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相手が冷静になるまで、私は噛まれ続ける



副題

不機嫌な人の後始末を、なぜ冷静な人が引き受けるのか

14年ほど前のことだ。

当時住んでいた実家から、30メートルほど離れた場所を歩いていた。

すぐ隣には用水路があった。

そこで、犬を連れた女性とすれ違った。

犬はチワワだった。

そして、そのチワワが突然、私の足に噛みついた。

幸い、私はジーンズを履いていた。

歯が直接皮膚に届くこともなく、怪我はなかった。

だから結果だけを見れば、大した事件ではない。

チワワに噛まれた。

無傷だった。

それだけの話にも見える。

しかし、今でも記憶に残っているのは、犬に噛まれたことではない。

飼い主の反応だった。


「離せ! 離さないと警察を呼ぶぞ!」


チワワは、私の足に噛みついたままだった。

こちらとしては、少し困る。

無理に足を振れば、犬が飛ばされるかもしれない。

蹴れば、当然犬が怪我をする可能性がある。

すぐ横には用水路もある。

犬を引き剥がそうとして何か起きれば、今度はこちらが犬に危害を加えた側にもなり得る。

だから私は、ほとんど何もしなかった。

というより、

何もできなかった。

すると飼い主の女性が、私に向かって怒鳴った。

「離せ!」

「離さないと警察を呼ぶぞ!」

一瞬、

えっ?

