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手を合わせたあと、日常をどう生きるか - 祈りを暮らしに戻すということ -

ハイサイ。
ととのえ職人、五木田穣ごきたゆたかです。

このnoteでは、心と体と思考のズレをやさしくととのえる話を、日々書いています。

先日、出雲大社沖縄分社で、厄除祈願を受けてきました。

前厄、本厄、後厄。

この3年間、毎年、厄除・厄祓祈願を受けてきました。

最初に、
厄を祓うとは、節目を丁寧に扱うこと
という話を書きました。

次に、
災いを怖がるより、日々の向き合い方をととのえること
について書きました。

今日は、その続きとして、もう一記事書いてみます。

祈願を受けたあと。
手を合わせたあと。
神社を出たあと。

私たちは、また日常に戻っていきます。

そのとき、祈りをどこに置いていくのか。

特別な場所で終わらせるのか。
それとも、暮らしの中に戻していくのか。

今日は、
手を合わせたあと、日常をどう生きるか
ということを書いてみたいと思います。



祈りは、特別な時間だけにあるものではない

神社で手を合わせる時間は、特別です。

鳥居をくぐる。
境内を歩く。
手水で手を清める。
静かに頭を下げる。
柏手を打つ。
祈る。

そのひとつひとつが、
日常とは少し違う速度を持っています。

普段の私たちは、どうしても急いでいます。

次の予定。
仕事のこと。
連絡の返信。
やらなければいけないこと。
考えなければいけないこと。
これからどうしていくか。

頭の中は、
いつも少し先を走っています。

でも、祈りの場では、その流れが一度止まります。

立ち止まる。
静かになる。
頭を下げる。
手を合わせる。

それだけで、自分の内側に少し余白が戻ってくる。

祈りの場には、そういう力があります。

ただ、祈りは、
神社やお寺の中だけにあるものではありません。

手を合わせる時間は、確かに特別です。

でも、祈りはそのあとにも続いていく。

神社を出る。
家に帰る。
仕事をする。
ごはんを食べる。
人と話す。
体を休める。
また明日を迎える。

その日常の中に、手を合わせた自分をどう戻していくか。

日常の中にも、祈りの続きがあります。


お願いして終わり、ではない

参拝をするとき、私たちは願います。

無事に過ごせますように。
大きな災いがありませんように。
家族が健やかでありますように。
仕事が穏やかに進みますように。
心と体が守られますように。

願うことは、とても自然なことです。

自分ではどうにもならないことがあります。

人の力だけでは及ばないことがあります。

どれだけ気をつけていても、
思い通りにならないことがあります。

だからこそ、手を合わせる。

見えないものに委ねる。

自分の力だけで生きているわけではないことを、思い出す。

それは、とても大切なことです。

でも、祈りは、お願いして終わりではない。

「どうか守ってください」と手を合わせたあと、
では、自分は今日をどう生きるのか。

「無事に過ごせますように」と願ったあと、
では、自分の体の声をどう扱うのか。

「穏やかでありますように」と願ったあと、
では、自分の言葉や態度をどうととのえるのか。

「良い流れになりますように」と願ったあと、
では、日々の小さな選択をどうするのか。

祈って終わりではなく、自分の内側に還っていく。
そして、日々の生活に戻っていく。

お願いすることと、
自分の暮らしを丁寧に扱うこと。

これらは、別々のものではありません。


見えないものに委ねながら、見えている足元をととのえる

祈るということは、
すべてを自分の力でコントロールしようとしない、
他力を信じるということ
です。

どうにもならないことがある。

自分の力だけでは動かせない流れがある。

タイミングというものがある。

ご縁というものがある。

見えないところで支えられているものがある。

それを受け入れること。

自分の力だけで何とかしようとする意識を、少しゆるめること。

それも、祈りの大切な意味です。

ただ、
委ねることは、自分の人生を手放すことではありません。

何もしなくていい、ということでもありません。

見えないものに委ねながら、見えている足元を丁寧に扱う。

ここが大切です。

今日、どんな言葉を使うのか。
どんな姿勢で人と向き合うのか。
体の違和感をどう受け取るのか。
無理をしている自分に気づけるか。
焦っている自分を責めずに見られるか。
休む必要があるときに、休むことを選べるか。

