「まずやってみろ」がいちばん苦手だった僕が、このnoteで「奇妙な一枚絵」にこだわる理由
方法は知っているし、正しいことも、言われれば分かる。なのに、なぜか動けないという人。
「とりあえずやってみればいい」と言われるほど、素直に動けない自分を責めてしまう人。
考えすぎだ、行動が遅い、理屈っぽい、プライドが邪魔してる——そう指摘されるたびに、その通りだと思ってしまう人へ。
僕の記事には、ときどき妙なものが登場する。
例えば、ASD(自閉スペクトラム症)者のカモフラージュ(擬態)を説明するために、「敵国に潜入し続けるスパイ」が出てくる。素性がばれた瞬間に終わる、あの緊張感のまま人と接している、という話だ。
我ながら、ずいぶん奇妙な喩え話だと思う。
それにしても、なぜ僕はこんな「奇妙な一枚絵」にこだわるのだろう。
ちなみに、この記事でいう「一枚絵」というのは、イラストや図のことではなく、バラバラだった情報が、頭の中でひとつの像に結ばれた瞬間のことだ。「あれも、これも、全部この構造だったのか」と見えた、その像のことを、僕は一枚絵と呼んでいる。
そして最近、僕はこの「一枚絵」に、自分で思っていたよりもかなり切実な理由でこだわっていることに気がついた。
これまでの自分を振り返ってみて、どうやら僕自身が、一枚絵が完成しないと、前へ進めない人間らしいということに気が付いたのだ。
僕は、「ハウツー」では動けなかった
10年以上前、僕は本格的にマーケティングを学ぼうとして、いくつもの高額なセミナーに通った。
副業ブログでそれなりの成果を出したあとだった僕は、次は偶然ではなく、理論としてコンテンツビジネスを理解したい。そう考えていた。
でも、そこで僕の前に差し出されたのは、たくさんの「How」だった。
この順番で商品を作りましょう。
見込み客には、このような言葉を使いましょう。
売れている人の型を、そのまま実践しましょう。
どれも「すぐに使える」実践的な内容だった。
講師の言う通りに行動すれば、実際に成果が出るのだろうと思う。
でも、僕はそこで立ち止まってしまった。
僕が知りたかったのは、そこではなかったからだ。
なぜ、その言葉で人が動くのか。
なぜ、その順番で商品を見せると利益が生まれるのか。
そもそも人は、何を価値として受け取り、何に対してお金を払うのか。
僕が知りたかったのは、「How」ではなく「Why」だった。
しかし、セミナーでそんな質問をすると、話がややこしくなる。
講師からすれば、効果が実証されている方法を教えているのだから、まず実践すればいい。
受講生の多くも、それで前に進める。
僕だけが、ルールを教えられている最中に、ゲームが成立する原理を尋ねていた。
「そんなことを考える前に、まずやってみればいい」
そう言われるたびに、僕もその通りだと思って、素直に動けない自分を責めた。
考えすぎて行動が遅い。理屈っぽくてプライドが高い。
もしかすると、僕はビジネスに向いていないのではないか。
でも、よくよく考えると、この現象はビジネスを始めてから起きたものではなかった。
僕のこの特性は、子どもの頃からずっと変わっていなかった。
何度叱られても効かない。でも、納得すると一発で変わる
僕は子どもの頃、何度叱られても同じことを繰り返す問題児だった。
怒られていることは分かるし、母親が困っていることも分かる。
どうやら自分が、何か良くないことをしたらしいことも分かる。
でも、それだけでは行動が変わらなかった。
大人から見れば、「分かっているのに、なぜやめないの」となるのも当然だ。
でも僕の内側では、それは「怒られた」という危険の記録が残っているだけだった。記録はあるが、次にどう動けばいいのかという手順が生成されていないのだ。
なぜ、それがいけないのか。
誰の中で、何が起きたのか。
次に同じ場面が来たら、具体的に何をすればいいのか。
そのルールは、どこからどこまで適用されるのか。
そういったところまでつながらないと、僕の中では「叱られた」ことが行動ルールとして実装されなかった。
だから、何度叱られても、強く叱られても一向に変わらない。
おそらく相当に「頑固な」子どもだと思われていたと思う。
ところが、ある日自分なりに構造を理解すると、不思議なことにコロッと行動が変わる。
「ああ、そういうことだったのか」
