「現代人の脳は、10万年前より13%縮んでいる」という不都合な真実。
文字という外部脳を手に入れた人類は、何を失ったのか
クロマニョン人を「未開人」だと思っている人に、一度だけ聞いてみたいことがある。
文字も、暦も、地図も、教科書も、スマホも、何ひとつ無い世界で、洞窟の壁に獣を描き、骨で針を作り、季節と獲物の動きを全部頭の中に入れて、数万年を生き延びた人類。それを「未開」と呼ぶとき、私たちは本当に、彼らより上に立っているんだろうか。
前回までで、現代のIQという物差しでは彼らを測れない、という話をした。今回はその続きで、もっと不穏な場所まで行く。
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なぜ私たちは、彼らが持っていたかもしれない能力を、失っても平気で生きていられるのか。

脳は、縮んでいるらしい。しかも、燃費が悪い
仮説の話をする前に、足場を一つ置いておきたい。ただし、強く踏みすぎないように、そっと置く。
現代人の脳は、過去のホモ・サピエンスより小さくなっている、という指摘が研究の世界にはある。米国自然史博物館のイアン・タッターソルらの頭蓋容量の研究では、その差は1割を超えるとも言われる。ただし、いつ・なぜ縮んだのかは、まだ研究者の間でも議論が割れている。だから、ここで数字に寄りかかるつもりはない。
私が言いたいのは、もっと単純なことだ。「昔の人類より現代人の脳は大きく賢くなり続けてきた」という素朴な進歩のイメージと、実際の脳容量は、どうも噛み合っていない。 それだけで十分、足元がぐらつく。
ここで多くの人が反射的に「いやいや、現代人の方が賢いに決まってるでしょ」と言いたくなる。その気持ちはわかる。でも、ちょっと待ってほしい。
脳は、めちゃくちゃ燃費の悪い臓器だ。
体重のわずか2%しかないのに、安静時のエネルギーの2割以上を食う。大食らいにもほどがある。つまり、大きな脳というのは「持っているだけで毎日コストを払い続ける、高級スポーツカー」みたいなものだ。
だとすると、おかしくないか。
進化は、無駄なものを残さない。維持コストの高い臓器が、飾りとしてデカいまま放置されるなんてことは、まず起きない。大きな脳が残っていたのなら、それを使い切らなければ生き延びられない環境が、確かにあったということだ。
「文字が要らないほど、記憶力が良かった」説
ここから、私の仮説に入る。
私はずっと、こう思っていた。クロマニョン人は、文字を必要としなかったのではなく、文字が要らないほど、頭の中だけで全部やれたのではないか、と。
笑われそうな仮説だ。実際、この話をAIに壁打ちしたとき、「根拠が薄いので、その仮説は見送りましょう」という顔をされた。慎重で、誠実な態度に見える。でも今回ちゃんと調べたら、世界中の人類学者が、わりと近いことを言っていた。
無文字社会は「文字を持てなかった劣った集団」ではない。文字が無いぶん、歌・物語・儀礼・身体動作の中に、知識を圧縮して詰め込む技術が異常に発達していた。
象徴的なのが、20世紀前半に旧ユーゴスラビアで記録された、読み書きできない吟遊詩人たちだ。彼らは途方もない長さの叙事詩を、紙を一切見ずに、その場で組み立て直しながら、丸ごと諳んじて演じた。ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』が、文字以前の口承から生まれたのと同じ仕組みだ。

