シンデレラ・ブラックドレス 第3話|王子様、帰るなら連絡して
安物の毛布のおかげで、シンデレラは少し眠れるようになった。
厨房のまかないのおかげで、城の中に少し息を吸える場所もできた。
王妃の寝室には、使用人宿舎から来た古い毛布。
王妃の食卓の外には、湯気の立つ厨房。
そして、そのどちらにも、王子様は少し驚きながらも、背を向けなかった。
特に、厨房で一緒に食べたまかないのことを、シンデレラは何度も思い出していた。
王子様は、硬いパンをそのまま噛もうとして、シンデレラに止められた。
「それは、粥に浸すと美味しいです」
そう教えると、王子様は少し真面目な顔でパンを粥に浸し、
「これは、食べ方を知らないと難しいね」
と言った。
焼きじゃがいもを食べた時には、
「たしかに、身体が起きる」
と、やはり真面目にうなずいた。
その言い方があまりに王子様らしくて、シンデレラは思い出すたびに笑ってしまった。
あの時間は、不思議だった。
王妃として正しい食事ではなかった。
王子様として正しい場所でもなかった。
けれど、湯気のそばで並んで食べていると、シンデレラは少しだけ、自分のままで王子様の隣にいられる気がした。
だから、あのあと数日は、王子様と少し話せるだけで安心した。
朝に顔を合わせて、
「よく眠れた?」
と聞かれる。
廊下ですれ違った時に、
「今日は疲れていない?」
と声をかけられる。
夜、ほんの少しだけ同じ食卓につけた日には、厨房のまかないの話をして笑う。
それだけで、シンデレラは思った。
この人の隣なら、少しずつ自分のままでいられるかもしれない。
けれど、王子様は忙しかった。
王子様は、ただシンデレラの夫になったわけではない。
王子様は、相変わらず王子様だった。
朝は書類に目を通し、昼は来客に会い、午後には公務の報告を受ける。
隣国からの使節。
王都の商人たちとの面会。
舞踏会の準備。
貴族たちへの挨拶。
城の中で決めなければならないこと。
王子様の一日は、シンデレラが思っていたよりずっと長かった。
シンデレラ自身も、暇だったわけではない。
礼法の確認。
衣装合わせ。
食事会。
城の中の顔合わせ。
王妃として覚えなければならないこと。
けれど、王子様の忙しさは、また別のものだった。
朝に少し話せても、次にゆっくり顔を見られるのは夜だった。
夜に戻ると言われても、それがいつの夜なのかは、まだよくわからなかった。
そんな日々が、何日か続いた。
だから、ある朝食のあと、王子様が言った時、シンデレラは少しだけ期待してしまった。
「今夜は、少しだけ夜会に出ることになっている」
「夜会、ですか」
「うん。隣国の使節が来ているんだ。顔を出して、挨拶をしてくるだけだから」
王子様は、あまり大変なことではないという顔で言った。
「遅くはならないと思う」
シンデレラはうなずいた。
「では、晩餐はご一緒できますか」
「できると思う」
「わかりました」
その言葉だけで、その日の夕方が少し特別になった。
厨房で一緒にまかないを食べたあの日のように、また少しだけ、王子様とゆっくり話せるかもしれない。
そう思った。
シンデレラは、少しだけ早く身支度をした。
王妃らしいドレスはまだ慣れなかったけれど、王子様と晩餐を取るなら、きちんとしていたかった。
リナが髪を整えながら言った。
「王妃様、今日はいつもより少し楽しそうですね」
「そう見えますか」
「見えます」
リナは鏡越しにうなずいた。
「殿下と晩餐だからですか」
シンデレラは少しだけ頬を赤くした。
「……そうかもしれません」
リナは口元をゆるめた。
「仲がよろしいですね」
「たぶん」
「たぶん?」
「仲は良いと思うのです。ただ、まだわからないことも多くて」
「たとえば?」
「王子様の一日の長さです」
リナは首をかしげた。
「長さ?」
「朝に会ったと思ったら、次に会うのが夜だったりします。夜に戻ると言っていても、いつの夜なのかがわかりません」
「ああ」
リナは、少しだけわかった顔をした。
「王城の“すぐ”は、あまりすぐではありません」
「そうなのですか」
「はい。殿下に限らず、皆さまの“少し”も、だいたい少しではありません」
シンデレラは鏡の中でリナを見た。
「それは、困りますね」
「困ります」
リナは真顔で言った。
「使用人同士の確認会でもそうです。少しだけ集まると言われて、本当に少しだったことは、あまりありません」
