作品主義から作家主義へ ─ 「独占契約」によるキャリアマネジメント
📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわっているモネと後妻アリスの関係」を手がかりに、当時のブルジョワ社会の構造を多角的に読み解いています。
🖼️ 今回は「モネの『市場価値』の実像」シリーズ第4回・第2部、美術品の価値の高め方④として、どうして美の商人たちの売り出し方が個々の〈作品〉から〈作家〉へと移っていったのかを探ります。今日、私たちが芸術作品を鑑賞するとき、題名よりも作家名に注目することが多いかと思いますが、その所以にも通じる謎が解き明かされるかのようです。
安定収入と含み益の確保─両者のニーズを叶える「独占契約」
自前の美術雑誌創刊に加えて、デュラン=リュエルの新戦略としてしばしば言及されるのが、将来有望と見込んだ芸術家の作品を先物買いし、囲い込みを行う手法です。

父の代からバルビゾン派の多くの画家たちと独占的な取引関係を築いていたデュラン=リュエルは、これらの“推し”の画家の生活を支えつつ、作品を独占的に先物買いすることで市場を掌握しようとしました。
父から事業を引き継いだ翌1866年に、早速、テオドール・ルソーの絵を一挙に70点、13万フランで購入するという、当時としては前例のない規模の取引をやってのけていることからも、この方針は見て取れます。国際的な市場の可能性をいち早く理解したデュラン=リュエルは、ヨーロッパ各地を旅し、推しの画家たちを紹介して回ったのです。
ただし、こうした「独占契約」は必ずしもデュラン=リュエル特有の手法ではありませんでした。グーピルもまた支援する画家と契約を結び、月給を支給するなどして、作品以上に“作家そのもの”をプロモートしていました。なにしろ120名近い芸術家をアーティスト・レジデンスに迎えていたのですから当然と言えます。彼らの多くはグーピル商会と契約を結んでおり、同商会は作品の独占販売権を持つと同時に、画家たちに安定した収入を保証していました。
物故作家の取引で財をなしたウィーン出身のパリの画商、シャルル・ゼーデルマイヤーに至っては、ハンガリー出身でパリで活躍していた画家ムンカーチ・ミハーイをグーピル商会から引き抜いてきて、あたかも宮廷のお抱え画家のように手厚く保護していました。流行り廃りが加速する当時のフランスの芸術界にあって、いつ絵が売れなくなるかと不安を抱えていた画家にとって、”貴族的”なパトロンのような画商との10年契約は生活保障そのものでした。

流行の移り変わりが激しい当時のフランス芸術界において、安定収入は芸術家にとって貴重な生活保障でした。グーピル商会の契約画家でもあったハンガリー出身のムンカーチ・ミハーイは、物故作家の取引で成功したウィーン出身の画商シャルル・ゼーデルマイヤーと10年間の専属契約を結んでいます。 これは、流行に左右されることへの不安を抱える画家と、彼をまるで宮廷画家のように保護したい画商との需要と供給が一致した結果とも言えるでしょう。画商がアーティストの創作活動に支配的に関わる構図は、ゼーデルマイヤーが封建的パトロネージの現代的継承者として自己演出をしていたことの反映でもあります。
ですから、ここで重要なのは、誰が先に「独占契約」方式を採用したかではなく、なぜ当時の画商たちがそうしたのかを理解することでしょう。
沢山売ってナンボの市場経済─画家&画派ブランディングの効用
審査が厳しくなかなか入選して作品が展示される機会が得られないことで知られたサロンでは、応募するにも作品数が一人あたり最大2点のみに制限されていました。何しろ組織側が対応できないほど応募希望者が増え続けていたからです。
そして、一人2点までの条件下で集まった作品群から入選者や受賞作品などが決められていくため、必然的に重きは作家よりも高く評価された作品に置かれます。
ところが、作品が市場経済のもとで数量制限なく売買されるようになると、個々の作品の価値よりも、作家自身に付随する価値の方が遥かに重要になります。作家の価値が上がれば上がるほど、その作家の作品は何点でも高値で売れるようになるからです。
画商たちが芸術家と長期的な関係を築き、彼の評判を守ることに注力したのもそのためです。そして、だからこそ、自ら推す作家の作品が競売にかかれば、画商たちは価格維持のために進んで買い支え、市場価値を人為的に引き上げようとしたのです。デュラン=リュエルは、「公衆は芸術家の才能や価値を競売での成功によって判断する」とまで述べています。市場倫理上、介入が良いか悪いかは差し置き、無理をしてでも買い支える必要があった所以です。
このように作家主義のもとで、作家個人の評判を確立し、パーソナル・ブランディングを行なっていく流れは、1880年代から急速に増えていく「個展」の開催によっても裏付けされます。

