モネの初個展を開いたのは、まさかの出版人? ── 採算度外視で印象派を支えたシャルパンティエ夫妻
📘 このシリーズでは、『五郎さんがえらくこだわってるモネと後妻アリスの関係、👉 深掘りしてみたら… 当時のブルジョワ社会の解像度が格段に上がった!』というテーマを軸に、モネをとりまく人間関係・経済・社会構造を多角的に読み解いています。
🖼️ 今回はちょっと寄り道番外編として、先日五郎さんがアップされていた「ルノワールが売れたきっかけの絵!?…」の回で取り上げられていたシャルパンティエ一家について深掘りしてみたいと思います。実はシャルパンティエ氏、出版人でありながら、画商たちに先駆けて無償で印象派画家たちの個展を開催していたのです!
芸術は営利にあらず! ー 真の芸術愛好家、シャルパンティエ夫妻
印象派がまだ「嘲笑の的」でしかなく、作品もほとんど売れなかった1870年代。そんな時代に、若き画家たちの創作と生活を支え、新しい絵画を世に送り出そうと、献身的に尽力した人々がいました。

ジョルジュ・シャルパンティエ夫妻です。出版人だった彼は、社交界に通じた妻マルグリットとともに、夫婦そろってこの芸術運動に共鳴 ── 当時としてはきわめて稀なことでした。彼らは単なるコレクターにとどまらず、画家たちと私的なつながりを築き、営利とは無縁の支援を続けました。その姿勢は、作品を“売る”ことに奔走した画商たちとは一線を画します。まさに、信念を持った芸術愛好家といえるでしょう。
<ゾラを発掘した二代目経営者が、印象派のパトロンになるまで>
ジョルジュ・シャルパンティエ氏は1846年、パリに生まれました。父ジェルヴェは出版社を経営しており、彼はその跡取りです。
1871年にマルグリット夫人と結婚。翌年には父の逝去により、出版社の経営を引き継ぐことになります。

(右)1838年に「シャルパンティエ文庫」として出版されたバルザックの『結婚の生理学』の中表紙(仏国立図書館)。
父ジェルヴェは、一代で身を起こし、“文庫本の父”として一時代を築いた人物です。出版不況の時代に、2〜3巻の八つ折版の内容を1巻にまとめられる新しい小型書籍サイズを開発し、一般的な本の値段が7〜7.5フランだった時代に、1冊3.5フランという破格で発売。大量生産・大量販売モデルで大成功を収めたのです。
当時の優秀な労働者の1日分の賃金に相当する絶妙な価格設定と、一目で認識できる厚紙の黄色いカバー、400を超える豊富なタイトル数によって、この「シャルパンティエ文庫」は大変な人気を博したといいます。
もっとも、これだけの業績を一代で成し遂げた人物だけに、気難しく意志の強い性格でも知られており、文学的なボヘミアン生活を送っていた息子ジョルジュには冷淡だったようです。息子はビジネスに向かないと判断したのか、遺言には別の人物に経営を任せるよう指示していました。ところが、この人物が1872年、早々に経営を辞退。はからずもジョルジュに経営権が巡ってきたのです。
本人は文筆家を名乗っていましたが、実際には「作品よりも借金の方が多かった」とも言われています。

とはいえジョルジュは、新たなパートナーの支援を得て、シャルパンティエ文庫の経営を引き継ぎます。当時はまだ無名に近かったエミール・ゾラに目をつけ、公式出版者として彼の全作品を刊行。ゾラを文学的指導者のような存在に仕立てるという「最初の成功」を収めます。
1873年にはフローベールを迎え入れ、さらにモーパッサンやドーデ、ゴンクール兄弟、ユイスマンスらの作品も出版するなど、自然主義文学の出版者として確固たる地位を築いていきました。
そんなシャルパンティエ氏が印象派の絵画を収集し始めたのは、1875年からのこと。競売でルノワールの《釣り人》(180フラン)ほか2点を購入したのが、この新しい絵画のムーヴメントに興味を持った契機となったようです。
若い頃から芸術に傾倒していた彼は、文学にも造詣が深く、画家を志したことすらあったといいます。サロンや劇場に足繁く通い、パリの芸術シーンに精通していた彼にとって、印象派との出会いは必然だったのかもしれません。

