シンデレラ・ブラックドレス 第2話|王妃様、まかないを所望する
安物の毛布を重ねた夜から、シンデレラは少しだけ眠れるようになった。
絹の布団は、相変わらず軽かった。
枕は、相変わらず沈みすぎた。
シーツは、相変わらずよく滑った。
けれど、身体の上には、使用人宿舎から来た古い毛布があった。
重い。
少し硬い。
ざらざらしている。
王妃様の寝室に置くものとしては、きっと正しくない。
それでも、その毛布が一枚あるだけで、シンデレラは夜の中で自分の身体を見失わずに済んだ。
寝室はまだ広すぎる。
王妃という名前も、まだ遠い。
けれど、眠れる。
それだけで、城は少しだけ怖くなくなった。
リナは、そのことをとても気にしていた。
朝、寝室に入ってくるたび、ちらちらとシンデレラの顔を見た。
「王妃様、昨夜は眠れましたか」
「ええ。少し」
「少し、ですか」
「前よりは、ずっと」
シンデレラがそう答えると、リナはほっとした顔をした。
その顔があまりにもわかりやすいので、シンデレラは思わず笑った。
「リナは、表情が忙しいのね」
「えっ」
「心配して、安心して、また心配している顔をしています」
「す、すみません」
「謝ることではありません」
シンデレラは、寝台の端に腰掛けたまま、古い毛布をそっと撫でた。
「あなたが言ってくれなかったら、私はまだ眠れなかったかもしれません」
リナは少し照れたように目を伏せた。
「でも、本当に王妃様が使うとは思わなくて」
「私も、本当に使うとは思っていませんでした」
「そこは思っていてください」
リナが思わず返す。
言ってから、また慌てて口を押さえた。
シンデレラは笑った。
年配の侍女なら眉をひそめたかもしれない。
けれど、その朝は二人だけだったので、シンデレラはただ笑った。
城の中で、初めてできた小さな会話だった。
毛布のおかげで、寝室は少しだけ居場所になった。
けれど、城にはまだ、慣れないものがたくさんあった。
そのひとつが、食事だった。
王室の食事は、いつも豪華だった。
皿は白く、果物は美しく切られ、スープは透き通っていた。
パンは焼き色まで整っていて、蜂蜜は小さな銀の器に入っている。
食器は軽く、ナイフはよく切れ、給仕の人たちは音も立てずに動いた。
それはもちろん、美味しかった。
美味しかった。
間違いなく、美味しかった。
けれど、落ち着かなかった。
広い食卓の端に座り、背筋を伸ばして、正しい順番で皿に手を伸ばす。
食べ終わるころには、お腹より先に肩が疲れている。
灰かぶりだったころは、食事に格式などなかった。
台所の隅で、立ったままパンの端をかじったこともある。
鍋の底に残った野菜を、急いで口に入れたこともある。
それは決して豊かな食事ではなかった。
でも、食べるということは、もう少し身体に近いものだった。
今の食事は、美味しい。
けれど、少し遠い。
その違和感がはっきりしたのは、王妃になって初めての、小さな昼食会の席だった。
大きな晩餐ではない。
王妃となったシンデレラが、社交界の貴婦人たちに少しずつ顔を覚えてもらうための、穏やかな食事会。
そう聞かされていた。
食卓には、春の野菜を使ったスープ、薄く切られた白身魚、香草を添えた肉料理、小さな焼き菓子が並んだ。
すべてが美しかった。
料理も。
器も。
会話も。
笑顔も。
美しすぎて、シンデレラはどこに力を抜けばよいのかわからなかった。
ナイフを置く音が大きすぎないか。
スープを飲む角度は合っているか。
魚を切る手つきは見苦しくないか。
笑うタイミングは遅れていないか。
食べているはずなのに、味より先に、姿勢の方が気になった。
その様子に気づいた人がいた。
イザベル夫人だった。
シンデレラより少し年上の、美しい貴婦人だった。
深いローズ色のドレスに、きっちりと結い上げた髪。
微笑みは上品で、背筋は真っ直ぐで、少し近寄りがたいほど整っている。
イザベル夫人は、シンデレラの皿をちらりと見た。
「王妃様」
「はい」
シンデレラは、すぐに微笑んだ。
イザベル夫人も微笑んだ。
「先ほどから、あまり召し上がっていないように見えますわ」
シンデレラは、手元の皿を見た。
たしかに、魚はまだ半分ほど残っていた。
「お口に合いませんの?」
「いいえ。とても美味しいです」
シンデレラはすぐに答えた。
それは本当だった。
美味しい。
けれど、遠い。
そう言うことはできなかった。
イザベル夫人は、シンデレラの顔を見た。
「無理をなさらないで。急に王妃様になられて、昔とは何もかも違うでしょうから」