イタリア人画家ジュゼッペ・デ・ニッティスは、パリのコレクターたちから高く評価されており、当初グーピル商会と契約していましたが、わずか2年で契約を解除しています。「イタリア派」の看板作家を失ったグーピルは急遽、彼の画風を模倣できる他のイタリア人画家と契約を結びました。 こうした「国別」「地域別」に画家をカテゴライズする手法は、画風を明示的に打ち出すための販売戦略として有効とみなされていました。
そしてさらに言えば、「印象派」のように作家たちをグループ別にカテゴライズする方式も進んでいきます。「画派」のブランディングをするのです。これはある無名の作家を売り出す際に顧客がその作風やプライスレンジを認識しやすくする、つまり売りやすくするために有効でした──なかでもとりわけ国外で売り出すときに絶大な効果を発揮したのです。
囲い込み合戦の裏で暗躍する画商たち─「独占契約」は専売権ならず
それでは、画商たちは有望な作家を取り込むことに躍起になって、人気作家の取り合い合戦ばかりしていたのでしょうか? もちろん否です。
以前、「散財家のパトロンと商売魂たくましき画家」の回で、作品の値段交渉には容赦なかったモネが、画商同士を競わせてより高値で売る戦略をとっていたことをご紹介しました。実際、モネはデュラン=リュエルと正式な「独占契約」を結んだことはなく、より好条件を提示する画商がいれば、そちらに自由に作品を売るという、あくまで自由な立場を貫いていました。ですから、プティがモネに興味を示すと彼にも作品を直接売りましたし、グーピルの後継ブッソー&ヴァラドン社でパリ支店長に昇格したテオ・ファン・ゴッホが有利な条件を示した際には、相当数をまとめて彼に売却していました。もちろんデュラン=リュエルはモネの囲い込みに躍起になっており、特にテオのアプローチには相当な危機感を持っていたと伝えられています──幸か不幸か、テオの死去によってこの危険はなくなりますが……。

本作は、テオ(テオドール・ファン・ゴッホ)が勤務していたブッソー&ヴァラドン社がモネから買い取った作品です。テオは1886年の最後の印象派展以降、モネを含む多数の印象派作品を購入しており、特にモネが南仏アンティーブで描いたシリーズは積極的に収集されました。彼を通じて取引されたモネ作品は、総計で70点にのぼるといわれています。
ただし、画商たちはこのような専売特許争いにエネルギーを浪費するような愚は犯しませんでした。より良い条件を提示してきた画商に高値で売却できたと喜んでいる作家の背後で、美の商人たちは、外部の者には知られざる賢い方法で利益をさらに伸ばす協力関係を築いていたのです。この、表向きは競合しながらも水面下では互いに協力し合い、より巧みに市場を動かすための“連携体制”とは、いったいどのようなものだったのでしょうか──。
次章では、商魂たくましき美の商人たちがいかにライバル意識を超えて、いかに商売に有利なネットワークを作り上げていたかを探っていきます。ここまで読み進めていただきありがとうございました。
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