本作は1875年の競売でシャルパンティエ氏が購入したルノワール作品3点のうちのひとつです。
以降、シャルパンティエ氏はルノワールはもちろんのこと、当時なかなか買い手がつかなかった他の印象派画家たちの作品も多数購入し始めます。
<私邸サロンを通じて新進気鋭の画家たちに交流の場を提供した夫人>
一方、マルグリット夫人は社交界でよく知られた存在でした。
結婚直後から自宅で開いていたサロンには、文学者や芸術家、政治家、実業家たちが集い、パリでも有数の“知的サロン”として注目を集めていました。
彼女は夫と同様、いや夫以上に芸術に理解を示し、芸術家たちへの支援を惜しみませんでした。ルノワールは自嘲気味に「シャルパンティエ夫人のお抱え画家」を名乗っていたほど、夫人と懇意にしていたのです。
仕立て屋の息子として育ったルノワールにとって、自身の作品を深く理解し、好意的に受け入れてくれるこの教養ある大ブルジョワの女性は、まさに理想的な支援者でした。


それもそのはず。マルグリット夫人は、第二帝政期にヴァンドーム広場で王室御用達の宝石店を営んでいたアレクサンドル=ガブリエル・ルモニエ氏の娘。ナポレオン3世の皇后ウジェニーの王冠やティアラも手がけた大宝石商の家に生まれ、格式あるブルジョワジーとして教養と社交界のマナーを完璧に身につけた女性でした。
音楽と文学に親しみながら育った彼女のサロンは、芸術家たちにとって貴重な交流の場となっていきます。
そこには、のちにシャルパンティエ社から著作が刊行されるクレマンソーやガンベッタといった共和派の大物政治家、すでに出版契約のある作家たち、美術評論家のテオドール・デュレ、さらにモネの初期の支援者である実業家エルネスト・オシュデ氏らの姿も見られました。
つまり、このサロンは、若手画家にとっては作品を買ってくれるかもしれないパトロンたちと直接つながれる、きわめて実り多い場だったのです。

画家たちがこのサロンに出入りし始めたのは、シャルパンティエ氏がルノワールの作品を購入した1875年以降、1880年ごろにかけてのこと。
当時、社交界で人気を博していた肖像画家カルロス=デュラン、第一回印象派展の参加者であるイタリア人画家デ・ニッティス、さらには彼らの友人マネ──彼は夫人の妹イザベル・ルモニエ嬢を非常に気に入り、彼女の肖像を何点も残しています──そしてルノワールと並んで、モネ、時にはドガ、シスレー、カイユボットまでもがこのサロンに顔を出していました。
<ルノワールの成功とモネの苦境 : シャルパンティエが開いた道>
1875年、ジョルジュ氏による競売での初購入以降、ルノワールはマルグリット夫人から複数の肖像画を受注することに成功していました。まだ印象派の絵画を買うような“物好き”がほとんどいなかった時代のことです。

本作は同年5月にシャルパンティエ氏がモネから直接購入した作品の一つです。
モネもさっそく、夫妻に作品の購入を働きかけます。その甲斐あってか、1876年5月には複数の作品をシャルパンティエ氏に買い上げてもらうという、願ってもない機会に恵まれました。ただし、それ以降の購入はなかなか実現しません。
たとえば、ドルオーの競売で言及された《雪の中の列車 ― 機関車》については、何度も働きかけており、夫妻の訪問を促す手紙もしたためています。しかし、結局のところ購入には至りませんでした。ゾラ宛の手紙からも、「シャルパンティエ氏が絵を買ってくれたら、相当助かるのだけれど」と、モネのぼやきが聞こえてきます。

モネの熱心な売り込みにもかかわらず、本作を購入したのはシャルパンティエ夫人ではなく、初期からの常連顧客であったド・ベリオ医師でした。
こうしてシャルパンティエ夫妻による購入は止まったまま、モネは苦しい年月を歩むことになります。何しろ、最大のパトロンだったオシュデ氏は1878年に破産。その後、モネ家とオシュデ家は、なぜかヴェトゥイユで共同生活を始めますが、家計は逼迫する一方でした。
さらに1879年には、モネの妻カミーユが長い闘病の末に他界。残されたモネと2人の息子は、破産した元パトロンの妻アリスと6人の子どもたちとともに、ヴェトゥイユの家で暮らし続けます。一方、アリスの夫オシュデ氏は再起をかけてパリで生活。モネとオシュデの関係がぎくしゃくし始めるのも、時間の問題でした。1880年初頭には、「妻を失った画家と、夫不在の家族が共に暮らしている」というこの奇妙な生活が、ついに新聞で取り沙汰されるまでに至ります。