その言葉は、丁寧だった。
けれど、シンデレラの胸に、小さく引っかかった。
昔とは何もかも違う。
そう言われた瞬間、食卓の白さが少し眩しくなった。
「ええ。本当に」
別の貴婦人が、扇で口元を隠しながら言った。
「王宮の食事作法だけでも、慣れるまでは大変でしょうね」
「お育ちが違えば、最初は戸惑うことも多いでしょうし」
「でも、王妃様はお美しいから。きっとすぐに慣れますわ」
言葉が重なるたびに、シンデレラの食欲は少しずつ遠くへ押しやられていった。
イザベル夫人は、一瞬だけ黙った。
けれど、食卓の会話はもう次へ流れていた。
シンデレラは笑った。
王妃らしく。
失礼のないように。
傷ついていないように。
「ありがとうございます。少しずつ、覚えてまいります」
そう答えると、食卓にはまた上品な微笑みが戻った。
スープは冷めていなかった。
魚も美味しかった。
焼き菓子は甘かった。
けれど、食べ終わるころには、シンデレラは何を食べたのか、少しわからなくなっていた。
昼食会が終わったあと、シンデレラは控えの間に戻った。
リナが待っていた。
「王妃様、お疲れさまでした」
「ええ」
シンデレラはうなずいた。
リナは、すぐに眉を寄せた。
「王妃様」
「はい」
「……お疲れのご様子です」
「昼食会でしたから」
「はい。でも」
リナは少し言葉を探した。
「お食事のあとというより、まだ食卓に座っておられるようなお顔です」
シンデレラは黙った。
リナの言い方は、少し不思議だった。
けれど、不思議なほど当たっていた。
「食べたはずなのに」
シンデレラは小さく言った。
「食べた気がしないのです」
リナはしばらく考え込んだ。
そして、とんでもないことを言う前の顔をした。
シンデレラは、その顔を覚え始めていた。
「あの」
「はい」
「厨房では、今ごろ、まかないの準備をしていると思います」
「まかない?」
シンデレラは聞き返した。
「はい。料理人や使用人たちが食べる食事です。王妃様のお食事とは違って、もっと普通の」
リナは言いかけて、慌てて言葉を選び直した。
「いえ、その、普通というか、簡単というか」
「見てみたいです」
リナは固まった。
「え」
「その、まかないというものを」
「王妃様が、ですか」
「はい」
「厨房に、ですか」
「はい」
「……また、ですか」
「また?」
「いえ、前回は毛布でしたので」
リナは困った顔で小さく言った。
「王妃様は、思ったより使用人側に興味がありますね」
「興味というより」
シンデレラは、先ほどまで座っていた食卓の方を思い出した。
白い皿。
銀の器。
完璧な焼き色。
崩れない微笑み。
「そちらの方が、少しだけ近く感じるのです」
リナはしばらく黙っていた。
それから、小さくうなずいた。
「少しだけですよ」
「はい」
「料理長が驚きます」
「驚かせるつもりはありません」
「王妃様が厨房に来た時点で、だいぶ驚きます」
「では、できるだけ静かに行きます」
「そういう問題ではない気がします」
それでも、リナは案内してくれた。
王妃になって数日。
シンデレラは、初めて王室の食卓から離れ、厨房へ向かった。
厨房は、寝室とも食堂ともまるで違っていた。
湯気が立ち、鍋が鳴り、誰かが野菜を刻んでいる。
パンの焼ける匂いと、火にかけた鍋の匂いが混ざっていた。
床には水の跡があり、棚には瓶が並び、誰かが後ろから「熱いぞ」と声をかける。
綺麗ではなかった。
静かでもなかった。
でも、生きていた。
料理人たちは、シンデレラを見て一斉に手を止めた。
「王妃様?」
誰かが小さく叫んだ。
リナが慌てて頭を下げる。
「すみません。少しだけ、見学を」
料理長らしい大柄な男が、慌てて前へ出た。
「大変申し訳ございません」
シンデレラは目を瞬いた。
「え」
「お食事に、何かお口に合わないものがございましたでしょうか」
「いいえ。昼食会のお料理はとても美味しかったです」
「では、量が足りませんでしたか。あるいは、温度が」
「違うのです」
シンデレラは、湯気の向こうを見た。
「不足ではなくて」
「はい」
「匂いが、こちらの方が落ち着くのです」
料理長は、どう反応すればいいのかわからない顔をした。
リナが横で小さく咳払いをした。
「王妃様は、まかないを見てみたいそうです」
「まかないを、でございますか」
「はい」
料理長は、まるで王命より難しい命令を受けたような顔をした。
厨房の端には、大きな鍋が置かれていた。
中で煮えていたのは、麦の粥だった。
