世論を動かす啓蒙装置 ─ メディアによるプロモーション戦略
📘 このシリーズでは、「五郎さんがえらくこだわっているモネと後妻アリスの関係」を手がかりに、当時のブルジョワ社会の構造を多角的に読み解いています。
🖼️ 今回は「モネの『市場価値』の実像」シリーズ第4回・第2部、美術品の価値の高め方③として、美の商人たちがどのように〈世論を動かす装置〉であるメディアを使って啓蒙活動を行い、販売プロモーションへ繋げていったかを見ていきます。
「流行」を創る装置─メディアが導く世論と市場の関係
展示“空間”の巧みな演出によって、商品である芸術作品をいかに高尚に見せるかを競った美の商人たちは、芸術的価値の評価を形成する“言論空間”においても、作品が羨望の的となるように“推し”の装置を仕掛けていました。それは、単に顧客の嗜好に応じて品揃えを調整するような受動的なビジネスではなく、いかに世論そのものを育て──あるいは操作して──、推しの商品価値を上げていくかを見据えた、メディア戦略という名の「啓蒙活動」だったのです。

数多くの風刺画を描いたドーミエは、サロン会場を歩きながらメモを取り、これから執筆する記事の準備をする美術批評家の姿を描いています。19世紀後半、新聞・雑誌の発行が急速に増えるのに伴い、多くの美術批評家が登場しました。
こうした活動は、美術が市場の商品となる過程で、ある意味、必然のことでした。というのも、市場経済は発展のために、常に変化と流行を求める性質を持つからです。それは美術市場においても例外ではなく、美術商たちがビジネスを継続していくためには、つねに新しい作品に新たな価値を与え、それを社会に提示し続ける必要があったのです。
とりわけ19世紀は活字メディアの発展が目覚ましかった時代でした。モネの初期のパトロンであり、後妻アリスの元夫であったオシュデ氏が、破産後に転向しようとした美術批評という分野も、この時期に大いに発展を見せました。サロン評が各新聞雑誌を賑わせていたこの時代にあって、美の商人たちが活字メディアを販売促進に利用しないはずがありませんでした。
もっとも、取り扱う美術品や客層、商売のスタイルがそれぞれ異なるように、メディア戦略にも各美術商の個性と特徴が表れていました。
豪華図録で価値を増幅─自社の印刷技術で仕掛けるグーピル商会
複製版画の制作・販売から絵画の取引へと事業を拡大したグーピル商会は、自社の出版物を活用して、取り扱い作品の価値を高めていきました。
創始者のアドルフ・グーピルは、娘婿にサロンの重鎮ジャン=レオン・ジェロームを迎えるほど、サロンとの結びつきが強固でした。彼の商会は、選抜制の厳しいサロンで高い評価や人気を得た作品を優先的に扱い、推しの作家作品を会場で有利に展示できる特権さえも持っていました。したがって、当時のプレス界で盛んに掲載されたサロン評は、グーピルの意図的な操作の有無にかかわらず、結果として商会の売上を大いに後押ししたことでしょう。

グーピルは早くから写真技術が複製に与える技術的・商業的メリットに注目し、1856年には写真工房を開設しました。やがて画像生産の機械化の進展に伴いフォトグラヴュール(写真凹版印刷)が開発され、質の高い大量印刷が可能になり、広く一般に評価されました。さらに1880年代には、タイポグラヴュールやクロモタイポグラヴュールが用いられ、より安価で大衆向けの印刷物の制作も可能となりました。
ただし、グーピルは常に先を見通し、攻めの経営を実践する人物です。自社には写真やフォトグラヴュールといった革新的技術を備える印刷工房があったため、これを宣伝活動に活用しないはずがありません。売れ筋作品の版画複製を制作するのみならず、自社所属の画家たちの代表作を、贅を尽くした写真図録として複製・出版し、世に送り出しました。
つまり、サロンという狭き門をくぐり抜けた自社の“推し画家”たちの格を、豪華図録によってさらに強化しようとしたのです。サロンの選抜性の高さを逆手に取った、実に巧みなプロモーション戦略といえるでしょう。
ちなみに、父フランシスの代に版画印刷業から画商へと転じたジョルジュ・プティも、グーピルの手法を継承していました。彼もまた、オリジナル作品と高品質な複製版画の双方を扱い、1890年代からの経営多角化の一環として、新たに複製印刷ビジネスを展開します。
プティは、父の代から競売における鑑定人も務めていたため、有名作品の複製版画に加え、競売用のコレクション・カタログも多数制作していました。これらは新聞・雑誌のような媒体とは異なるものの、相当部数が印刷され、競売参加者が必ず手に取る重要な活字メディアでした。
そしてそのカタログの完成度こそが、競売の成否を左右し、最終的な落札価格をも決定づける要因のひとつだったのです。

一般紙こそ最強の広告塔─プティ流「話題づくり」の技法
トレンド創出に長けた社交人ジョルジュ・プティが、メディア戦略で発揮した真の才能は、“宣伝”のためのプレス界の人材活用術にありました。
彼は、新聞『ジル・ブラス』が「リュ・ド・セーズの宮殿」と称した豪華ギャラリーの開館イベントを皮切りに、注目の展覧会や名コレクションの競売など、メディアが飛びつく話題を巧みに提供し続けたのです。そして彼は、美術専門誌の限られた購読者層よりも、大手新聞社の著名ライターによる発信こそが、最も効果的な宣伝になることを熟知していました。
たとえば展覧会前夜の内覧会では、有名な美術評論家アルベール・ヴォルフが『ル・フィガロ』紙のために、会場の一角──プティ・ギャラリーの会計室──を陣取り、まるで実況中継のように記事を執筆するのが通例でした。翌朝の紙面には「誰が来場し、どの作品が注目を集めたか」「どのコレクターがどの名作を購入したか」といった記事が並び、社交界と美術界双方の話題を独占します。
そして、記事を朝イチで読んで昼前に慌てて残りを買いに走った投機家たちに、プティは決まってこう告げるのです──「あいにく、もうすべて売れてしまいました」と。
相手の欲望を喚起し、それを販売行為へと転化させる巧みさにおいて、プティの右に出る者はいなかったといえるでしょう。

