シンデレラ・ブラックドレス 第1話|王妃様、安物の毛布を所望する
シンデレラは、王子様と結婚して幸せになりました。
けれど、めでたしめでたしの翌日から、暮らしは始まります。後に黒いドレスをまとって舞踏会場に立つ王妃様の物語は、けっして華やかなところから始まったわけではありません
始まりは、もっと地味なものでした。
それは、王妃様が安物の毛布を欲しがった夜のことです。国中の人が祝福し、城には花が飾られ、楽団は夜遅くまで明るい曲を奏でていました。
誰もが言いました。
「なんて美しい花嫁でしょう」
「これで、あの方も幸せになられますね」
「まるで物語のようですわ」
シンデレラも、そう思おうとしました。
自分は幸せなのだ、と。
灰をかぶっていた日々は終わった。
冷たい床で眠る夜も終わった。
朝から晩まで働き続ける生活も、意地悪な言葉を飲み込む毎日も、もう終わった。
これからは、王子様の隣で生きていく。そう思って、シンデレラは城の寝室に案内されました。
そこは、今まで見たどんな部屋よりも広い部屋でした。
天井は高く、壁には淡い金色の模様が入り、大きな窓には重たいカーテンがかかっています。
部屋の中央には、天蓋付きの大きなベッド。
絹のシーツ。
羽のように軽い布団。
沈み込むほど柔らかい枕。
侍女たちは誇らしげに言いました。
「王妃様のために、最高級の寝具をご用意いたしました」
シンデレラは笑いました。
「ありがとうございます」
心から、そう思いました。
こんなに丁寧に扱われたことは、今までほとんどありませんでした。
誰かが自分のために寝具を選んでくれる。
自分が眠る場所を整えてくれる。
それは、本当にありがたいことでした。
さらに、王子様は優しかったのです。
朝には微笑んでくれました。
夜には「疲れていないか」と尋ねてくれました。
隣で眠る夜には、そっと布団をかけ直してくれました。
なんて幸せな日々なのでしょう。
眠れさえすれば。
けれど、その夜。
シンデレラは、一睡もできませんでした。
というより、その後もずっと、うまく眠れませんでした。
それは、王子様の隣だったからではありません。
王子様が隣にいる夜も。
祝宴の後始末や公務で、王子様が別の寝室に下がる夜も。
王妃として用意された寝室で、一人眠る夜も。
シンデレラは、どうしても眠れませんでした。
理由は、はっきりしていました。
何もかもが、上等すぎたのです。
枕に頭を沈めると、身体まで沈んでいくようでした。
布団は軽すぎて、かけているのかどうかわかりません。
シーツはすべすべしていて、少し動くだけで肌の上を滑りました。
絹とは、こんなにも滑るものなのか。
シンデレラは、ベッドの上で目を開けたまま思いました。
滑る。
とにかく、滑る。
寝返りを打つたびに、身体が自分の居場所をなくしていきます。
柔らかすぎる枕は、頭を受け止めてくれるというより、頭をどこかへ飲み込もうとしているようでした。
ああ。
麻の枕が恋しい。
少しごわごわした綿の布が恋しい。
洗いすぎて硬くなった、あの重たい毛布が恋しい。
それは、王妃様が恋しがるものとしては、きっと正しくありません。
でも、眠れないものは眠れませんでした。
そんな夜が、いくつか続いた朝。
侍女たちは、ようやくシンデレラの異変に気づきました。
「王妃様、お加減が悪いのですか?」
年配の侍女が、心配そうに尋ねました。
シンデレラは慌てて首を振ります。
「いえ。大丈夫です。ただ、少し眠れなくて」
「まあ。枕が合いませんでしたか?」
「枕というより……その」
シンデレラは少し迷いました。
王妃になったばかりで、こんなことを言っていいのだろうか。
最高級の寝具を用意してもらったのに、眠れませんでしたなどと。
失礼ではないだろうか。
わがままだと思われないだろうか。
けれど、眠れていない頭は、いつもより少しだけ素直でした。
シンデレラは、小さく言いました。
「もう少し、重たい毛布はありませんか」
侍女たちが固まりました。
「重たい、毛布でございますか」
「はい。あと、できれば、少しざらざらしたものが……」
部屋の空気が止まりました。
年配の侍女は、どう返せばいいのか迷っているようでした。
「ざらざら……でございますか」
「はい」
「王妃様のお身体に触れるものですから、なるべく上質なものを……」