王妃の昼食会に出た透き通ったスープとは違う。
白く濁っていて、少し重たそうで、湯気がまっすぐ立っている。
その横には、端が硬くなったパン。
形のそろった果物としては出せなかった、不揃いのりんごを使った煮焼きりんご。
塩だけで焼いたじゃがいも。
どれも、王妃の皿に乗るものではなかった。
けれどシンデレラには、それがひどく食べものらしく見えた。
白い皿の上で飾られた果物より、少し焦げ目のあるりんごの方が、甘い匂いを近く感じる。
整いすぎたパンより、端が硬くなったパンの方が、手でちぎる形が見える。
透き通ったスープより、麦の粥の湯気の方が、身体に入ってくる気がする。
「これを、毎日食べるのですか」
シンデレラが尋ねると、料理長は少し困った顔で答えた。
「毎日ではございませんが、残りものや端のものを使って、その日ごとに」
「その日ごとに」
「はい。無駄にしないように」
シンデレラは、それを聞いて少しだけ目を細めた。
無駄にしない。
その言葉は、王妃の食卓ではあまり聞かなかった。
「少し、いただいてもいいですか」
料理長の目がさらに大きくなった。
「これを、ですか」
「はい」
「王妃様用ではございません」
「だから、食べてみたいのです」
リナは、もう止めるのをあきらめたような顔をした。
やがて料理長は、小さな器に麦の粥をよそった。
その横に、硬いパンを小さく割ったものと、煮焼きりんごを少し。
そして焼きじゃがいもをひとつ、控えめに添えた。
シンデレラは、まず麦の粥を口にした。
熱い。
少し重たい。
昼食会のスープのように、香り高く透き通ってはいない。
けれど、緊張した身体の奥へ、静かに落ちていく味だった。
次に、硬いパンを少しちぎった。
そのままだと硬い。
けれど、麦の粥に少し浸すと、ちょうどよく柔らかくなった。
シンデレラは思わず笑った。
「こうすればいいのですね」
料理長は少し驚いた顔をした。
「はい。硬いパンは、そのままでは少し」
「でも、浸すと美味しいです」
「……はい」
料理長の顔が、少しだけゆるんだ。
次に、煮焼きりんごを口にした。
不揃いのりんご。
白い皿の上には乗らなかったりんご。
形が少し崩れて、端に焦げ目がついている。
けれど、そこが美味しかった。
甘い。
でも、ただ甘いだけではない。
焦げたところが少しだけ苦くて、りんごの酸っぱさも残っている。
「これ、とても好きです」
シンデレラが言うと、厨房の端で誰かが小さく笑った。
「形が悪いものを使っただけでございます」
料理長は照れたように言った。
「形が悪いから、ここに来たのですか」
「はい」
「では、私はこれと気が合います」
リナが吹き出しかけた。
「王妃様、りんごと気が合うのですか」
「ええ。私も、王妃の皿に乗るには、まだ少し形が整っていませんから」
厨房が、一瞬静かになった。
シンデレラは言ってから、少しだけしまったと思った。
けれど、料理長がゆっくりと言った。
「それでも、味はよろしいかと」
シンデレラは顔を上げた。
料理長は、少しだけ真面目な顔で続けた。
「不揃いでも、よく火を通せば、よい味になります」
リナが小さくうなずいた。
シンデレラは、もう一度煮焼きりんごを見た。
そして笑った。
「では、私もよく火を通していただかないと」
「王妃様を焼くわけにはまいりません」
料理長が真面目に返したので、今度こそリナが笑った。
その笑いにつられるように、厨房の空気が少しだけやわらかくなった。
最後に、シンデレラは焼きじゃがいもを口にした。
塩だけで焼かれた、素朴なじゃがいもだった。
熱くて、ほくほくしていて、少ししょっぱい。
シンデレラは目を丸くした。
「身体が起きます」
「塩が強すぎましたか」
料理長が慌てる。
「いいえ。そこがいいのです」
リナが横で言った。
「王妃様、まかないを褒めるのが上手ですね」
「本当にそう思っているだけです」
「それがすごいんです」
その時だった。
厨房の入り口が、にわかに騒がしくなった。
料理人たちが、今度は先ほどとは別の意味で固まる。
リナも振り返り、手にしていた布巾を落としかけた。
シンデレラも振り返る。
そこに、王子様が立っていた。
「ここにいたのか」
王子様は驚いた顔をしていた。
だが、怒ってはいなかった。
ただ、心底不思議そうに、厨房とシンデレラを見比べていた。
シンデレラは器を持ったまま、慌てて立ち上がった。
「すみません。勝手に」
「いや」
王子様は一歩、中へ入った。
厨房全体が、さらに緊張した。