「そうなのですか」
「はい。特にクラリス女官長の“最後に少しだけ確認します”は、少しではありません」
シンデレラは思わず笑った。
「クラリスの指導も、よく伸びます。私の覚えが悪いのがいけないのですけれど」
「王妃様にまでですか」
「ええ。姿勢、挨拶、扇の角度、視線の置き方。ひとつ確認すると、三つ増えます」
リナは深くうなずいた。
「わかります。クラリス女官長は、私にも厳しいです」
「リナにも?」
「はい。最後に少し話があります、と言われると、なかなか帰していただけません」
リナは小さく肩を落とした。
「私だけ、いつも長い気がします」
シンデレラは鏡越しに、少し考えた。
「それは、リナに期待しているのではありませんか」
「そうでしょうか」
「たぶん」
「でも、長いです」
その言い方があまりに真剣だったので、シンデレラは笑ってしまった。
リナも、少し遅れて笑った。
王妃と侍女が、クラリス女官長の“少し”について小さく愚痴をこぼしている。
それは王妃らしい会話ではなかったかもしれない。
でも、シンデレラには少しだけ楽だった。
城の中では、“少し”も“すぐ”も、思った通りには進まない。
そのことを、自分だけがわからないわけではないのだと思えた。
けれど、その笑いは夕方になるころには、少しずつ消えていった。
日が傾き、晩餐の時間が近づく。
食堂には、二人分の席が整えられた。
白い皿。
銀の器。
美しく畳まれたナプキン。
温かいスープ。
焼きたてのパン。
肉料理には、香草が添えられている。
シンデレラは席に着いた。
王子様は、まだ来ていなかった。
最初は、気にしなかった。
夜会なのだから、少し延びることもある。
挨拶をしてくるだけと言っていたけれど、相手がいることなのだから、予定通りにはいかないかもしれない。
シンデレラは、そう思った。
しばらくして、給仕が控えめに言った。
「王妃様、先にお召し上がりになりますか」
シンデレラは首を振った。
「もう少し待ちます」
料理からは、まだ湯気が立っていた。
さらにしばらく経った。
スープの湯気が細くなる。
パンの表面が少し硬くなる。
肉料理の香りが、温かさよりも油の重さを含み始める。
給仕がもう一度尋ねた。
「王妃様、温め直しましょうか」
「もう少しだけ」
シンデレラは答えた。
自分でも、なぜそこまで待つのかよくわからなかった。
王子様は「待っていて」と言ったわけではない。
晩餐を一緒に取ると、はっきり約束したわけでもない。
できると思う、と言っただけだった。
それでも、シンデレラは待っていた。
王子様と一緒に食べたかった。
厨房で並んで食べた時みたいに。
温かいものを、同じ温かさのうちに、一緒に食べたかった。
たぶん、それだけだった。
リナが壁際で心配そうにしていた。
「王妃様」
「はい」
「先に少しだけでも」
「でも、戻られたら」
「戻られてから、また少し召し上がればよろしいかと」
「それは、食べすぎではありませんか」
「王妃様は今、あまり食べていません」
リナの言葉は正しかった。
けれど、シンデレラはまだ手をつけなかった。
王妃の食卓は、相変わらず綺麗だった。
けれど、その夜の食卓は少しずつ冷めていった。
窓の外が暗くなったころ、ようやく王子様が戻ってきた。
「遅くなった」
王子様は少し息をついて、食堂に入ってきた。
疲れている顔だった。
シンデレラは立ち上がった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
王子様はシンデレラの前に来て、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「使節との話が長引いてしまって」
「そうでしたか」
「食事は?」
「まだです」
王子様は驚いた。
「まだ?」
「はい」
「先に食べていてよかったのに」
それは、王子様にとっては自然な言葉だった。
責めたつもりはなかった。
むしろ、気を遣ったつもりだった。
けれど、その言葉は、シンデレラの中に小さく引っかかった。
先に食べていてよかった。
そうかもしれない。
でも、自分は待っていたのだ。
温かかった料理が冷めていくのを見ながら。
リナに促されながら。
給仕たちに気を遣わせながら。
待っていた。
「一緒に食べられると思っていましたので」
シンデレラは静かに言った。
王子様は少し困ったように眉を下げた。
