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恋を諦めた人が他人の恋を演出し始めるとき

――それは言語による干渉という名のコントロール

※この記事は約1300文字です。

【序章】

「その恋は、語りの中で始まり、語りの中で終わる」


本人は、自分の恋をもうやらないと決めていた。

もしくは、やれないと信じていた。

だから語る。だから見る。

そして、他人の恋を“題材”として使いはじめる。

語りは感情の代理恋愛だ。

言葉によって、他人の感情に干渉し、自分の物語を編み直す。

それはアドバイスではない。応援でもない。

もはや、言語によるコントロールだ。

【第一章】

「なぜ、自分の恋を語らないのか」


恋愛とは、拒絶や失敗のリスクを伴う。

だから、語り手は“語る側”でありつづける。

自分を主語にせず、語りを他人に投げる。

「あの子とあの人はどうこうらしい」

「落としたらしい」「でも調子にのってる」

それは、自分の感情を賭けずに、
恋愛のドラマに参加する観客でもなく、演出家でもない、
曖昧な“語りの主人公”
というポジション。

【第二章】

「他者というアバター」


語り手にとっての”あの子”とは、実在の他者ではなかった。

それは、“私がもし恋をするなら”という仮想の人格=アバター

アバターの行動や言葉に、自分の未処理の感情を投影する。

→ 「あの子を落としたからって調子にのらないでよね」

これは、アバターの代理発言ではない。

語り手の“恋できなかった自分”が、語った精一杯の嫉妬の言葉だった。

【第三章】

「語りという干渉、干渉という支配」


この語りは優しさではない。

助言でもない。ましてや正義でもない。

それは、他人の感情領域に介入し、自分が作った筋書き通りに人を動かそうとする行為。

「あなたはこう見える」「きっとあの子はこう思っている」

という語りの連打は、実質的にはこう言っている:

「あなたは、私が書いた通りに振る舞いなさい。」

しかもそれは言語で行われるため、
暴力ではなく、親切の仮面をかぶって近づいてくる。

【第四章】

「支配者の不在、自分自身の空洞」


不思議なのは、こうして語る人間が、
けして自分の恋や自分の感情について語らないことだ。

彼女らは決して、「私はあの人が好き」とは言わない。

「私が傷ついた」「私は怖い」とも言わない。

代わりに言うのは、
「あの子はこう思ってるはず」

「あなたが調子にのっている」

「みんながどう感じているか、考えて」

……という、自分ではない“主語”を借りた攻撃だ。

恋をする勇気の代わりに、
他人の物語を演出することで、
彼らは“自分という空白”を埋めようとする。

【終章】

「恋をやらない者が恋を語るとき、それは支配になる」


恋をしていないのに、恋を語る。

その語りはいつしか、
他人の感情をコントロールするための手段に変わっていた。

語ることで、他人を動かし、
その反応に感情的充足を得る。

だがそれは恋ではない。

それは、恋愛という劇の観客席から、
俳優の台詞にダメ出しするだけの存在。

「あの子を落としたからって調子にのらないでよね」

その一言は、
語り手がアバターに投影した自分自身と、
語られる側の俺への嫉妬と支配の結晶だった。

恋をやらない人間が恋を語り始めたとき、
そこにあるのは恋ではない。

それはただ、他人の人生に脚本を渡すという、
言葉による静かな暴力なのだ。


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