自然は美しいのではない、まず怖い——畏れなき観光と地域経済の両立について
サムネイルは父島、饅頭岬から南島を望む私。
自然を美しいだけで語る人は、自然の本質をまだあまり知らないのだと思う。
以前、同じテーマで書いた記事がある。 https://note.com/gilles1974/n/nc8436a6d2eda
あのときは「問い直したい」で終わった。今回はもう少し踏み込む。
私は常に怖いし、恐れている。だからこそ、アタックしたくなる。
小笠原諸島の父島で15歳まで育った。海に囲まれた島で暮らすとは、毎日のように自然の他者性を突きつけられるということだ。天候は急変し、波は人間の予定を尊重しない。父島では「今日の船便はどうなるか」が日常会話の冒頭に来る。海が機嫌を損ねれば、物資も届かないし、人も出られない。
美しかったか。もちろん美しかった。だがその美しさは、怖さの向こう側に見えるものだった。順序は逆ではなかった。
海は動機を区別しない
2026年3月、沖縄県辺野古沖で船2隻が転覆し、高校生と船長が亡くなった。波浪注意報が出ていた海に、平和学習の一環で船を出した。私はこの事故についてnoteに書いた。最初に出た言葉は「思想以前に、海をナメるな」だった。
この事故の本質は、政治の左右ではない。善意と信頼と慣れが、安全管理の代わりになったときに何が起きるかという構造の問題だ。19年間続いた「いつもの」が、判断を鈍らせた。
海は動機を区別しない。平和学習であろうと、観光であろうと、ボランティアであろうと、波浪注意報が出ている海にリーフの浅瀬がある以上、物理法則は変わらない。
自然に向き合うとき、最初に必要なのは「美しい」でも「癒やし」でもなく、畏れだ。畏れがあるから判断が生まれる。判断があるから安全が成り立つ。その順序が崩れたとき、自然は人間を容赦なく叩く。
編集された自然の消費
いま、情報があふれ、キラキラした一面だけを求めて海や山に行く人が増えた。地域経済の側面では良いことだと思う。人が来なければ維持できない道、店、交通、集落がある。
ただ、増えているのは自然との「接触」ではなく、自然の「消費」だ。
神奈川県厚木市の七沢に不動尻というミツマタの群生地がある。3月中旬から4月上旬、谷あいが黄金色に染まる。このシーズンになると、広沢寺温泉行きのバスはハイカーと観光客で大混雑する。臨時駐車場が出て、観光協会がテントを張る。
同じ時期、尾根ひとつ越えた日向薬師にも赤いミツマタが咲いている。茅葺きの本堂の前で、静かに咲いている。人はほとんどいない。
同じ花。同じ季節。同じ山域。だが体験の質がまるで違う。
不動尻のミツマタは「映え」として消費される。SNSで流通するのは、黄金色のトンネルのハイライトだけだ。急登の息苦しさも、林道の退屈さも、ヒルの不快さも削ぎ落とされている。日向薬師のミツマタは、寺の空気と一体になって「静」で見せる。人が少ないこと自体が、その静けさに寄与している。
どちらが正しいという話ではない。ただ、前者だけが自然体験のすべてだと思われると、自然は風景商品になる。美しさだけが切り取られ、怖さも不便さも判断の重さも抜け落ちた、編集済みの自然が流通する。
桜まつりの外を見た
山北町のやまきた桜まつりは、年間16万人が訪れる。御殿場線の線路沿いに桜のトンネルが続き、鉄道ファンも、花見客も、屋台目当ての人も押し寄せる。
16万人は桜のトンネルで写真を撮り、屋台でやきそばを食べ、帰る。
「線路や軌道敷に入っての写真撮影は、大変危険ですので、絶対におやめください」という看板が立つ。この看板が立つということは、入る人がいるということだ。
桜並木の途中に、いくつもの道標がある。「河村城跡」「セラピーロード」「洒水の滝・大野山」。だが、そちらへ歩いていく人はほとんどいない。
山北駅前の商店街では、シャッターが下りている店の前で「さくら祭り」の幟だけが風に揺れている。桜まつりの賑わいは、この通りまでは届いていない。
一方で、山北町には桜の外側に、時間のかかった文脈がある。道祖神祭りがあり、お峰入りがあり、高松山の古道があり、まだ熟成の途中にある土地の価値がある。
問題は、それを外に翻訳する人がいないことだ。
財政的には厳しく、限界集落が面的に広がっている。だが、この町はまだ熟成中なのだと思う。桜まつりの16万人は確かに来る。その数字は悪いことではない。悪いのは、16万人が桜だけを消費して帰ることだ。桜が覆い隠しているものを、誰も見ない。
自然を守ること自体が経済になる設計
では、自然への畏れと地域経済は、どう両立するのか。
答えは、自然を安売りすることではなく、自然との正しい関わり方そのものを価値化することだ。
七沢の里山で20年以上、活動を続けてきた「七沢里山マルチライブプラン」を見てきた。畑の草取り、植え付け、枯れ木の伐採、湧水の管理。経済的リターンはほぼゼロだ。
だが、この活動がなければ七沢の里山は藪に飲まれる。道は消え、棚田は崩れ、水路は詰まる。梅の木も、放置すれば数年で景観を失う。里山とは自然のままの山ではなく、人が手を入れ続けることで成り立つ風景だ。
その人の手そのものが、価値になるべきなのだと思う。
地元の知識、地形の読み方、天候の判断、どこまで入れてどこから入れないか。何を採って何を残すか。そうした判断力と節度を、観光の中に組み込む。ガイド料、入域料、保全協力金として価格に反映する。自然はタダで開放される背景ではなく、維持と判断が必要な現場だ。
人数を無制限に増やすモデルではなく、人数を絞り、滞在の質と学びの密度を上げる。「映えの大量消費」から「理解の高付加価値化」へ。
不動尻のミツマタに年間何万人が押し寄せても、その大半は林道を歩いて写真を撮って帰るだけだ。一方で、七沢の里山を実際に手入れしている人たちは、同じ山域の湧水がどこから出ているか、どの木が倒れかけているか、どの獣道がヒルの巣窟か、全部知っている。その知識こそが本来の「七沢の価値」であり、それは映えの写真1枚には変換できない。
自然を守るとは、人間を制限することだ
自然を守る、という言葉はきれいだが、実際にはかなり冷たい行為でもある。
来たい人を入れない。歩きたい場所を閉じる。採りたいものを採らせない。地域経済にプラスでも制限をかける。全部を遊歩道にしない。全部を説明しない。全部を消費可能にしない。
自然が壊れるのは、自然が弱いからではなく、人間が際限なく踏み込むからだ。守るという行為の中心には、柵やルールより先に、「ここから先は取らない、近づきすぎない」という抑制がある。
人間にとって不便で、危険で、理解しきれない他者性を残すこと。人間の快適さに完全変換しないと決めること。それが、守るということに近い。
高松山の古道を歩いたとき、有志の手で整備された道の先に、整備されていない獣道が続いていた。そこから先は人間の領域ではなかった。その境界が残っていること自体が、守られている証拠だった。
畏れの先にあるもの
自然を美しいだけで語る社会は、自然ではなく、人間に都合よく編集された風景を消費している。
自然はまず畏れるべき他者だ。天候は急変し、波は人を飲み、山は人を拒む。その畏れを通過してなお見えるものが、美しさなのだと思う。
経済との両立は、その畏れを薄めずに価値へ変える設計でしか成り立たない。
山北で買ったトウガラシの種を、厚木の植物工場で育てている。それもまた、小さな翻訳のつもりでいる。
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