(右)オクターヴ・ミルボー(1848-1917、撮影年不詳、撮影:シャルル・ジェルシェル、タッカーコレクション)。
プティが常にライバル視していたデュラン=リュエルは、このようなメディア活用法において、明らかに遅れをとっていました。
1883年、彼がモネの個展を開催した背景には、プティに惹かれ始めていたモネを引き留める意図があったといわれます。ところが、こともあろうに前宣伝や批評家への働きかけが手薄なままオープニングを迎えてしまったのです。
このため、観客動員・記事掲載ともに振るわず、モネを激怒させてしまいました。画家が何度も抗議を重ねたことでようやく広報活動が本格化し、遅ればせながら記事数や観客数が増え始める──という失態を犯してしまったのです。
とはいえ、デュラン=リュエルはこの「失敗」から重要な教訓を得ます。
すなわち、批評家に情報を提供し、彼らを“教育”した上で新聞・雑誌に記事を書かせることが、最も効果的なビジネス戦略であるということです。そして彼は早速、モネに強力な“インフルエンサー”を引き合わせます。
こうして1884年11月に発表されたのが、風刺文で知られる人気作家オクターヴ・ミルボーによる、モネの評価を決定づける礼賛記事でした。
執筆者のミルボーは美術評論家ではありませんでしたが、その名が持つ影響力は絶大でした。しかも、記事が掲載されたのは美術専門誌ではなく、保守的な読者層を持つ新聞『ラ・フランス』。
その波及効果は極めて大きく、モネの名を一気に世に広める契機となったのです。

以後、デュラン=リュエルはこの方式を国外でも応用していきます。美術雑誌に派手な広告を出すよりも、有力紙に記事を書いてもらうことを重視し、批評家や新聞記者に対して積極的に情報提供を行いました。彼の広報戦略は、芸術と市場を結びつける“啓蒙装置”として、確実に進化していったのです。
“推し”の物語化─デュラン=リュエルのパーソナル・ブランディング戦略
とはいえ、デュラン=リュエルには以前から、派手な宣伝効果よりも重視していたことがありました。──それは、自前の活字メディアによる言論誘導です。彼は印象派を「発見」する以前の1869年という早い時期から、展覧会の解説、芸術家の批評、競売情報など、美術界のあらゆる話題を網羅した雑誌『ラ・レヴュ・アンテルナショナル・ド・ラール・エ・ド・ラ・キュリオジテ』(年2回刊)を創刊していました。
現代絵画における“大投機”の兆候をいち早く察知した画商が、それに即応するかたちで立ち上げた、まさに先見的なメディアだったのです。彼はこの雑誌を通じて、言論による芸術評価の誘導という新たなアプローチを試みていました。

このレヴュは普仏戦争とパリ・コミューンの影響で第4号をもって廃刊となりますが、美術を経済や市場の視点から論じようとした点に、彼の卓越した先見性が見て取れます。
さらに、もう一つ注目すべきは、作品そのものよりも「作家」に焦点を当てて販売していくという、デュラン=リュエルの営業方針です。
この雑誌に掲載されたアルフレッド・サンシエによるルソー伝の草稿(のちに1872年『テオドール・ルソーの思い出』として刊行)は、その萌芽を示す象徴的な例といえるでしょう。
デュラン=リュエルは、アメリカ市場でのビジネスが軌道に乗り始めた1890年、欧米両市場を視野に入れて再び自前の活字メディア『二つの世界の芸術』を創刊します。ここでもまた、芸術家の「人物像」を育てていく意図が明確に読み取れます。
アトリエでのインタビューなどを交えた記事を通じて、作品単体ではなく「芸術家像」を印象づけるというこの手法は、じつは銀行家や実業家が自らの事業モデルを広めるために雑誌を発行していた、金融界の手法に着想を得たものでした。デュラン=リュエルはそれを応用し、無名の芸術家に注目を集め、作品価格の上昇を狙ったのです。

この雑誌自体は1年半ほどで廃刊となりましたが、情報提供によって記者を“育て”、世論を誘導する啓蒙活動はその後も継続されていきます。しかもそれは、“推し”の芸術家たちのためだけでなく、「デュラン=リュエル」という画商ブランドの価値を高める手段としても機能していきました。
1897年11月中旬、『デンバー・イブニング・ポスト』紙は、彼がブラウン・パレス・ホテルで開催した展覧会を4回にわたって報道しています。
その第3回の記事タイトルは、彼の戦略を象徴するものでした──
「隠れた天才を発見したフランス人、デュラン=リュエル」
世界各地に支店を持たなかった彼は、“メディア”という目に見えない拠点を通じて、自らの名をブランド化していったのです。
そして次章では、このように美術商が主導する「作家個人の物語化」──すなわち、芸術家のパーソナル・ブランディングがいかにして確立されていったのかを探っていきたいと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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