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ディーラーネットワーク ─ 表向きはライバル、内輪ではウィンウィンの協力関係

📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわっているモネと後妻アリスの関係」を手がかりに、当時のブルジョワ社会の構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 今回は「モネの『市場価値』の実像」シリーズ第4回・第2部、美術品の価値の高め方⑤として、「独占契約」の真の目的を深掘りしていきます。実はこの「独占」が意味するものは、個々の美術商による特定の作家やその作品の「独占」とは少し違っていたようなのです!



“売れ続ける”ことが価値を生む ─ 美の商人たちの巧妙なる流通操作


将来有望と見込んだ推しの芸術家の作品を独占的に先物買いすることで市場を掌握しようとしたデュラン=リュエル──この画商の先駆性を語る上でよく持ち出される「独占契約体制が、実は彼だけでなく、他の美術商によっても広く行われていたことは、前章「作品主義から作家主義へ ─ 「独占契約」によるキャリアマネジメント」でご紹介しました。
芸術作品の価値を決める場がサロンから市場へと移行したことで、サロンのお墨付きを得た少数の作品よりも、作家を育てて価格を上げ、その作品を数多く売ることの方が、商売上の利益につながったからです。

(左)ミハーイ・ムンカーチ《シャルル・ゼーデルマイアーの肖像》(1879年、65.5 × 81.5 cm、ハンガリー国立美術館)、(右)ジョン・プレスコット・ナイト《アーネスト・ガンバートの肖像》(19世紀、アトキンソン・アートギャラリー)。
美術商たちによる国際的ネットワークには、ウィーン出身のシャルル・ゼーデルマイヤーや、ベルギー出身のアーネスト・ガンバートのように、パリやロンドンを拠点とする多くの「外国人」画商たちが関わっていました。国境を軽やかに越えて活動する彼らは、それぞれの国の嗜好を熟知していたのです。

ただし、画商と作家のあいだで結ばれるこの「独占契約」は、単に契約画廊が特定の作家の作品を独占的に扱うという単純な専売権ではありませんでした。むしろ、より広範な作品流通を統制し、価格を段階的に引き上げ、市場全体の価値体系を総合的に構築するための商業戦略の一環だったのです。
契約画廊が個展やグループ展の開催、カタログや記事の出版、重要なプライベートコレクションや美術館への販売などを優先的に行うことで、画家のキャリアを方向づけ、作品の市場価値を体系的に築きやすくなるからです。

この作業には、複数の画廊による協力体制が欠かせませんでした。なぜなら、作品は実際に取引されてはじめて市場価値を帯びるからです。ある画商が扱う作品が売れないときでも、他の画商のネットワークを通じて流通させれば、販売のチャンスが広がります。不況時であっても、こうしたネットワークが機能していれば、画商同士が取引を続けることで、「流通が止まっていない」という状況を作り出せます。そして、作品が絶えず動いているという事実そのものが、市場にとって「需要のサイン」となり得るのです。

特定の画家と独占契約を結び、定額報酬や生活支援を行うプライマリーディーラー(第一販売者)は、通常、作品の大半を自らの顧客に直接販売します。しかし一部は他の画商(セカンダリーディーラー)に引き渡し、後者は少額のマージンを得て再販を行います。複数の画廊を介することで顧客層が広がり、作家や作品の認知度も高まります。
主たる利益は、経費とリスクを引き受けたプライマリーディーラーが得ますが、セカンダリーディーラーにとっても、ほとんどコストやリスクを負わずに利益を得られる、双方にとって有益な仕組みでした。
こうして画商たちは、それぞれの独占契約を活かしつつ、互いに補完し合うネットワークとして機能していたのです。

知識こそ最大の資本─価値を共有する国際ネットワーク

このネットワークの利点は、単に販売機会が増えることにとどまりません。画廊同士の連携によって、①作品の共同仕入れによる費用・リスクの分散、②価格評価に対する共通認識の形成、③複数の画商を経ることによる真贋・価値保証の信頼性向上──といった効果も生まれました。

ピエール・ボナール《ベルネーム=ジューヌ兄弟》(1920年、166 × 155 cm、オルセー美術館)。
モネが《睡蓮》の第二連作を手がけていた1900年代、近代および現代美術──あるいは批評家ジャック・ド・ガションの言葉を借りれば「明後日の絵画」──の分野では、パリの画廊同士の競争がはっきりと意識されるようになっていました。とはいえ、ベルネーム=ジューヌとデュラン=リュエルは、高額作品に関しては「共同勘定(コンプト・アンサンブル)」方式をとり、共同で作品を購入することもありました。ちなみに、長年デュラン=リュエルのライバルだったジョルジュ・プティの画廊は、1920年のプティの死後、ベルネーム=ジューヌ画廊が同業のエティエンヌ・ビニューとともに買収しています。