「すみません。とてもありがたいのです。でも、身体がまだ慣れなくて」
侍女たちは困った顔をしました。
その時、部屋の端で控えていた若いメイドが、小さく手を上げました。
まだ年若く、髪をきっちり結びきれていません。
制服も少しだけ着慣れていない。
新人なのだと、すぐにわかりました。
「……あの」
年配の侍女が鋭く見ます。
「リナ」
呼ばれたメイドは、びくりと肩を震わせました。
それでも、言いました。
「使用人宿舎の毛布なら、もう少し重たいものがあります」
部屋がさらに静かになりました。
年配の侍女は、今度こそ頭を抱えそうな顔をしました。
「王妃様に使用人宿舎の毛布など」
「す、すみません」
リナはすぐに頭を下げました。
しかし、シンデレラは身を乗り出しました。
「それ、触ってみたいです」
「え」
リナが顔を上げます。
「本当に、ですか」
「はい」
「使用人宿舎のものですよ」
「はい」
「上等ではありません」
「はい」
「少し、硬いです」
「それがいいかもしれません」
リナは、どうすればいいのかわからない顔で年配の侍女を見ました。
年配の侍女は、しばらく黙っていました。
王妃本人が望んでいる。
けれど、王妃の寝室に使用人宿舎の毛布を持ち込む。
その二つをどう並べればいいのか、彼女の中で答えが出ないようでした。
やがて、深いため息をひとつつきました。
「……清潔なものを。必ず、よく確認してから」
「はい!」
リナは返事をして、慌てて部屋を出ていきました。
使用人宿舎には、確かに古い毛布がありました。
何度も洗われ、少し色が抜けて、端は何度も縫い直されています。
けれど、清潔でした。
重くて、硬くて、ざらざらしている。
リナはそれを抱え、王妃様の部屋へ戻ろうとしました。
その途中、廊下の角で足を止めました。
「リナ」
その声だけで、リナの背筋は伸びました。
振り返ると、クラリス女官長が立っていました。
王妃付きの女官たちを束ねる、厳格な人です。
背筋はまっすぐで、髪は一筋も乱れていません。
視線だけで、廊下の空気が整うような人でした。
「その毛布は、どちらへ?」
「……王妃様のお部屋へ」
「王妃様のお部屋へ、使用人宿舎の毛布を?」
リナは毛布を抱え直しました。
「王妃様が、眠れないご様子でした」
クラリスはしばらく黙っていました。
リナは、叱られると思いました。
当然です。
王妃様の寝室に、使用人宿舎の毛布を運ぼうとしているのです。
けれど、クラリスは静かに言いました。
「洗い直しなさい」
「え」
「香りも整えて。ほつれは目立たぬように。王妃様のお部屋に入れるなら、毛布にも礼儀が必要です」
リナは目を丸くしました。
「……よろしいのですか」
「よろしいとは言っていません」
クラリスは静かに言いました。
「ただ、王妃様が眠れないまま朝を迎える方が、よほどよろしくありません」
リナは、毛布を抱えたまま深く頭を下げました。
「はい。すぐに整えます」
「リナ」
「はい」
「王妃様に必要なものを見つけたことは、悪くありません」
リナは顔を上げました。
クラリスの表情は、相変わらず厳しいままでした。
「ただし、必要なものをそのまま持ち込めばよい、ということではありません。王妃様のお部屋に入れるなら、王妃様のものとして整えなさい」
「はい」
「そして、あなたの言葉も整えなさい。王妃様は、あなたの友人ではありません」
「……はい」
「ですが」
クラリスは、ほんの少しだけ視線をやわらげました。
「王妃様が眠れるなら、それは城にとっても必要なことです」
それだけ言うと、クラリスは踵を返しました。
リナはしばらく、その背中を見送っていました。
厳しい。
でも、止めなかった。
リナは毛布をもう一度抱え直しました。
そして言われた通り、毛布を洗い直し、香りを整え、目立つほつれに小さな布を当てました。
それでも、上等な毛布にはなりませんでした。
使用人宿舎の古い毛布は、どこまでいっても古い毛布です。
けれど、王妃様の部屋へ運んでもよい毛布にはなりました。
しばらくして、リナは一枚の毛布を抱えて戻ってきました。
それは、王妃の寝室に置くには、あまりにも普通の毛布でした。
少し色が抜けていて、端は何度も縫い直されている。
触ると、絹のような滑らかさはありません。