見えないものに手を合わせながら、見えている日常を雑にしない。

それが、祈りを暮らしに戻すということです。


自分だけで抱えない。でも、自分の人生を手放さない

私は、自立と共生という言葉を大切にしています。

自立とは、誰にも頼らず、一人で全部を抱えて生きることではありません。

自立とは、自分の「いのち」を自分のものとして引き受けること。

自分の状態に気づくこと。

自分の足元を観ること。

自分にできることを、できる範囲で丁寧に行うこと。

そして共生とは、誰かと支え合いながら生きること。

自分だけで抱え込まないこと。

見えないもの、自然、土地、人とのつながりの中で、生かされていることを思い出すこと。

祈りは、
この自立と共生の世界観そのもの
だと思っています。

祈ることは、自分だけで抱えないということ。

自分の力だけでは及ばないものがあると認めること。

でも同時に、自分の人生を手放さないということ。

神様に手を合わせながら、自分の足元にも戻ること。

見えないものに委ねながら、見えている日常を丁寧に扱うこと。

それは、依存ではなく、自立と共生としての祈りです。

自分だけで抱えない。

でも、自分の人生を放り出さない。

支えられていることを思い出しながら、自分の足で今日を生きる。

その感覚を、この厄年の3年間でより強く感じるようになりました。


祈りを、暮らしの中の小さな選択に戻す

祈りを暮らしに戻すというと、
少し大きなことのように聞こえるかもしれません。

でも、実際にはとても小さなことなんです。

朝、目が覚めたときに、
すぐに起き上がらないで、一度呼吸を感じること。

体が重たい日に、「なんでこんなに動けないんだ」と責める前に、
少し休ませてあげること。

人に合わせすぎて疲れたときに、
「今の自分は少し無理をしていたな」と気づくこと。

焦っているときに、いったん立ち止まり、足元を見ること。

言葉が強くなりそうなときには、少し間を置くこと。

忙しい日でも、ごはんを雑にしすぎないこと。

疲れているのに、さらに自分を追い込まないこと。

自分の中にある不安を、なかったことにしないこと。

それらは、どれも小さなことです。

でも、その小さな選択の中に、祈りは生活に戻っていきます。

祈りは、特別な場所だけに置いてくるものではありません。

神社で手を合わせた自分。
自分に戻った自分が、日常の中で何を選ぶのか。

そこに、祈りの続きがある。

そう考えると、暮らしの中のひとつひとつが、
少しだけ丁寧に観えてきます。


今日を、どう生きるか

厄除祈願を受けたあと、
何かが劇的に変わったわけではありません。

家に帰れば、いつもの日常があります。

仕事もあります。
予定もあります。
やることもあります。
考えることもあります。
疲れる日もあります。
不安になる日もあります。
思うようにいかない日もあります。

祈願を受けたからといって、
すべてがうまくいくわけではありません。

でも、手を合わせた自分として、今日をどう生きるか。

そこは、
自分で変えられるところです。

無理をしている自分に、少し早く気づく。

体の声を、少し丁寧に聴く。

焦りに飲まれる前に、一度呼吸を戻す。

不安を否定せず、でも不安だけで動かない。

自分の言葉を、少しやわらかくする。

目の前の人を、少し丁寧に観る。

今日という一日を、少し雑に扱わない。

大きく変わる必要はありません。

変わらないと他責にするのではなく、
自分ごととして、変えれるところから、変えていく。

祈りを暮らしに戻すとは、
特別な自分になることではなく、いつもの自分のまま、
少し丁寧に生き直すことです。


ととのい村で、祈りを日常に戻す

ととのい村は、何かを頑張って変える場所ではありません。

正解を学ぶ場所でもありません。

誰かに評価される場所でもありません。

読むだけでもいい。
話さなくてもいい。
すぐに変わらなくてもいい。
ただ、自分の心と体と思考に、少し戻ってくる場所。

そんな村でありたいと思っています。

それは、祈りを暮らしに戻すということと、一緒です。

手を合わせたあと、すぐに立派に生きようとしなくていい。

特別なことを始めなくてもいい。

ただ、少しだけ自分の状態に戻る。

今の体の声を聴いてみる。

心の奥にある不安を責めずに見てみる。

思考が急がせていることに気づいてみる。

今日、自分にできる小さなととのえを選んでみる。

それで十分です。

祈りは、特別な日だけのものではなく、日常に戻っていくためのもの。

そして、日常に戻った祈りは、きっと静かに自分を支えてくれる。

そう思います。


今日の小さな問い

最後に、今日の小さな問いを置いておきます。

手を合わせたあと、私は日常に何を戻したいのだろうか。

今、自分だけで抱えすぎているものは何だろうか。

見えないものに委ねてもいいことは何だろうか。

見えている足元で、今日ひとつ丁寧に扱えることは何だろうか。

自分の体は、今どんな声を出しているだろうか。

今日という一日を、少し雑にしないために、何を選べるだろうか。

全部に答えなくていいです。

ひとつだけでもいい。

祈りを暮らしに戻すための問いです。


祈りを暮らしに戻すということ

手を合わせたあと、日常をどう生きるか。

祈りを暮らしに戻すということ。

それは、特別な自分になることではありません。

何かを完璧に整えることでもありません。

不安をすべて消すことでもありません。

見えないものに手を合わせながら、見えている足元を丁寧に扱うこと。

自分だけで抱えないこと。

でも、自分の人生を手放さないこと。

体の声を聴き直すこと。

言葉を少し整えること。

暮らしの速度を少し見直すこと。

今日という一日を、少しだけ丁寧に生きること。

祈りは、
神社やお寺に置いてくるものではなく、日常の中に戻していくもの。

手を合わせた自分として、今日をどう生きるか。

その小さな選択の中に、祈りの続きがあります。

自分の人生は、自分の頭と心と体で歩いていく。

あなたのご多幸を祈り、そっと手を合わせて、
今日の記事を終わりにしたいと思います。

また、次の記事でお会いしましょう。

ととのえ職人
五木田穣


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