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「クロマニョン人は、現代でも普通にモテる」AIにスペック比較をさせて気づいた残酷な真実

こいつ、現代でも普通にモテるだろ

クロマニョン人の復元像を、見た瞬間に思った。

「こいつ、現代でも普通にモテるだろ」

そして、こうも思った。「強い」と。

博物館やドキュメンタリーで見たことがあるだろうか。骨格から肉付けを再現した、氷河期ヨーロッパを生きた初期ホモ・サピエンスの顔だ。画面のこちら側を、まっすぐ見てくる、あの顔。

画像①[平均的なクロマニョン人がイケメン過ぎる]

骨格に厚みがある。輪郭に迷いがない。スーツを着せて駅の改札を通っても、誰も古生物だとは気づかない。それどころか、何かのスポーツでプロをやっていそうな、あるいは、やたらと修羅場をくぐってきた経営者のような、そういう種類の「通用感」がある。

念のため言っておくと、これは「昔の人類のくせに、案外やるじゃん」という上から目線の話ではない。

私は、そもそも「過去の人類=劣化版」だと思っていない。

私たちは、歴史からは学ぶ。なのに

ここで、一つ引っかかっていることがある。

私たち現代人は、歴史から学ぶことに、ものすごく熱心だ。

戦国武将の意思決定からマネジメントを学ぶ。古代ローマのインフラ設計に唸る。ルネサンスの芸術に頭を垂れる。「歴史に学べ」は、もはや教養の合言葉みたいになっている。

ところが、だ。

文献を残さなかった初期ホモ・サピエンスからは、私たちはほとんど何も学ぼうとしない。

戦国武将からは学ぶのに、彼らからは学ばない。この差は、いったいどこから来ているのか。

答えは、たぶんシンプルだ。文字を、残さなかったから。

文字がない。 だから記録がない。 だから学ぶものがない。 だから——彼らは「学習対象リスト」から、無言で外されている。

これは「見下している」のとは少し違う。もっとタチが悪い。検討すらされず、リストから静かに省かれているのだ。野蛮、原始人、低文明。そういうレッテルが先に貼られていて、中身を開ける前に箱ごと棚の奥にしまわれている。

私がやりたいのは、この箱を、もう一度開けてみることだ。

「スペックを比較してください」と打ってみた

そこで、AIに素朴に聞いてみた。論破するつもりも、深い意図もない。ただの答え合わせのつもりだった。

「クロマニヨン人と現代人のスペックを比較してください。」

返ってきたのは、優等生の答えだった。

脳容量は、クロマニョン人が約1,600cc。現代人は平均約1,350cc。へえ、向こうの方が大きいのか。骨格は頑丈で、身体能力も高い。そこまでは「ふむふむ」と読んでいた。

そして、AIはこう締めた。

「身体的には優れた『スペック』を持っていましたが、現代人は技術と知識の蓄積により、はるかに複雑で高度な文明を築いています。」

——この瞬間、小さなモヤッとが芽生えた。

きれいにまとまっている。まとまりすぎている。「身体は向こうが上、でも文明はこっちが上。だから総合的にはこっち」という、あの仕分け。

聞いた瞬間は「まあそうか」と流しそうになる。でも、舌の上に何かが残る。この仕分け、雑じゃないか?

「スペック」という言葉が、勝手に膨らんでいく

引っかかりの正体を探っていくと、面白いことに気づいた。

「スペック」という言葉が、会話の途中で勝手に膨らんでいたのだ。

最初、私が「スペック」と言ったとき、頭にあったのは身長や筋力や骨格だった。身体の性能。それだけのつもりだった。

ところが比較を進めると、リストに次々と別物が混ざってくる。脳容量。狩猟採集の技術。骨や石から道具をゼロから作る力。洞窟壁画という芸術。文字を持たずに知識を次の世代へ渡す伝承の仕組み。氷河期という極限環境への適応力。

画像②[ヒントなしでこれらの道具を発明し、文字もなく人に伝えられる]

気づけば「スペック」は、身体の性能から、文明をまるごと立ち上げる能力にまで膨らんでいた。

ここで、さっきのAIの仕分けが崩れ始める。

「身体は向こう、文明はこっち」と言うけれど、そもそも文明を立ち上げる能力は、身体の側に置くのか、文明の側に置くのか?