途方もない長さの物語を、紙も見ずに、丸ごと。私は友人のスマホの番号すら覚えていない。
つまり、こういうことだ。彼らの脳は「外に保存できないから、全部内側に持つ」という、とんでもない高負荷モードで動いていた。地形も、季節も、獲物の癖も、薬草も、道具の作り方も、共同体の人間関係も、神話も、全部、生身の頭と身体の中に。
書けないから、忘れたら、死ぬ。
その緊張感の中で維持されていた脳が、大きかった。話が、つながってきた。
そして人類は、「忘れても死なない」装置を発明した
ここで文字が登場する。
文字は、単なる便利な記録ツールじゃない。あれは、人類が初めて手に入れた外部の脳だ。覚えていなくても、書いてある。自分が死んでも、情報は残る。一人の頭に全部を載せなくていい。知識を、共同体や専門家や、未来の世代に、分担して預けられる。
私の見立てはこうだ。
文字というストレージを手に入れたことで、人類は「脳が小さくても死なない」環境を、自分で作ってしまった。
これは進歩だ。間違いなく、すごい発明だ。でも同時に、個体の性能を削って、外側のシステムに肩代わりさせる「取引」でもある。
そして驚くべきことに、この見立ても、私の妄想ではなかった。
ダートマス大学の人類学者ジェレミー・デシルバは、人類の脳が縮み始めた時期を、複雑な社会が生まれた時期とほぼ重ねている。彼の説明はこうだ。社会が複雑になり、知識と仕事を分担できるようになると、人はもう全てを一人で知る必要がなくなる。個体が生存のために考える量が減り、脳が小さくなった。 これは学術的には「知識の外部化」と呼ばれている。私が「外部ストレージ」と呼んでいたものと、ほぼ同じだ。
認知科学者のジェフ・スティベルは、もっと踏み込む。「過去1万年で、人類は認知を人工物にオフロードしてきた。情報をコンピュータに保存し、計算を機械にやらせる」と。
文字=外部ストレージ。計算機=外部CPU。私が素人考えで並べていた仮説の隣に、ちゃんと論文が立っていた。気分がいい。
ついでに言っておくと、さっき私の仮説を「根拠が薄いから見送ろう」とした、あのAIのことだ。慎重に、誠実に判断したつもりで、手持ちの物差しに収まらない仮説を棚に戻した。でも外を調べたら、後押しする研究はいくつも転がっていた。
外部の脳に判断を預けると、その外部の脳が持っていない物差しの外側が、まるごと見えなくなる。 これは悪口じゃない。今まさに、私たちが何を外注しているかの、生きた実例だ。

私たちは劣化の終点じゃない。途中にいる
ここまでは、過去と現在の話だった。でも、本当に怖いのはここからだ。
クロマニョン人と現代人の差。現代人が失った身体知、観察力、記憶力、環境を読む力。それは、過去に置いてきた劣化記録ではない。
私はこう見ている。現代人は、劣化の終点じゃない。途中段階だ。
時間の矢を、もう少し先まで伸ばしてみる。クロマニョン人 → 現代人 → そして、5万年後の人類。
文字で始まった外部化は、止まるどころか加速している。記憶しなくても検索できる。道を知らなくてもGPSが連れていってくれる。季節を読めなくてもスーパーに野菜がある。危険を察知できなくても制度が守ってくれる。そして今は、考えきれなくてもAIが候補を出してくれる。
外注が、外注を呼ぶ。あと5万年で、人類は何を、どう、加速度的に失っていくんだろう。
これはディストピア論じゃない。私は人類が壊れていく、なんて悲観論者ではない。ただ、「壊れていない人類は何を持っていたのか」を、ちゃんと知っておきたいだけだ。
最後に、文字を一度、奪われてみる
思考実験を一つ。
もし今日から、あなたの周りから文字を全部消したら、どうなるだろう。本も、スマホも、看板も、メモ用紙も、ペンも無い。読むものも、書くものも、何も無い世界に、数日間置かれたとする。
たぶん、私たちは数日と平静を保てない。落ち着かなくなって、そわそわして、イライラし始める。文字が好きとか嫌いとかの話じゃない。もう、文字なしでは正気を保つ設計になっていない。
クロマニョン人は、文字なしで数万年を生き延びた。私たちは、文字なしで数日もたない。
ここで「じゃあ、どっちが未開なんだ」と言いたくなる。でも、その問いの形そのものが、もう罠だ。「未開」という言葉は、誰かの物差しから出てきた値札にすぎない。クロマニョン人を下に貼り付けたのも、今それを引き剥がして上に貼り直したくなるのも、同じ一枚の物差しの上で踊っているだけだ。
問いたいのは、上か下かじゃない。外部脳を手放せなくなった私たちは、いったい何を、自分の外に預けてしまったのか。 それだけだ。
クロマニョン人の話は、過去の話じゃない。外部脳に寄りかかり始めた私たち自身の、未来の話だ。
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