「昼食会のあと、控えの間に戻ったと聞いたのに、姿が見えなかったから」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
王子様は、シンデレラの手元の器を見た。
「それは?」
「まかないです」
「まかない」
王子様は聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返した。
シンデレラは少しだけ身構えた。
王妃が厨房に入り、まかないを食べている。
きっと、正しい姿ではない。
王子様は眉をひそめるかもしれない。
困った顔をするかもしれない。
優しく注意するかもしれない。
けれど、王子様は少し考えたあと、料理長に向き直った。
「僕にも、少しもらえるかな」
厨房が完全に止まった。
料理長は、今度こそ魂が抜けたような顔をした。
「殿下にも、でございますか」
「うん。シンデレラが美味しそうに食べているから」
シンデレラは思わず王子様を見た。
王子様は、少しだけ笑っていた。
料理長は震える手で、小さな皿を用意した。
王子様は、まず煮焼きりんごを見た。
「これは?」
「不揃いのりんごを煮て、少し焼いたものです」
料理長が答える。
「不揃いの」
王子様は、少し焦げ目のあるりんごを口にした。
少し黙ってから、言った。
「甘いだけじゃないんだね」
「そこがいいのです」
シンデレラはすぐに言った。
「焦げたところが、少し苦くて」
「なるほど」
王子様はもう一口食べた。
「たしかに、甘いだけより飽きない」
料理長の表情が、少しだけ戻った。
次に、王子様は硬いパンを手に取った。
そのまま噛もうとしたので、シンデレラは慌てて止めた。
「それは、粥に浸すと美味しいです」
「そうなの?」
「はい」
王子様は言われた通り、硬いパンを麦の粥に少し浸した。
そして口に運んだ。
「……これは、食べ方を知らないと難しいね」
「私も今、知りました」
「なら、同じだ」
王子様はそう言って、少し笑った。
最後に、王子様は焼きじゃがいもをひとつ口に入れた。
少し黙ってから言った。
「……思ったより、しょっぱいね」
料理長の顔色が変わった。
リナが息を止めた。
シンデレラは慌てて言った。
「そこがいいんです」
王子様はシンデレラを見た。
「そうなの?」
「はい。身体が起きます」
王子様はもう一口食べた。
「たしかに、起きる」
料理長が、ようやく息を吐いた。
厨房の端で、誰かが小さく笑った。
その笑いをきっかけに、空気が少しずつ戻っていく。
王子様は皿を持ったまま、シンデレラの隣に立った。
「ここは、落ち着く?」
シンデレラは少し迷った。
けれど、毛布の時と同じように、少しだけ素直になれた。
「はい」
「王妃の食卓より?」
「……比べるものではないと思います」
「でも?」
「こちらの方が、少し近いです」
王子様は、何も言わずにうなずいた。
それから、厨房を見渡した。
「なら、時々来ればいい」
料理人たちは驚いたように顔を上げた。
リナも目を丸くした。
シンデレラも驚いた。
「よろしいのですか」
「厨房の邪魔をしないなら」
王子様は料理長を見た。
料理長は慌てて頭を下げた。
「も、もちろんでございます」
明らかに、もちろんではなさそうだった。
王子様は少し笑った。
「困らせない程度にね」
シンデレラは、器を両手で持ったまま、そっと笑った。
この人は、全部をわかっているわけではない。
王妃がなぜ安物の毛布に安心するのか。
なぜ、王室の食卓より厨房のまかないに息をつけるのか。
きっと、すぐにはわからない。
でも、追い出そうとはしなかった。
それだけで、十分だった。
その日、シンデレラは城の中に、もうひとつ息をできる場所を見つけた。
王妃の寝室には、安物の毛布。
王妃の食卓の外には、湯気の立つ厨房。
そしてそのどちらにも、王子様は少し驚きながらも、背を向けなかった。
だからシンデレラは思った。
この人の隣なら、少しずつ自分のままでいられるかもしれない。
めでたしめでたしの続きは、まだ始まったばかりだった。
次回:シンデレラ・ブラックドレス 第3話|王子様、帰るなら連絡して
前回:シンデレラ・ブラックドレス 第1話|王妃様、安物の毛布を所望する
※この物語は「第0話|黒いドレスの王妃様」から繋がっています。プロローグがまだの方はこちらからどうぞ。
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