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怒らなくなったのは、人に依存しなくなったからかもしれない


副題

必要な依存と、必要以上の依存のあいだで

はじめに|普通なら怒る場面で、笑ってしまう


最近、怒ることがなくなったように感じる。

以前なら腹が立っていたはずの場面でも、なぜか笑ってしまう。

相手があまりにも予想どおりの行動をしたとき。

自分の都合だけを見て、もっともらしい理由を並べているとき。

責任を取らず、同じ失敗を繰り返しているとき。

普通なら怒るところなのだろう。

けれど、私の中から出てくるのは、怒りではなく笑いである。

もちろん、愉快だから笑っているわけではない。

相手を馬鹿にしているとも少し違う。

「ああ、やはりそうなるのか」

「人間とは、ここまで自分に都合よく考えられるものなのか」

そんなふうに、出来事を少し外側から眺めている。

怒らなくなったのは、穏やかになったからなのだろうか。

それとも、何かを諦めてしまったからなのだろうか。

考えているうちに、一つの可能性に行き着いた。

私は、人に必要以上に依存しなくなったのかもしれない。


1|怒りとは、壊された期待である


怒りは、目の前の出来事だけから生まれるわけではない。

その奥には、たいてい何らかの期待がある。

相手なら理解してくれるはずだ。

言えば分かるはずだ。

約束は守るはずだ。

誠実に向き合うはずだ。

同じことを何度も繰り返さないはずだ。

怒りとは、現実が期待に届かなかったときに生まれる感情である。

より正確に言えば、相手の行動によって、自分が頼っていた秩序を壊されたときに生まれる。

だから、人はどうでもいい相手には、それほど深く怒らない。

期待していない相手。

信用していない相手。

自分の人生に影響しない相手。

そうした人が何をしても、多少は不快であっても、激しい怒りにはなりにくい。

怒りが強いということは、それだけ相手に何かを預けていたということでもある。

信頼を預けていた。

理解を預けていた。

自分の安心を預けていた。

ときには、自分の価値まで預けていた。

つまり怒りとは、他者に依存していた部分が傷つけられたときに生じる反応でもある。


2|怒りと笑いは、同じずれから生まれる


怒りと笑いは、反対の感情のように見える。

しかし、両者は意外と近い。

どちらも、予想と現実のずれから生まれるからだ。

「普通なら、そんなことはしない」

「そこまで都合よく解釈するとは思わなかった」

「まさか、また同じことをするとは」

期待と現実のずれを、自分への侵害として受け取れば怒りになる。

一方で、そのずれを構造として眺めれば笑いになる。

怒っているとき、人は出来事の内側にいる。

なぜ分からないのか。

なぜ直さないのか。

なぜ自分をこんな目に遭わせるのか。

しかし笑っているとき、人は少し外側にいる。

この人は、こういう条件ではこう動くのだろう。

この立場にいる人間は、こういう自己正当化をするのだろう。

この構造なら、同じことが繰り返されるのも不思議ではない。

相手を一人の悪人として見るのではなく、行動を生み出す構造として見る。

その距離が、怒りを笑いに変える。

怒らなくなったというより、相手の行動に驚かなくなったのかもしれない。

そして驚かなくなったということは、人間に対する予測が少し現実的になったということでもある。


3|依存しないことと、人を必要としないことは違う


ただし、人に依存しないことが、そのまま成熟であるとは限らない。

人は一人では生きられない。

仕事では、前後の工程を担当する人に頼っている。

生活では、物流、医療、インフラ、行政制度に頼っている。

言葉を使うだけでも、相手がある程度こちらの意味を理解してくれることに頼っている。

完全に自立した人間など存在しない。

人間の生活は、最初から依存によって成立している。

問題は、依存することそのものではない。

何を、どこまで、誰に預けるかである。

相手に仕事の一部を任せること。

困ったときに助けを求めること。

自分にはできないことを、できる人に頼ること。

これは弱さではない。

むしろ、一人で抱え込まないための現実的な判断である。

一方で、自分の安心、自分の価値、自分の人生の意味まで相手に委ねてしまえば、相手の行動によって自分全体が揺さぶられる。

相手が理解してくれなければ、自分には価値がない。

相手が離れれば、自分は生きられない。

相手が期待どおりに動かなければ、自分の人生が壊れる。

ここまで来ると、協力ではなく、必要以上の依存になる。


4|必要な依存とは、相互依存である


では、必要な依存とは何だろうか。

おそらく、チームワークや協調性と呼ばれているものが、それに近い。

仕事では、一人ですべての工程を担うことはできない。

誰かが部品を運び、誰かが組み立て、誰かが点検する。

それぞれが他者の仕事に依存している。

しかし、そこでは自分の役割まで消えているわけではない。

相手に任せる部分があると同時に、自分が担う部分もある。

頼ることと、引き受けることが両立している。

これが相互依存である。

相互依存では、自分の主体性が残っている。

相手に助けてもらうが、自分の人生そのものを相手に預けるわけではない。