「朝はそう思っていたんだけど、予定が変わったんだ」
「そうでしたら」
シンデレラは言いかけて、少しだけ言葉を飲み込んだ。
でも、飲み込んだ言葉は、胸の中で熱くなった。
「そうでしたら、教えていただきたかったです」
王子様は少し驚いた。
「教える?」
「遅くなるなら」
「ああ」
王子様は納得したようにうなずいた。
けれど、そのうなずきは少し軽かった。
「急に話が延びたんだ。すぐに戻れると思っていたから」
「でも、戻れなかったのですよね」
「そうだね」
「なら、その時に」
王子様はそこで少し困った顔をした。
「夜会の場で、妻に帰宅時間を知らせるために席を外すわけにはいかない」
シンデレラは黙った。
それは、わかる。
王子様には王子様の場がある。
使節との話。
王族としての振る舞い。
途中で抜けられない空気。
それは、たぶん本当だ。
でも。
「私は、食事をずっと待っていました」
「待っていてとは言っていない」
王子様は、すぐにそう言った。
その瞬間、食堂の空気が止まった。
王子様自身も、言ってから少しだけ表情を変えた。
悪気はなかったのだと思う。
正しいことを言ったつもりだったのだと思う。
実際、その通りだった。
王子様は、待っていてとは言っていない。
けれど、シンデレラは待っていた。
そこに、何か名前のつかない悲しさがあった。
シンデレラは、冷めたスープを見た。
もう湯気は立っていなかった。
「そうですね」
シンデレラは静かに言った。
「言われてはいません」
王子様が口を開きかけた。
けれど、シンデレラは先に続けた。
「でも、待ちたかったのです」
王子様は黙った。
「一緒に食べられると思ったから。朝に、そう言ってくださったから。だから、少し楽しみにしていました」
シンデレラの声は、怒鳴るほど大きくはなかった。
でも、自分でも驚くほど、まっすぐ出た。
「待っていてと言われたから待ったのではありません。私が、待ちたかったのです」
王子様は、少し目を伏せた。
「それは……」
「でも、待ちたいなら待ちたいと、私も言えばよかったのでしょうね」
シンデレラは、冷めた皿を見たまま言った。
「晩餐を一緒に取りたいです、と。遅くなるなら教えてほしいです、と」
王子様は、ゆっくり息を吐いた。
「シンデレラ」
「はい」
「ごめん」
シンデレラは顔を上げた。
王子様は、疲れた顔のまま、けれど今度は軽くない声で言った。
「僕は、君が待っているかもしれないと考えなかった」
「……はい」
「いや、考えなかったというより、考える必要があることに気づいていなかった」
王子様は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「城では、予定が変わることが多い」
シンデレラは黙って聞いた。
「食事も、時間も、人の動きも、誰かが調整してくれる。僕が言わなくても、侍従が伝え、給仕が動き、誰かが整えてくれる」
王子様は、冷めた食卓を見た。
「だから、僕はそれに甘えていたのかもしれない」
シンデレラは、少しだけ顔を上げた。
王子様は続けた。
「予定が変わることには慣れていた。けれど、僕の予定が変わることで、君の時間まで変わるのだと、ちゃんと考えていなかった」
「……はい」
「それに」
王子様は少し言葉を探した。
「君が、僕との晩餐をこんなに大切にしてくれていることも、考えていなかった」
シンデレラは黙った。
その言葉は、先ほどまでの言い訳とは違っていた。
王子様は、もう一度、冷めたスープを見た。
「僕にとっては、予定が少し延びただけだった。でも君にとっては、楽しみにしていた時間が、ずっと冷めていくことだった」
王子様は、ゆっくり息を吐いた。
「それを、僕は軽く扱った」
シンデレラの胸の熱が、少しだけ静まった。
王子様は、自分が何をしたのか、わかろうとしてくれている。
それだけで、全部ではないけれど、少しだけ息ができた。
「私も」
シンデレラは言った。
「勝手に待ちました」
「勝手に、ではないと思う」
「でも、待つなら待つと、伝えればよかったのです」
王子様は少しだけ笑った。
「では、どちらも少しずつ悪い?」
「そういう言い方をすると、少し軽く聞こえます」
「ごめん」
「でも、たぶん、そうです」
シンデレラも少しだけ笑った。
それを見て、リナが壁際でほっと息を吐いた。
年配の侍女は、最初から何も聞いていなかったという顔をしていた。