そこまで納得すると、誰かに見張られなくても、その後は自分で行動を修正できる。
外から見ると、急に素直になったように見えるけれど、でも実際には、僕の中でようやく内部モデルの「書き換え」が完了しただけだった。
圧力では更新されないけれど、構造が見えると更新される。
どうやら僕の脳は、子どもの頃からずっとそういう動作仕様だったらしい。
そして大人になった僕は、マーケティングセミナーで再び、同じ壁の前に立っていた。
「次はこうしなさい」と教えられても動けないが、「なぜ、そうするのか」が見えると、自分で動き始める。
「How」では動けないが「Why」で動ける、単にそれだけのことだった。
僕の脳には「チョーク」と「暖気」が必要だった
思うに僕の脳は、今どきの車のように「エンジンを掛けたらすぐに走り出せる」仕様ではないらしい。
どちらかと言えば「旧車」のエンジンに近い。
若い人には伝わらないかもしれないが、旧車のエンジンを寒い日に始動しようとすると、「チョーク」が要る。チョークと言っても黒板に文字を書くあれではなく、車内に「チョークレバー」というのがあって、それを引くとガソリンが「濃い目」でエンジンに供給されるのだ。
そして、旧車というのは、エンジンがかかったあともすぐに全開で走り出してはいけない。しばらく「暖気(アイドリング)」をする必要がある。
僕にとっての「チョーク」とは、「Why」を理解することなのだと思う。
なぜ、これをするのか。
何を解決しようとしているのか。
その背景では、どんな構造が働いているのか。
それは自分の価値観と、どうつながっているのか。
これらの意味を「濃い目に」供給されると、ようやく僕のエンジンはかかり始める。
しかし、それだけではまだ僕という「旧車」は走り出せない。
論理として理解したWhyを、自分の経験とつなげなければならない。
過去に起きたことや、いま困っていること。
他の場面でも繰り返されていること。
それらが一つの像にまとまって、「あれも、これも、全部この構造だったのか」と見えるところまで考える。
その像が完成した瞬間、頭の中でバラバラだった情報が、ようやく一つのモデル――「奇妙な一枚絵」になる。
Whyでエンジンを始動し、一枚絵になるまで温める。
そこまで終えて、やっと僕は前へ進める。
暖気を飛ばしても、しばらくは走れてしまう
でも実際には、僕は「納得できないとテコでも動かない」という訳でもない。ここがまた面倒なところだと、自分でも思う。
「誰かの期待に応えるため」とか、「生活費を稼ぐため」、「失敗して恥をかかないため」、「能力がないと思われないため」、そういう外からの圧力を燃料にすれば、僕はHowだけでも、暖気運転をしなくても、ある程度は無理やり走らせることはできる。
実際、若い頃の僕はそれなりの実績を出してきた。
外から見れば、もしかすると問題なく走れていたように見えていたのかもしれない。
しかし、僕の内部では別のことが起きていた。
冷えたまま無理に回し続けたエンジンは、確実に摩耗が進んでいく。
実績を出せば出すほど、自分の中の何かが擦り減っていった。
例えばブログ。
「読まれる方法」も、「売れる書き方」も分かる。
でも、「なぜ」自分がそれを書くのかが分からない。
本当はもっと奥にある構造を書きたいのに、読者がすぐ使えるハウツーへと削っていく。
そんなことを繰り返すうちに、成果を出すために使っていた方法そのものが、嫌いになっていった。
これは単に「疲れた」とか、少し休めばまた同じ走り方に戻れるというものでもなかった。
その仕事を考えるだけで、エンジンがかからなくなる。
かつて成果を出した方法へ、二度と戻りたくなくなる。
創造性が枯れ、書くことそのものから離れたくなる。
ブログに限らず、僕はこれまで何度かそういう「焼き付き」を起こしてきたのだろうと、過去を振り返ってそう思う。
暖気を省いても、しばらくは速く走れる。
しかし、その走り方は長く続かない。
「考える前に動け」は、いつも正しいのだろうか
世の中では、よくこう言われる。
「考えすぎる前に、まず行動しよう」
「完璧に理解してから始めようとするな」
「走りながら考えればいい」
これは多くの場合、正しい。
考え続けることで、行動から逃げていることもある。
僕自身、存在しないリスクや、今は答えの出ない問題まで考え、無限長考に入ることがある。
