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屈辱の代金 ── アメリカ人がフランス近代絵画を買ったワケ

📘 このシリーズでは、『五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!』というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。

🖼️ 今回は「モネの『市場価値』の実像」シリーズ第4回・第3部。芸術も所詮は嗜好品、市場が変われば“売れ筋”も変わる──というわけで、テーマは「輸出市場での価値の高め方」①。
19世紀後半以降、ヨーロッパから大量の美術品が大西洋を越えてアメリカへと渡りました。なかでもフランス近代美術は、対米輸出の主要品目と呼べるほど盛んに取引されています。
なぜか? そこにはまず、アメリカ側の“屈辱体験”ががありました。



美術品蒐集熱の源泉 ─ 近代消費文化とアメリカ市場の台頭


19世紀後半の美術市場は、真の意味で国際的な広がりを見せ始めていました。
開国により日本の美術品が西洋に大量流出し始めたのも、画商たちの国際ネットワークが形成されたのも、まさにこの時期です。

それは、近代的な消費文化の台頭と軌を一にしていました。技術革新によって工業的な大量生産が可能になり、有産階級の可処分所得が増加。さらに大量輸送網の整備・拡張で流通チャネルが多様化し、小売業が急速に成長したのです。
こうした時代背景があったからこそ、フランスの“没落貴族出身の作家”エドモン・ド・ゴンクールが皮肉まじりに「昨日まで彼らはガラクタ屋にすぎなかった」と評したパリの画商たちは、小規模な小売業者から国際的な起業家へと大きな飛躍を遂げることができたのでした。

ローザ・ボヌール《馬の市》(1853年、245 x 507 cm、メトロポリタン美術館)。
1853年のサロンと1955年のパリ万博に出品された本作は、女性芸術家として初めてレジオンドヌール勲章を受勲したボヌールがその名声を確固たるものとした作品で、当初はフランス政府によって買い上げられていました。しかし、のちにボヌールが回収し、ガンバートに40,000フランで売却。仲介者を経て1866年、アレクサンダー・スチュワートが53,000ドルで購入し、没後に遺族によってメトロポリタン美術館に遺贈されました。

この飛躍を後押しした最大の要因が、当時まだ未開拓だった「アメリカ市場」の出現です。
南北戦争を経て世界的な強国へと変貌を遂げつつあった“新世界”アメリカは、どの国よりも将来性のある魅力的な市場として注目されていました。
急速な産業発展によって莫大な財を築いたアメリカの富豪たちは──作家ヘンリー・ジェイムズの言葉を借りれば──「文化だけがすっぽり抜け落ちている」がゆえに、「購買力」によってその欠如を埋め合わせようとしたのです。
彼らはヨーロッパの名画を買うことで“文化の所有者”となり、前代未聞の高額を支払ってでも「教養」を手に入れようとしていました。

アメリカ人たちの“グランドツアー” ─ 持ちえぬ伝統文化の“発見”


彼らがまず始めたのは、17〜18世紀の英国貴族の子弟にならったヨーロッパへの「グランドツアー」でした。
このヨーロッパ旅行は、裕福なアメリカ人のあいだで大流行します。
しかしその旅は、同時に彼らに痛烈な現実を突きつけることにもなりました。──自分たちの国には「宮殿も、城も、藁葺き屋根の小屋も、蔦の絡まる廃墟も、大聖堂も、文学も、小説も、美術館も、絵もない」ということを。

ジョバンニ・パオロ・パンニーニ《近代ローマの景観を描いた絵画ギャラリー》(1757年、170.2 x 244.5 cm、ボストン美術館、本作はフランス大使としてバチカンに滞在していたショワズール公爵の依頼で制作された4点のうちの1点)。
「グランド・ツアー」は、主に北ヨーロッパ社会の上流階級の若者たちのための教育旅行でした。主な目的地はイタリアで、旅行中に美術品収集なども行い、文化的教養を身につけました。この伝統は後に、富裕なアメリカ人の美術購入行動の背景となっています。

こうした経験は、アメリカで美術館の設立や、美術品の個人寄贈を含む私的慈善活動が活発化する基盤となりました。
そして“海外での買い物好き”で知られるアメリカの富豪たちは、何よりも「文化的ステータスの象徴」として、旅先で見慣れた種類の現代絵画を好んで購入するようになっていきました。
なかでも、革命を経てもなおアカデミーやサロン制度が維持され、美の体系化によって公的に価値づけが行われていたフランス近代美術は、“芸術の都”パリにおけるショッピングアイテムとして欠かせない存在となっていったのです。

当時のパリは、まさに芸術作品が溢れる都市でした。
1860年から1900年のわずか40年間で、フランス人芸術家の数は約190%も増加していたからです。
その豊富な作品供給に加え、美術商たちの活発な取引活動、そしてスペクタクルとしても注目された公設の競売場(ドルオー競売場)の存在が、都市全体を「美術市場」として機能させていました。