一方そのころ、ルノワールはシャルパンティエ家から数々の肖像画を依頼され、ますます夫人の“お気に入り画家”としての地位を確立していました。彼は1878年の第4回印象派展への不参加を決め、この年に完成させた大作《シャルパンティエ夫人と子供たち》を携えて、翌1879年のサロンに出品。見事、大成功を収めます。
モネがこれに刺激されないはずがありません。「我も続かん!」とばかりに、1880年のサロンに2作品を出品。そのうちの1点、《ラヴァクール》が入選し、無事サロンへの“復帰”を果たしました。このモネの「転向」は、印象派仲間の間で一種の裏切りと受け取られ、とりわけドガとの間に亀裂を生むことになりますが、ルノワールはこれを歓迎していたようです。

1880年のサロンに提出された2点のうち、唯一入選した作品です。
そしてちょうどそのころ、モネにシャルパンティエ氏から再び声がかかったのです。──なんと、個展開催という、願ってもない申し出でした。
そうなのです。一般には、モネの初個展は1883年、画商デュラン=リュエルによって開かれたとされています。しかし実際には、それよりも3年も早く、出版者として芸術振興にも力を注いでいたジョルジュ・シャルパンティエ氏が、すでにモネ展を開催していたのです!
画商に先行? ー 雑誌と併設ギャラリーで印象派を”推し活”!
<高級文芸雑誌が新たな芸術を開拓していく先導者となる時>
1879年4月、シャルパンティエ氏は「芸術誌特有の魅力に加えて、時事雑誌としての魅力も備えた、文芸・芸術の挿絵入り週刊誌」『ラ・ヴィ・モデルヌ』を創刊しました。このブルジョワ層向け高級志向の雑誌は、美術に多くのページを割き、多数の芸術家を紹介・擁護しています。革新や探求に好意的な進歩的立場をとる同誌は、印象派のような新しい絵画にも共感を示していましたが、同時に、サロンで活躍するアカデミック絵画の画家たちにも目配りし、その挿絵を掲載しています。

つまり、新しさを取り入れつつも、読者を過度に刺激しないように配慮し、「中庸」な立場を保ちながら啓蒙的であろうとする姿勢がうかがえます。
こうした姿勢の延長として、同誌が何より画期的だったのは、文章や挿絵といった雑誌固有のコミュニケーション手段に加えて、実際の芸術作品に触れられるギャラリーを併設したことです(これは夫人の発案とされています)。展示スペースは小規模ながらも、芸術家と愛好家との接点を増やす目的で開設されたもので、展示方法としては、一人の芸術家の作品だけを集めて展示するという、当時としては非常に目新しい「個展」の方法を導入していました。
この雑誌と連携して設けられたギャラリーについて、創刊号はその目的と背景を次のように説明しています。

パリの中心地に、展示に適した整ったペースを所有していることから、『ラ・ヴィ・モデルヌ』誌の創設者たちは、ごく自然な流れとしてそこに芸術展を設けることにしました。ここで開催されることになる一連の展覧会は、それぞれ一人の芸術家の作品だけを集めている点が特徴です。そこでは手間をかけて完成された「サロン」向けの絵画の隣に、より即興的な習作や、鉛筆や木炭で一気に描かれたスケッチなどが並ぶことになります。
私たちはこれまで、どれほど多くの美術愛好家が芸術家のアトリエを訪れたいと望みながらも、購入希望者であるかのように装わなければならないのではないか、あるいは共通の知人からの紹介がない限り訪問は難しいのではないか、とためらい、結局訪問できずにいるのかを、目の当たりにしてきました。
私たちの展覧会は、まさにそうしたアトリエを一時的に大通りに開いたような空間として、誰もが自由に出入りできる場にします。ご関心のある方は、好きなときに気兼ねなく足を運んでいただけます。知りたいことがあれば、それは売り込みを急ぐ画商でも、冷ややかな第三者でもなく、営利とは無縁で、誠実に応対する仲介者を通して得られるでしょう。芸術家と愛好家は、きっとこの展覧会に通ううちに、自然と関係を深め、有益なつながりを育んでいくはずです。
この創刊号の文章を執筆したのは、ジャーナリストであり、ルノワールの弟でもあるエドモン・ルノワールです。彼は同年6月、兄ルノワールの画業を紹介する記事を寄稿。それに合わせて、兄の初個展が、同誌編集部に近接するパッサージュ・デ・プランス入口のギャラリーで開催されました。
同様に、1880年4月には、マネの才能を称える記事が掲載され、それと連動する形で、マネの個展も同ギャラリーで開かれています。

