如有名な落書きが現れる。あのおっさん2人が熱い抱擁と接吻を交わす絵であるが、ここに描かれている片方がホーネッカーである。ちなみにもう片方は、元ネタになった写真当時のソ連書記長レオニード・ブレジネフ。ソ連→ロシアの書記長/大統領についてはかの有名なハゲ→フサフサ→ハゲ→フサフサというアネクドートが存在するがこれは別の機会に。
ちなみにブレジネフはフサフサの方である。


再統一後のドイツ

単なる懐古主義で片付けられないOstalgie

東ドイツの住民は統一後、元々は西側諸国の集まりである欧州連合(EU)と歩調を合わせ、市場経済とグローバリズムの波へと容赦なく飲まれていく。それは形式的に統一されたかといって、格差や葛藤が一朝一夕で解消されるわけではない。

「Ostalgie」という言葉は、英語のEastとNostalgiaにあたるドイツ語のOstとNostalgieを組み合わせた造語である。つまり「東の懐古主義」といったところか。これは肯定的な意味もあり、例えばトラバントやアンペルマンがその象徴だ。懐かしさと可愛らしさをまとった文化的記憶である。

一方、繰り返しにはなるが依然東西での格差は残っているし縮まることもない。東ドイツ時代を知っている人たちは「統一なんてしなければ良かった」と思ってる人までいるそうだ。

メルケルのその後と現在のドイツ

「勘違いの夜」で熱狂に触れたメルケルは、その後アカデミックの先行きに不安をおぼえ、次第に政治活動へと身を投じていく。2005年には東ドイツ出身者として初めて首相にまで上り詰める。
再統一後はかつて「欧州の病人」とまで呼ばれたドイツ経済を、奇跡的な復活に導くなどの実績を残し、首相在任期間はヘルムート・コールに次ぐ歴代2位の首相となる。

メルケルの政策の中で、皮肉にもとりわけ旧東ドイツにおいてすこぶる評判が悪かったのが難民政策である。表向きの理由としてよく言われているのは「治安の悪化」だが、東の住民が憤慨しているのは、生活に余裕がない中で他者に仕事を奪われる感覚からだろう。雇用主からしても、ある程度仕事を選ばない移民の方が使い勝手が良いのだからWin-Winなのである。

ドイツではかつてのナチスドイツ政権に対する反動から、長らくネオナチや極右の台頭はタブー視されてきたが、世界的に内向きな空気が漂う中、ドイツでも近年「ドイツのための選択肢(AfD)」が台頭してきた。先日、本邦でもAfDの党首が参政党の神谷代表と会談を行ったと話題になったので、目にした人も多いだろう。
AfDをはじめとした極右勢力の支持基盤は他でもない旧東側である。
全体主義の世の中を経験してきた住民がその方向を支持してしまうというのはやはりそういうことである。清貧というのは欺瞞であり、生活にゆとりがないと他人のことまで考えてられないのだ。東の雄(女性だが)ことメルケルだって元々は「良いとこの娘」なのだ。

最後に

「昔は良かった」とは言いたくないが、歴史を振り返ると、現代は冷戦終結以降、最も不安定な時期に差し掛かっているように思える。自助努力だけで左右できない状況が存在することは、歴史が教えてくれる。

そんな中、かつての鉄のカーテンに位置するこの欧州の大国の選択に私は注目している。

追記: 私は西ドイツ→統一ドイツの国歌より東ドイツの国歌が好みである。鍵十字もなく、あの独特なプライドの高さも薄く、ただ統一を願ってる感じが良いのだ。

次回記事はこちら


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