むしろ少し硬く、ざらりとしていて、重みがありました。
シンデレラは、その毛布に手を置きました。
その瞬間、胸の奥が少しだけ緩みました。
「ああ」
思わず声が出ました。
「これがいいです」
リナは目を丸くしました。
「本当に、これでよろしいんですか」
「はい」
「王妃様なのに」
リナは、言ってから慌てて口を押さえました。
「す、すみません」
シンデレラは笑いました。
久しぶりに、自然に笑えた気がしました。
「いいの。たぶん、今の言葉、少し嬉しかったから」
「嬉しい、ですか」
「ええ。王妃様だから、って言われるより」
シンデレラは、毛布をぎゅっと抱きました。
「王妃様って、思ったより普通なんですね、くらいの方が嬉しいです」
リナは少しだけ迷ってから、ぽつりと言いました。
「王妃様って、思ったより普通なんですね」
シンデレラは笑いました。
「ありがとう」
年配の侍女は、横で小さく咳払いをしました。
「リナ。言葉には気をつけなさい」
「はい、すみません」
リナはまた頭を下げました。
けれど、その顔は少しだけ安心しているように見えました。
その夜。
シンデレラの寝室には、絹の布団の上に、使用人宿舎から来た古い毛布が一枚重ねられました。
侍女たちは最後まで少し複雑そうな顔をしていましたが、シンデレラが嬉しそうなので、何も言いませんでした。
王妃の寝室としては、きっと正しくない。
最高級の布団の上に、色あせた毛布。
けれど、シンデレラはその毛布を肩までかけると、ようやく身体の力を抜くことができました。
重い。
少し硬い。
ざらざらしている。
でも、その重さが、身体の輪郭をちゃんと教えてくれる気がしました。
ここにいる。
今、眠ろうとしている。
この布の下に、自分の身体がある。
シンデレラは、久しぶりにそう思えました。
幸せな場所でも、自分に合わないものはある。
良いものと、落ち着くものは、いつも同じではない。
そのことを、王妃になった最初の日々に、シンデレラは知りました。
目を閉じる前に、シンデレラは小さく笑いました。
城は、まだ少し広すぎる。
王妃という名前も、まだ少し遠すぎる。
けれど、古い毛布と、リナという少し変な新人メイドのおかげで、ここにも自分の居場所を作れるかもしれない。
そう思えました。
翌朝。
王子様は、シンデレラの顔を見てすぐに言いました。
「昨夜は、少し眠れた?」
シンデレラはうなずきました。
「はい。久しぶりに」
「よかった」
王子様は、本当に安心した顔をしました。
そして、寝台に置かれた毛布を見て、少しだけ首をかしげました。
「それが、眠れた理由?」
「はい」
「……ずいぶん、重そうだね」
「重いです」
「それに、少し硬そうだ」
「硬いです」
王子様は、困ったように、けれど面白そうに笑いました。
「君は、本当に不思議だ」
シンデレラは少し迷ってから言いました。
「不思議、でしょうか」
「うん。僕は、軽くて柔らかい方が眠りやすいものだと思っていた」
「私も、そう言うべきなのかもしれません」
「そう言うべき?」
「王妃様なら、きっと」
王子様は、少しだけ表情を変えました。
それから、ゆっくりと首を振りました。
「眠れる方がいい」
シンデレラは顔を上げました。
王子様は、毛布をそっと指で触りました。
「僕にはまだ、よくわからないけれど」
そう言って、少し笑いました。
「君が眠れるなら、こちらの方がいい」
その言葉に、シンデレラは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じました。
この人は、全部をわかっているわけではない。
なぜ絹の布団で眠れないのか。
なぜ重たい毛布に安心するのか。
きっと、すぐにはわからない。
それでも、否定はしなかった。
それだけで、十分でした。
シンデレラは、王子様と結婚して幸せになりました。
ただし、その幸せは、絹の布団ではなく、安物の毛布から始まりました。
次回:シンデレラ・ブラックドレス 第2話|王妃様、まかないを所望する
※この物語は「第0話|黒いドレスの王妃様」から繋がっています。プロローグがまだの方はこちらからどうぞ。
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