ロシュシュアール大通りにあったレイシュホッフェンのキャバレーを舞台にした本作は、1880年に《ラ・ヴィ・モデルヌ》併設ギャラリーで行われたマネの個展に出品されました。
<チャンス到来!:初個展で見せたモネの驚くべき自己演出力>
そしてついに1880年6月、モネにも、ついにこの小さなギャラリースペースで個展を開催する機会が巡ってきました。この開催には、恐らくルノワールの後押しがあったと考えられています。モネ自身がそれを知っていたかどうかは定かではありませんが、こんなチャンスをモノにしないわけにはいきません。モネは持ち前の商才を発揮してこの機会を自分の名声確立のために最大限活用しようとします。

この展覧会に先立ち、『ラ・ヴィ・モデルヌ』の編集者からの申し出で、モネは同誌の寄稿者によるインタビューをヴェトゥイユで受けます。このインタビュー記事は6月12日号に掲載され、当時のモネのヴェトゥイユでの生活を垣間見る手がかりを与えてくれますが、この記事で何よりも注目すべきは、モネの驚くべき自己演出力でしょう。
インタビューを通じて、モネはまず「『印象派』という言葉を作ったのは、たぶん私だ」と語り、自分を「典型的な印象派」と位置付けます。「私が出品したある作品を見て、ル・シャリヴァリ紙の記者があの火種のような言葉を生み出したんだから」、「私は印象派そのものだ」と自負してみせたのです。
次に「戸外制作にすべてを捧げる画家」としてのイメージ形成も抜かりなく行います。この場面はインタビューの白眉でもありますが、モネは「アトリエを見せてほしい」と言われた時、こう即答したのです。
「アトリエ? 私には『アトリエ』など『一度も』なかったし、部屋に閉じこもって絵を描くという考えが理解できない。デッサンならまだしも、絵画には不向きだ。」
こう言い切ったモネは、セーヌ川と丘陵、そしてヴェトゥイユ全体を手で指し示しながら、「これが私のアトリエだ!」と、まるで演劇の一幕のように言い放ったのです!
事実、こういったモネの過剰とも思える自己演出に、すでにモネのサロン復帰で気を悪くしていたドガは、「狂気じみた自己宣伝」だと苛立ちを隠さなかったそうです。

「これが私のアトリエだ!」とモネが指し示したヴェトゥイユの風景は、この作品のような光景だったのでしょうか?
いずれにせよ、これがモネが演出したかった自分のイメージでした。展覧会カタログ序文を担当した美術批評家のデュレも、この姿勢をなぞっています。曰く、「モネには、下絵の乱用も、アトリエ内で使う鉛筆や水彩もない。自然の風景の前で、油絵で直接描き始め、その場で仕上げる。自然に触発され、直接的に解釈し、再現するのだ」。
<自己演出の背後で:「売れ残り」を超高額で購入したシャルパンティエ夫人>
この展覧会のカタログは50サンチームで販売されていましたが、「客たちは笑いに来るだけで、買おうとはしなかった」と言われています。その様子に苛立ったシャルパンティエ氏は、「展覧会を少しでも記憶に残してもらおうと、通行人に無料でパンフレットを配った」という逸話すら残っています。
しかし、そうした言い伝えとは裏腹に、モネのインタビューが掲載された翌週の『ラ・ヴィ・モデルヌ』1880年6月19日号では、「この展覧会はパリの美術愛好家の間で非常に好評を博し、初日にはほとんどの作品が売約済みとなった」と報じられました。とはいえ、展示された18点のうち実に17点は、すでに所有者のいる貸与作品でした。この表現は、誤解を招く可能性が高いと言えるでしょう。

シャルパンティエ夫人が同年にモネから分割払いで購入した本作は、サロンに提出されるも落選しました。
唯一、貸与作品でなかったのが、モネが同年のサロンに提出した2点のうち、落選した《氷の崩壊》です。この作品について「売約済み」とされたのは、あながち虚偽とは言えませんが、実際に購入を申し出たのは、モネの経済的困窮を察していたシャルパンティエ夫人でした。夫人は1880年6月22日付の手紙で、次のようにモネに伝えています。
「私の夫はあなたの大作《氷の崩壊》をたいへん欲しがっております。私は自分の貯金から彼にそれを贈りたいのです。交渉ごとは好みませんが、2000フランを支払う余裕はございません。私の条件をお受けいただけるでしょうか? 1500フラン、三回の分割払いで。10月14日に500フラン、1月14日に500フラン、そして1881年4月14日に残りの500フランをお支払いするという形で…」
この手紙から、モネは《氷の崩壊》に2,000フランの値をつけていたことがわかります。モネの1881年の作品平均単価は600フランほどでしたから、これは驚くほど強気な価格設定とも言えます。ただし、シャルパンティエ夫妻が印象派の支援者として、作品に破格の値段を支払っていたことを考えれば、あらかじめそれを見越した上での戦略的な金額だったとも推測されます。
実際、ルノワールは自作が画廊で80フランで売られていた時期に、自らが1878年に描いたシャルパンティエ夫人の肖像画には1000フランが支払われたと語っています。