すべてのWhyが解けるまで動かない、という姿勢では、人生は進まない。
だから、暖気には終わりが必要だ。
完全に理解する必要はない。
人生の真理へ到達する必要もない。
ただ、自分が走り出せる程度には、意味がつながっている必要がある。
ここは、僕にとって今も難しいところだ。
暖気を省くと焼き付く。
しかし、いつまでも暖気を続けていれば、どこにも到着しない。
必要なのは、Whyを捨ててHow型の人間になることではない。
「自分が走り始められるだけのWhyがそろったら、一度アクセルを踏む」
という、自分なりの始動手順を覚えることなのだと思う。
奇妙な一枚絵は、文章の飾りではなかった
以前の僕は、比喩を読者に分かりやすく伝えるための「表現技法」だと思っていた。
難しい話を、親しみやすくするため。
記事を面白くするため。
記憶に残りやすくするため。
もちろん、それらも間違いではない。
でも順番が逆だった。
僕はまず、自分が理解するために一枚絵を作っていた。
自分の中で構造が見えなければ、書き始められない。
書けたとしても、自分が何を伝えたいのか分からなくなる。
一枚絵が完成して初めて、
「この記事では、これを伝えればいい」
という芯が生まれる。
だから、僕が描いているのは、単に面白い比喩ではない。
それは、Howでは動けなかった僕が、ようやく動けるようになった時に見えていた、Whyの形なのだ。
そして、一度一枚絵になった構造は、読者も持ち運べる。
長い解説をすべて覚えていなくても、
「またスパイ任務をやりすぎている」
と思い出すことができる。
一枚絵は、読者に「こうしなさい」と命令しない。
けれど構造が見えれば、読者は自分で次のHowを考えられる。
休んだ方がいいのか。
作業を小さく分けるべきなのか。
擬態を減らせる場所へ移るべきなのか。
今すぐ答えを出さず、保留していいのか。
僕が渡したかったのは、正解そのものではなかった。
自分で次の一手を考えるための、盤面だったのだと思う。
このnoteは、Howで動けなかった人のためにある
方法は知っているのに、なぜか動けない人がいる。
正しいことを言われるほど、自分の意志の弱さを責めてしまう人がいる。
「とりあえずやればいい」が、どうしてもできない人がいる。
一方で、自分なりに意味がつながったことには、驚くほど粘り強く取り組める人もいる。
もしあなたがそういう人なら、あなたに足りないのは、根性ではないのかもしれない。
まだエンジンが温まっていないだけかもしれない。
あなたが欲しいのは、もっと詳しいHowではなく、そのHowが動く理由なのかもしれない。
だからこのnoteで、僕はこれからも奇妙な一枚絵を描いていくのだと思う。
すぐ使える三つのコツを渡す代わりに、なぜそれが起きるのかを考える。
「こうしなさい」と言う代わりに、頭の中でどんな構造が動いているのかを描く。
それは少し遠回りに見える。
読むのに時間もかかる。
すぐ役に立つとは限らない。
でも、その絵が一度その人の中に入れば、誰かに命令されなくても、自分で次の一手を選べるようになるかもしれない。
僕自身が、そうだったからだ。
暖気に時間がかかる車で、生きていく
僕の脳は、始動に時間がかかる。
まずWhyを探す。
そのWhyを、自分の経験とつなげる。
やがて「奇妙な一枚絵」が完成し、ようやく走り始める。
すぐに行動できる人を見て、焦ることもある。
「まだそんなことを考えているのか」と、自分に腹が立つこともある。
でも僕はもう、暖気を省いた先に何が待っているのかを知っている。
短期的には速く走れて、成果も出て、評価もされる。その代わり、いつかエンジンが焼き付く。
だから今は、この面倒な始動手順を、自分の欠点として扱わないことにした。
Whyを確かめ、一枚絵になるまで温め、十分に温まったら走り出す。
僕がこのnoteで「奇妙な一枚絵」にこだわるのは、文章を面白く見せたいからだけではない。
それは、Howだけでは動けなかった僕のエンジンに意味を送り込み、行動できる温度まで温めるための、必要な手順なのだ。
そして、もしあなたも「こうすればいい」と言われるほど動けなくなる人なら。
僕がここで描く一枚絵が、あなたのエンジンを温める、小さな火になればいいと思っている。
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