共同購入の例としては、以前「連作から装飾画へ ── モネの睡蓮と革新の軌跡」の回でご紹介したように、デュラン=リュエルが競合画商ベルネーム兄弟とともに、モネの《睡蓮》第二連作を共同購入したケースが挙げられます。モネは展覧会に出品予定の新作48点を一括で高値買い取りするよう求めましたが、デュラン=リュエルはその商業的成功に確信を持てず、リスク分散のために他の画商と手を組んだのです。

実際、19世紀後半以降、多くの作品が複数の画商によって共同所有されていました。これにより、より多くの作品を低コストで揃えられるだけでなく、さまざまなコレクターのニーズに柔軟に応えることも可能になりました。こうした仕組みは、特定の作家の作品を安定的に市場へ供給し続けるうえでも有効だったのです。また、複数都市・複数国で同時に販売活動を展開できるため、販売サイクルが短縮され、作品の早期売却も期待できました。

このような販売体制を機能させるには、あらかじめ価格評価に関する合意が欠かせません。国際展開をいち早く進めていたグーピル商会は、1879年に元社員がニューヨークで立ち上げたノードラー商会と契約を結び、アメリカで販売される作品の価格を事前に取り決めていました。価格の不一致によるブランドイメージの毀損を防ぐためです。こうした評価基準の共有は他地域の画廊にも波及し、ブリュッセル、マンチェスター、ニューヨークといった新興市場を巻き込む国際的ネットワークが形成されていきました。そして画商たちは、この知識と情報のネットワークを通じて、市場支配力を一層強めていったのです。

“情報”を制す者、市場を制す ─ アメリカで花開くディーラー・カルテル


複数の画商が連携して流通・販売・価格評価を担う
ことで、彼らは次第に、作品の帰属、真贋、作家のキャリア上の位置づけ、希少性、保存状態、来歴といったあらゆる情報において、圧倒的な専門性と主導権を獲得していきました。これらの知見はそのまま市場評価と価格形成に直結するため、画商は「真贋と価値の保証人」としての地位を確立していきます。

そして、このような「情報の非対称性」から生まれる優位性こそが、画商の最大の武器だったのです。表向きにはライバルとして競い合っているように見える彼らは、実際にはパリ、ロンドン、ブリュッセル、ニューヨークといった拠点を結ぶ緊密なネットワークの中で、作品の購入・流通・価値評価を協調的に管理していたのです。この事実こそが、印象派をはじめとするフランス近代絵画が世界市場で成功するうえで、決定的な役割を果たしていました。

トーマス・ナスト《サミュエル・P・エイヴリー、宝物を海の向こうへ運ぶ》(1875〜1880年頃、40.9 × 26.7 cm、メトロポリタン美術館)。
フランス美術の取引に積極的だったアメリカ人画商の中でも、1867年のパリ万博で芸術部門のコミッショナーを務めたサミュエル・P・エイヴリーは、とりわけパリとの関係が深い存在でした。彼はこの万博でアメリカ作品の輸送と展示を担当し、数か月にわたりフランスの美術市場を調査。その魅力をアメリカ市場にどう活かすかを見極めたとされています。また彼は、メトロポリタン美術館の創設メンバーの一人でもあります。ナストによるこの風刺画には、エイヴリーが丁寧に包装された絵画を携え、大西洋を越えて渡航する姿が描かれています。

とりわけ、知識基盤の脆弱な国外市場──なかでも購買力旺盛なアメリカ市場においては、この“情報の力”が圧倒的な効果を発揮しました。画商たちは情報を操りながら、人々の心に「価値」を生み出していったのです。それはまさに、心理操作という名の錬金術でした。

次章以降では、印象派絵画をはじめとするフランスの近代絵画がどのように輸出されていったのか、画商たちはその価値をどのようにアピールしていったのかをみていきます。とりわけ1880年代以降、大量のフランス近代絵画が「流出」していったアメリカ市場では、画商たちが研鑽した知見が見事に商業目的のマジックとして機能していくのです。

そのことはじめとしてまず、フランス近代絵画がいかにしてアメリカ市場へと輸出され、どのように「買われていった」のかを見ていきます。
なぜ画商たちは数ある国外市場の中でもアメリカを重視したのか──その背景には、19世紀のアメリカが味わったある“屈辱”が深く関わっていました。
お楽しみに。




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