こうした背景に加え、アメリカ人の美術品購買欲をさらに刺激することになったのが「万博体験」でした。

「舞踏会に迷い込んだ巨人」の屈辱 ─ 転換点となったパリ万博


南北戦争終結からわずか2年後の1867年、アメリカは晴れて「芸術の聖地パリでの評価を目指して」パリ万国博覧会に臨みました。1855年のパリ万博では、現地留学生からかき集めたわずか10人分の作品しか出展できなかったアメリカでしたが、今回は本国で慎重に選抜された39人の芸術家作品を送り込むなど、その意気込みは並々ならぬものでした。

フレデリック・エドウィン・チャーチ《ナイアガラ》(1857年、101.6 x 229.9 cm、ワシントン・ナショナルギャラリー)。
本作は1867年のパリ万博に目玉として、アルバート・ビアスタット、サンフォード・R・ギフォード、イーストマン・ジョンソン、ウィンスロー・ホーマーらの傑作とともに出品されました。しかし、アメリカが美術部門で獲得したメダルは本作に授与された銀メダルのみ。この屈辱的経験は、アメリカ美術の発展にとって一つの転換点となりました。以後、ヨーロッパ(特にフランス)の様式が全面的な影響力を持つようになり、画家やパトロンたちは文化的な指針を求めて海外へと目を向けるようになるのです。

ところが ── です。自信を持って展示したはずの自国の大物画家たちの作品は、パリでは冷ややかな嘲笑しか受けませんでした。展示作品の半数以上を占めていたのは、アメリカ初の本格的な画派とされるハドソン・リバー派による風景画。多くはすでに本国では高い評価を得ていたものの、無人で静謐なアメリカの風景は、フランスの観衆には時代遅れで退屈なもの、完全に古臭い印象を与えたようです。評論家ウジェーヌ・リンメルは、皮肉を込めてこう書きました。

アメリカは「絵を平方メートル単位で、彫刻を重さで買っていた」時代をようやく脱したものの、「その若く荒々しい体制は、老いたヨーロッパ文明の中では、まるで舞踏会に迷い込んだ巨人のように見える。

結果、産業部門では数多くの賞を獲得し輝かしい成果を上げていたアメリカでしたが、絵画部門で受賞したのはフレデリック・エドウィン・チャーチ《ナイアガラ》に授与された銀メダル一つのみ。その一方で、自画自賛の巧みさにかけては天下一品のフランスは、当時権勢を誇ったサロン画家による歴史画のほか、新たな潮流として台頭していたコローやミレーらの風俗画を数多く展示し、史上最多となる32個ものメダルを獲得していました。

ジャン=フランソワ・ミレー《落穂拾い》(1857年、83.5 × 110 cm、オルセー美術館)。
1867年のパリ万博に出品された本作は、フランス絵画のアメリカへの流出が誰の目にも顕著になっていた1890年に売りに出されましたが、流出を食い止めるべく女性実業家ポメリー夫人が30万フランで購入。ルーヴル美術館に寄贈しました。


アメリカのリベンジ購入 ─ フランス近代絵画が買われた理由


列強の仲間入りを果たしたい新興国アメリカにとって、この経験は非常に屈辱的なものでした。アメリカの批評家たちは、フランス絵画の好評ぶりに押され、「風俗画こそが芸術の頂点」であり、「まさにこの分野でアメリカ絵画は最も弱い」と反省するに至ります。そして、この屈辱から再起するためには「世界に君臨するフランスの趣味(テイスト)に倣うしかない」と決意するのです。

こうしてアメリカ人たちは、万博で目にしたフランス絵画を「お手本」として、次々に入手していきました。1884年の『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、「アメリカ人によるフランス絵画の購入額は、1877年の70万1000ドルから、1882年には199万7000ドルに達した」と報じています。わずか5年間で約3倍に増えた計算です。これを裏付けるように、1880年にアメリカ人画家ヘンリー・ベーコンが『スクリブナー・マンスリー』誌に寄稿した「パリの一瞥」には、次のように述べています。

かつて画家たちが待ち望んでいた絵画の買い手といえばイギリス人だったが、今やほとんどの画家が作品を描いているのは『金持ちのアメリカ人』のためである。

実際、1880年までに、アメリカの大富豪たちは、ジャン=レオン・ジェローム、ウィリアム=アドルフ・ブグロー、エルネスト・メソニエ、ポール・ドラローシュ、ジャン=バティスト=カミーユ・コローといった当時最も著名なフランスの画家たちの絵画や版画で自らの邸宅を飾り、アート市場においてその経済力を大いに発揮するようになっていたのです。

ウイリアム・ブグロー《収穫の帰り》(1878年、241,3 x 170,1 cm、カマー美術館)。
本作はアメリカの実業家アレクサンダー・スチュワートが1874年、「裸体画でない」「画家の最高傑作となる」作品を描くようブグローに注文したものです。サロンの大御所画家にお手本とすべきフランス絵画、しかし快楽的すぎないという注文をつけた点は、当時のアメリカ人コレクターの嗜好を表すものとして注目されます。また、それで完成した絵画が田園風景を背景とする人々を描いた風俗画であった点は、歴史画を頂点とするアカデミズムが、アカデミーの画家自らによって市場向けに変えられていっていたことを示す作品としても興味深い逸品です。

次章では、アメリカの富豪たちの旺盛な美術品購買欲を背景に、フランスの美術商たちがどのように「新世界」市場へ進出していったかを深掘りしてみたいと思います。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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