営利化された理想 ー 支援者のアイデアが画商に転用されるとき
<時代の趨勢に翻弄される芸術のパトロンたち>
このように、シャルパンティエ夫妻は採算を度外視して、印象派の画家たちを支援していました。彼らは利益よりも信念を優先し、「売るため」ではなく「広めるため」のプロモーションに尽力していたのです。
さらに言えば、シャルパンティエ氏が言論・芸術を担う出版業界の人間だったことも関係していたでしょう(あの、金銭に対して非常に厳格だったことで知られるフロベールでさえ、彼を「編集者の天使」と呼んでいたほどです)。一方、夫人は莫大な財産をもつ宝石商の家系に生まれ育ち、豊かな教養を身につけた人物でした。こうした背景があったからこそ、彼らの支援は「投資」ではなく、「志」だったのです。
とはいえ、出版業の経営が厳しさを増すにつれ、夫妻も次第に購入というかたちで画家たちを支えることが難しくなっていきました。
モネの初個展からほどなくして、シャルパンティエ氏は多額の借金を抱え、深刻な財政難に直面します。それ以前から彼は政治家などに出資を求めていましたが、思うような成果は得られず、1881年ごろから出版社自体にも経営難の兆しが見え始めていました。原因としては、返済能力を超えた借入や不動産投資の失敗などが挙げられています。
とはいえ、そもそも彼は理想を追い求める、やや夢想的なディレッタントであり、経営よりも芸術への情熱を優先する人物でした。冷徹で手腕に長けた初代経営者の父ジェルヴェとは対照的だったのです。

モデルのマルゴとともに描かれているルノワールの弟エドモンは、『ラ・ヴィ・モデルヌ』で芸術欄と併設ギャラリーを担当していました。のちに同誌を離れ、『イリュストラシオン』や『ル・フィガロ』文芸別冊など、政治を扱わない分野でジャーナリストとして活動を続けます。
それでも当初は自立を守ろうと、同業者からの共同経営の提案を断り、土地や絵画を売却してまで借金返済に努めました。しかしその努力もむなしく、1883年には『ラ・ヴィ・モデルヌ』の運営から離れ、併設されていたギャラリーも幕を閉じます。翌1884年には、シャルル・マルポンとエルネスト・フラマリオンによって経営権が正式に買収され、シャルパンティエ社は共同経営へと移行しました。
1885年にはゾラの『ジェルミナル』の大ヒットによって一時は再び注目を集めることもありましたが、シャルパンティエの華やかな時代は、すでに静かに終わりを迎えていたのです。
<画商たちに転用されていったプロモーション・メソッド>
このように、シャルパンティエ夫妻による印象派支援は短命に終わりました。しかし、1870年代後半という、印象派の画家たちが作品が売れず最も苦しい生活を強いられていた時期に、夫妻のような親身な支援者がいたことは、画家たちにとって本当に幸運なことでした。
1880年代以降、画商たちの活動が活発化し、作品価格も高騰していきました。経済力が衰えて以降、シャルパンティエ夫妻の作品購入は控えられるようになりますが、それでも芸術愛好者としての姿勢は変わらず、支援は形を変えて続けられました。ルノワールやシスレーとは長く書簡を交わしていましたし、求められればコレクションの絵画を貸し出すことも厭いませんでした。実際、1880年代以降は画廊での展覧会が頻繁に開かれるようになっていたため、印象派画家たちは、よく夫妻のコレクションから初期作品を借用していたのです。


注目すべきは、印象派をより多くの人々に届けたいという夫妻の思いから始まったプロモーション・メソッドが、のちに画商たちによって商用に転用されていったことです。画商たちはそれらを巧みに用いて、推す画家の価値を高め、高額で売り込むための装置として活用していったのです。すなわち──雑誌による啓蒙やオピニオン誘導、「印象派の画家」といった流派のカテゴライズ、そして作家個人を打ち出す「個展」という手法です。
では、これらの手法がどのようにして「市場価値」を築き上げていったのか──「モネの「市場価値」の実像」シリーズに戻って、解き明かしていきたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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