給仕たちは、冷めた料理をどうするべきか迷っている。
王子様は、ふとその様子に気づいた。
「料理を温め直してもらえるかな」
給仕がすぐに動こうとした。
その時、リナが小さく言った。
「厨房に持っていけば、早いかもしれません」
全員がリナを見た。
リナはまた、言ってから青くなった。
「す、すみません」
シンデレラは思わず笑った。
王子様も、少し笑った。
「では、厨房に行こうか」
今度は、給仕たちが固まった。
シンデレラは王子様を見た。
「よろしいのですか」
「前にも行ったんだろう?」
「はい」
「なら、今日も邪魔をしない程度に」
リナは、今度こそ完全にあきらめた顔をした。
「料理長が、また驚きます」
「たぶん、もう慣れてもらうしかない」
王子様がそう言ったので、シンデレラは笑った。
二人は、冷めた料理を持って厨房へ向かった。
料理長はもちろん驚いた。
王子様と王妃様が、冷めた晩餐を持って厨房に現れたのだから、驚かない方が難しい。
けれど、料理長はすぐに鍋を用意してくれた。
スープを温め直し、肉料理には少しだけ焼き目を足し、硬くなったパンは薄く切って火であぶった。
シンデレラは、それを見ながら思った。
冷めた料理は、終わりではない。
温め直せば、また食べられる。
少し形は変わるかもしれない。
最初の予定通りではないかもしれない。
でも、また湯気は立つ。
王子様は、隣でその様子を見ていた。
「今度から」
王子様が言った。
「遅くなるかもしれない日は、朝のうちにそう言う」
「はい」
「予定が変わったら、できるだけ伝える。僕が無理でも、侍従に伝えさせる」
「はい」
「それから」
王子様は少し迷った。
「君が待ちたい日は、待ちたいと言ってほしい」
シンデレラはうなずいた。
「言います」
「先に食べたい日は?」
「先に食べます」
「怒っている日は?」
シンデレラは少し考えた。
「怒っていると言います」
王子様は笑った。
「それは助かる」
「助かるのですか」
「怒っているのか、疲れているのか、眠いのか、まだ見分けがつかない」
「全部かもしれません」
「それは難しい」
王子様が真面目に言うので、シンデレラはまた笑ってしまった。
温め直されたスープから、湯気が立った。
さっきまで冷たくなっていた食卓が、厨房の火のそばで少しずつ戻っていく。
二人はそこで、改めて晩餐を取った。
王妃の食卓としては、きっと正しくない。
けれど、シンデレラはその夜の食事を、忘れないだろうと思った。
王子様は優しい。
それは本当だった。
けれど、優しいだけでは、わからないことがある。
待っていること。
楽しみにしていること。
予定が見えないと不安になること。
言われていなくても、勝手に待ってしまうこと。
そういうものは、言葉にしないと伝わらない。
シンデレラは、温かくなったスープを口にした。
少しだけ、さっきより味が濃くなっている気がした。
「おいしいです」
シンデレラが言うと、王子様は安心したように笑った。
「よかった」
その夜、二人はひとつだけ決めた。
遅くなる日は、できるだけ伝える。
待ちたい日は、待ちたいと言う。
先に食べる日は、先に食べる。
とても小さな決まりだった。
王国を動かす決まりではない。
社交界を変える決まりでもない。
童話に書かれるような誓いでもない。
けれど、シンデレラにとっては大事だった。
めでたしめでたしの続きには、こういう小さな決まりが必要なのかもしれない。
もちろん、その小さな決まりが一度で完璧に守られるほど、夫婦の生活は簡単ではなかった。
王子様は優しい。
けれど、予定を共有するのは、まだ少し下手だった。
それでもこの夜、二人は初めて「待つこと」に名前をつけた。
シンデレラは王子様と並んで、温め直した晩餐を食べた。
冷めた料理は、もう一度温めればいい。
夫婦の会話も、きっと少し似ている。
冷めきってしまう前に、火のそばへ持っていければ。
その夜のスープは、最初に出された時より少しだけ濃くて、少しだけおいしかった。
次回:シンデレラ・ブラックドレス 第4話|王妃様、洗濯場で手を出す
前回:シンデレラ・ブラックドレス 第2話|王妃様、まかないを所望する
※この物語は「第0話|黒いドレスの王妃様」から繋がっています。プロローグがまだの方はこちらからどうぞ。
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