現代文明が複雑で高度なのは、間違いない。けれどその複雑さは、生きている個人の脳に入っているわけではない。図書館に、インターネットに、制度に、インフラに、分業に、外注されて積み上がっているものだ。

つまり、AIが「現代人のスペック」として褒めていたものの大半は、現代人という個体の性能ではなく、現代人が乗っかっているシステムの性能だった。

クロマニョン人には、そのシステムがなかった。図書館も、検索エンジンも、学校も、先生もいない。

なのに彼らは、道具を作り、芸術を残し、狩りを設計し、知識を世代を超えて運んだ。ゼロから、自分たちの身体と頭だけで。

これ、本当に「向こうは身体だけ」で片付く話だろうか。

文字がない、を「中身がない」と読み違えていないか

ここで、二つだけ、想像してみてほしい問いがある。

一つ目。明日食べるものを探す生活の中で、絵を描く「暇」があるか。

洞窟壁画を、私たちはつい「余裕の産物」だと思ってしまう。文化は、食うに困らなくなってから育つものだ、と。

でも、彼らの壁画は、氷河期の狩猟採集生活のただ中で描かれている。明日の食料が約束されていない世界で、わざわざ暗い洞窟の奥に入り、顔料を作り、獣を描いた。

画像③[最古の絵を最新技術で描く]

これは「余裕があったから描けた」のではない。余裕がない中で、それでも描かずにいられなかった何かがそこにある。現代人の「衣食足りて文化を知る」という前提のほうが、もしかすると後付けの言い訳なのかもしれない。

二つ目。集落の違う相手に、石の割れ方を「見せて」、石器を再現させられるか。

石器作りは、想像よりずっと高度な技術だ。どの石を選び、どの角度で、どの力で叩けば、狙った刃が取れるか。これを、文字も設計図もなしに、別の集落へ伝えて、再現させていた。

仕様書がない。マニュアルもない。あるのは、実演と、手の動きと、口伝えと、その場の共有だけ。

私たち現代人は、「ドキュメントに残さないと伝わらない」と思い込んでいる。議事録、マニュアル、引き継ぎ資料。文字に落とさなければ知識は消えると、心の底から信じている。

でも彼らは、文字という外部装置を持たないまま、高度な技術仕様を身体から身体へ転送していた。これは低文脈どころか、極限まで高文脈な世界だ。文脈と関係性と身体に、すべてが載っていた。

「文字がない」を、私たちは「中身がない」と読み違えてきたのではないか。

……ここで、もう一つ、別の場所で起きた事件を思い出してほしい。文字を「持っていなかった」側が、文字を「手にした」瞬間、何をやらかしたか、という事件だ。

漢字を渡された日本人は、いきなり万葉集を書いた

かつて日本人は、文字を持っていなかった。そこへ大陸から漢字がやってくる。

文字を手にした日本人は、何をしたか。たどたどしく実用文を書き始めた——のではない。いきなり万葉集を書いた。

天皇から防人まで、高度で繊細な言葉遊びと感情表現が、文字を得た途端、堰を切ったように噴き出した。

もちろん、これは厳密な年表の話ではない。渡来も編纂も、長い時間をかけて進んだ。ここで言いたいのは過程の精密さではなく、こういうことだ。「文字がなかった」は、「中身がなかった」を意味しない。 器がなかっただけで、中身はとっくに満ちていた。文字は、すでにあった豊かさを、外に出すための蛇口だっただけだ。

さて。クロマニョン人に、現代という蛇口を渡したら、何が噴き出すだろうか。

万葉集が噴き出した、あの勢いで。

レッテルを、張り替える

ここまで来て、私がやりたいことがはっきりした。

クロマニョン人を「現代人の完全上位互換だった」と断定したいわけではない。そんな雑な逆張りには興味がない。

ただ、今貼られているレッテルが、雑すぎる。

原始人。低文明。野蛮。——この三枚を、剥がしたい。

そして、こう張り替えたい。

イケメン。高文脈。サバイバー。

イケメンなのは、復元像を見れば一目瞭然だ。 高文脈なのは、文字なしで技術と文化を運んでいたから。 サバイバーなのは、システムなしで氷河期を生き抜いたから。

「全部こっちが上」という物差しがナンセンスなのと同じくらい、「全部向こうが下」という物差しもナンセンスだ。どっちも、見る前から答えを決めている。

私がやりたいのは、見る前に決めた答えを、いったん白紙に戻すこと。それだけだ。

ところで、もし彼らが本当に「壊れていない人類」だったとして。

そのサンプルを、そっくりそのまま現代に投げ込んだら——AIは、彼らの知能を、いったい何点と評価するんだろうか。

その答え合わせは、次回。AIが弾き出した、ある一つの数字から始めようと思う。

私は、その数字を見て、けっこう本気で笑ってしまった。

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