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「そりゃそうですよ。」──語られた言葉に、語り返さないという選択

※この記事は約960文字です。

【序章】

その言葉に、反応する必要はあるのか?


言葉というのは不思議なもので、
受け止める側が意味を与えるまでは、ただの音に過ぎない。

それが侮辱であっても、批判であっても、あるいはただの無知であっても。

だから時に、人はこう問うべきなのだ。

この言葉に、返す価値はあるのか?


【第一章】

その人とは、初対面だった


数年前の六月のある日、初対面の人物に、いきなりこう言われた。

「お前みたいなヤツが、あの子に相手にされる訳ねーだろ」

驚きはなかった。

ただ、面白いなと思った。

なぜなら彼女は、何も知らなかった。

私のことも、過去のことも、その子との関係も。

知らないのに断言する。

それは語りではなく、暴力だ。

言葉という形を借りた、関係への侵入である。


【第二章】

訂正すれば、巻き込まれる


その場で言い返すこともできた。

「いや、実はこうで……」と経緯を語り、誤解を解くこともできた。

けれどそれは、その人の語りを“正すに値する”と認めることだ。

語り返した瞬間、その場の物語は“対話”になる。

正誤を巡る舞台が開かれ、私もその芝居の一員になる。

それが、どうしても嫌だった。


【第三章】

笑って、終わらせるという戦略


私はただ、笑って言った。

「そりゃそうですよ。」

それだけだった。
反論しない。否定もしない。感情も出さない。

ただ、その語りに意味があるふりをして、黙って幕を引いた。

これは自己防衛ではない。

“この会話は、もう終わっている”という宣言だった。


【第四章】

語り返さないという境界線


言葉を返せば、相手を壊せることもある。

だがそれは、もう私のしたいことではなかった。

大人になるとは、おそらくそういうことだ。

語りの背後にある浅さを見抜いても、あえて沈黙を選ぶこと。

相手の無知を指摘せず、自分の尊厳だけ守ること。

それは逃げではなく、選択だった。

人は何を語るのかが知性だとしたら、

何を語らないのかは品性だ。

そして、そのバランスを決めるのは理性の仕事だと思っている。

そして、どんな状況であれ、他人に不機嫌なところを見せるのは未熟な証拠でもある。


【終章】

語る資格のない言葉には、語り返さない自由がある


人は、自分の人生について語る自由を持っている。

だが、他人の人生について断言するとき──

その語りには、責任が伴う。

私はあのとき、その責任を背負っていない言葉に出会った。

だから、何も返さなかった。

「そりゃそうですよ。」

その言葉は、同意のかたちを借りた拒絶。

そして、沈黙による絶縁。

それ以上、語る必要はなかった。

それだけで、もう十分だった。


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