構造を解く|不安を祓おうとして、逆に不安に縛られる理由― 安心したいほど、不安を見張り続けていないか ―
ハイサイ。
ととのえ職人、五木田穣です。
このnoteでは、心と体と思考のズレをやさしくととのえる話を、日々書いています。
ここ数日、厄除祈願に行った話から、
記事を何本か書いてきました。
前厄・本厄・後厄の3年間、毎年、厄除祈願を受けてきたこと。
厄を祓うとは、節目を丁寧に扱うことなのではないかということ。
災いを怖がるより、日々の向き合い方をととのえること。
手を合わせたあと、その祈りを日常にどう戻していくのか。
そんなことを書いてきました。
厄除祈願という言葉には、どこか「不安」と近いものがあります。
何か悪いことが起きないように。
無事に過ごせますように。
大きく崩れませんように。
災いから守られますように。
そう願うことは、自然なことです。
人は、安心して生きたい。
大切な人を守りたい。
できれば、つらい出来事は避けたい。
自分の暮らしが、大きく乱れないでほしい。
そう思うのは、当たり前のことです。
ただ、ここで少し見ておきたいことがあります。
それは、
不安をなくそうとすればするほど、
逆に不安に縛られてしまうことがある
ということです。
不安を祓いたい。
安心したい。
だから、考える。
だから、備える。
だから、調べる。
だから、確認する。
だから、祈る。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
でも、いつの間にか、
安心するためにしていたことが、
不安を見張り続ける習慣になってしまうことがあります。
今日は、
不安を祓おうとして、逆に不安に縛られる理由
について、構造を解いてみたいと思います。
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