と思った。

私の足に犬が噛みついているのである。

私は犬を捕まえているわけではない。

犬を離すためのスイッチを持っているわけでもない。

私の意思とは関係なく、犬が勝手に噛みついている。

にもかかわらず、

「離せ」

と言われる。

なかなか不思議な状況だった。


私にできることは、耐えることしかなかった


こういう場面では、被害を受けている側ほど行動が制限される。

犬を蹴れば問題になる。

強く振り払って犬が怪我をしても面倒になる。

飼い主に手を出せば、当然もっと大きな問題になる。

では、どうするか。

結局、

相手が冷静になるまで噛まれ続ける

という選択肢が、もっとも安全になる。

これは妙な話である。

問題を起こしたのは私ではない。

犬を管理していたのも私ではない。

それなのに、

「状況をこれ以上悪化させない責任」

だけは、こちら側に発生する。

こちらが冷静でいなければならない。

こちらが手を出してはいけない。

こちらが余計なことをしてはいけない。

つまり、

相手が冷静さを失った分だけ、こちら側の冷静さが要求される。


最も冷静な人間が、場の費用を払わされる


これは犬の話だけではない。

人間関係でも、よく似たことが起こる。

怒鳴る人がいる。

泣いて話し合いを止める人がいる。

不機嫌になって口を利かなくなる人がいる。

威圧する人がいる。

すると周囲は、

「今は刺激しない方がいい」

「落ち着くまで待とう」

「こちらが折れた方が早い」

と考える。

その結果、

感情を制御できなくなった本人ではなく、

感情を制御できている人間が、場を維持するための費用を払う。

相手が怒鳴れば、こちらが黙る。

相手が不機嫌になれば、こちらが気を遣う。

相手が話し合いを拒めば、こちらが先送りする。

冷静な人間ほど損をする。

もちろん、冷静でいること自体が悪いわけではない。

むしろ、社会を壊さないためには必要な能力だ。

問題なのは、

その能力がある人にばかり負担が集中することだ。


不機嫌は、交渉手段になる


そして、もっと厄介なのはここからだ。

もし、

怒鳴る



相手が引く



自分の責任を追及されなくなる

という経験を繰り返せばどうなるだろう。

本人が意識していなくても、

「怒れば状況を有利にできる」

という学習が成立する。

不機嫌になる。

周囲が気を遣う。

泣く。

相手が話題を引っ込める。

怒鳴る。

周囲が謝る。

そうやって、

感情表現が単なる感情ではなく、

交渉手段

になっていく。

おそらく本人の中では、

「自分は怒りっぽい」

という認識すらないかもしれない。

むしろ、

「いつも自分ばかり嫌な目に遭う」

「相手が自分を怒らせる」

「自分は被害者だ」

と感じている可能性すらある。

しかし外から見ると、

不機嫌になることで周囲の行動を変えている。

つまり、

自分の感情処理コストを他人に外部化している。


警察を呼ぶと言われたので、自分で呼んだ


そのとき私は、

仕方がないので自分から警察に電話した。

事情を説明した。

犬に噛まれていること。

飼い主から「警察を呼ぶぞ」と言われていること。

多分、警察へは同じ説明を3回はした。

そして飼い主へは、

人を襲った動物であれば、飼い主側にもそれなりの責任が生じ得るだろう、

という話をした。

事実、飼い犬が人を咬んだり危害を与えた場合、飼い主には保健福祉事務所への届出義務がある。

すると、それまで怒っていた飼い主の態度が変わった。

ようやく、その場では謝罪してきた。

ただし、後日、別途にお詫びがあったわけではない。

私の親に、クレームのような連絡が第三者を通して遠回しに入った。

結局、それで終わった。

ここで面白いのは、

私が怒鳴り返したわけでも、

犬を蹴ったわけでも、

飼い主と喧嘩したわけでもないことだ。

ただ、

判断する主体を、その場の二人から第三者へ移した。

それだけだった。

「警察を呼ぶぞ」

という言葉は、

それまでは威圧として使われていた。

しかし本当に警察が入るとなれば、

感情の強さではなく、

何が起きたのかが問題になる。

そこで初めて、

怒っている方が強い、

というゲームが終わる。

それでも、飼い主の女性が日頃から悪い人間だとは思わない。

彼女にとっての「警察を呼ぶぞ」は、彼女に切れる最大限のカードなのだろうから、そこを崩せば良いだけの話だった。

彼女にとっての最大の誤算は、警察は呼んだ方の味方になるわけではないということだった。

実際、その場で警察から告げられたのは『民事不介入』だった。

行政側の人間も、仕事は増やしたくないのか、大体こういうときは冷静な方に負担を投げてくる。

この問題は、今後の人生でも複数回出てきた。


怒りというゲームから降りる


たぶん、こういう場面で重要なのは、

相手より強く怒ることではない。

相手を言い負かすことでもない。

むしろ、

怒りによって勝敗を決めるゲームそのものから降りること

なのだと思う。

感情的な人間と感情で戦えば、

こちらも同じ土俵に乗る。

犬を蹴る。

相手を怒鳴る。

押し返す。

そうすれば、

最初は明確だった責任関係が、徐々に曖昧になる。

「犬が噛んだ」

という単純な話だったものが、

「どちらも怒鳴っていた」

「犬も蹴られた」

「押した、押していない」

という話へ変わっていく。

だから時には、

手を出さず、

怒鳴り返さず、

ただ第三者を呼ぶ。

それがもっとも強い行動になることもある。


冷静さは美徳だが、無料ではない


冷静でいることは美徳だ。

しかし、

冷静さにはコストがある。

怒りたいところで怒らない。

反撃できるところで反撃しない。

相手が落ち着くまで待つ。

自分の感情を抑えながら、状況を整理する。

これは何もしていないのではない。

むしろ、

かなり大きな仕事をしている。

そして社会ではしばしば、

その仕事をしている人ほど、

何もしていないように見える。

一方で、

怒鳴った人、

泣いた人、

暴れた人、

不機嫌になった人の方が、

周囲を動かしてしまう。

だからこそ、

ときどき立ち止まって考えた方がいい。

いま誰が、

この場を成立させるための費用を払っているのか。

誰が感情を爆発させ、

誰がその後始末をしているのか。


おわりに


14年前、

私は実家の近くでチワワに噛まれた。

ジーンズを履いていたので、怪我はなかった。

だから、

身体的な被害としては何も残っていない。

それでも理不尽な出来事として記憶に残っている。

たぶん、

あの場面には人間関係の縮図のようなものがあったからだ。

犬に噛まれる。

飼い主が怒る。

こちらは反撃できない。

そして、

相手が冷静さを取り戻すまで、

こちらが耐える。

人生では、ときどきこういうことが起こる。

最も冷静な人間が、最も多くの負担を引き受ける。

だから冷静であることと、

何でも引き受けることは、

同じではない。

ときには第三者を呼んでもいい。

ときには、その場のルールそのものから降りてもいい。

怒っている人を、

必ずしもこちらが落ち着かせる必要はない。

相手の感情は、

本来、相手自身が引き受けるものなのだから。


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