相手の力を借りるが、相手がいなければ自分が消えてしまうわけではない。

つまり、

一人で立つことと、誰にも頼らないことは違う。

誰かを頼ることと、その人に寄りかかりきることも違う。

健全な関係とは、互いに支え合いながらも、どちらか一方がもう一方の人生を背負い込まない状態なのだと思う。


5|必要以上に依存しないと、人への期待が変わる


必要以上に依存しなくなると、人への期待の仕方も変わる。

この人は、ここまではできる。

しかし、ここから先は難しい。

この部分は任せられる。

だが、この部分まで任せてはいけない。

誠実なところもある。

同時に、自分を守るためなら事実を曲げるところもある。

以前なら、相手の一面を見て、その人全体を信じていたかもしれない。

けれど今は、相手を部分ごとに見る。

信頼できる部分と、信頼できない部分を分ける。

できることと、できないことを分ける。

期待できる範囲と、期待しない範囲を分ける。

これは冷たい見方にも思える。

しかし、人を理想化しないことは、人を軽視することではない。

むしろ、相手を現実の人間として見ることでもある。

人には限界がある。

弱さもある。

矛盾もある。

善意があっても、常に善い行動を取れるわけではない。

理解力があっても、自分に不都合なことまで理解できるとは限らない。

人間を現実的に見るようになると、相手の行動は「ありえない裏切り」ではなくなる。

「この人なら、この条件ではそうするかもしれない」

そう考えられるようになる。

そのとき、怒りは少しずつ必要なくなる。


6|笑いは、成熟にも感情の撤退にもなる


ただし、怒る代わりに笑うようになったからといって、それを単純に成長と呼ぶことはできない。

笑いには、少なくとも二種類ある。

一つは、理解から生まれる笑いである。

人間の限界を知り、状況を俯瞰し、必要以上に消耗しない。

笑いながらも、駄目なものは駄目だと言える。

距離を取ることができる。

責任を追及することもできる。

自分の権利や尊厳を守れる。

この笑いは、怒りを使わずに現実へ対応できるという意味で、成熟に近い。

もう一つは、感情の撤退としての笑いである。

本当は傷ついている。

本当は怒りたい。

しかし、怒っても無駄だった経験が多すぎて、最初から諦めている。

「もう笑うしかない」

そうして、侵害されたことまで冗談に変えてしまう。

この笑いのあとには、理解ではなく空虚が残る。

何をされても笑って済ませる。

頼まれれば引き受ける。

嫌だと言えない。

離れるべき関係から離れられない。

それなら、怒りを超えたのではなく、怒る力を失っている可能性がある。

だから重要なのは、笑っているかどうかではない。

笑ったあとに、自分を守る行動が取れるかどうかである。


7|怒りは、世界をまだ信じている感情である


怒りには、どこか希望が含まれている。

相手なら分かるはずだ。

言えば変わるかもしれない。

この状況は正されるべきだ。

怒りとは、世界がまだ修復可能だと信じている感情でもある。

だから、怒らなくなることには、少し寂しさもある。

期待しなくなった。

分かってもらおうとしなくなった。

相手が変わる可能性を、自分の人生の条件にしなくなった。

それは自由であると同時に、諦めでもある。

しかし、諦めには二種類ある。

すべてを投げ出す諦めと、変えられないものを見極める諦めである。

前者は無力感に近い。

後者は、限られた力をどこへ使うかを選ぶ判断である。

誰かを変えようとして怒り続けるよりも、自分が取るべき距離を決める。

理解されることを待つよりも、自分の行動を選ぶ。

相手に誠実さを要求し続けるよりも、誠実でない相手に何を預けないかを決める。

それは世界を見捨てたというより、世界への関わり方を変えたということなのだろう。


終章|他者に、自分の安定を人質として渡さない


最近、怒らなくなったのは、人への関心がなくなったからではない。

おそらく、人に自分の安定を預けすぎなくなったからである。

人を頼ることはある。

仕事では協力する。

困れば助けを求める。

一人でできないことは、誰かに任せる。

けれど、相手の反応によって、自分の価値まで決めてもらおうとはしない。

相手が理解しなくても、自分の経験まで無効になるわけではない。

相手が変わらなくても、自分までその場に残り続ける必要はない。

相手が期待を裏切っても、自分の人生全体が壊れるわけではない。

必要な依存とは、互いの役割を持ったまま支え合うことである。

必要以上の依存とは、自分の安定を相手の人格や行動に預けてしまうことである。

私は、依存そのものを捨てたわけではない。

依存の範囲を選ぶようになったのだと思う。

だから、普通なら怒る場面で笑ってしまう。

それは、人間を見切った笑いなのかもしれない。

しかし同時に、自分の人生まで相手に握らせないための笑いでもある。

一人でも立てる。

けれど、一人ですべてを抱え込もうとはしない。

人を頼る。

けれど、その人がいなければ自分が消えるわけではない。

おそらく自立とは、誰にも依存しないことではない。

必要な依存を引き受けながら、必要以上の依存を手放すことなのだ。


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