<ショートショート> 椅子がない地球
「次は、『椅子がない地球』です」
AIの声が響く。
目を開けると、私は駅のホームに立っていた。
最初は気づかなかった。
だが、電車を待つ人たちを見て、違和感を覚えた。
ホームに、ベンチがない。
待合室にも、公園にも、カフェにも、椅子らしきものがない。
本当に、椅子がない世界なのか。
そう思った瞬間、一人の女性が、肩から提げた細長いケースを開いた。
中から取り出したのは、小さく折りたたまれた道具だった。
地面に置くと、一瞬で形を変える。
女性の身体に、ぴったりと沿った。
彼女は、自然な動作で腰を下ろした。
見渡すと、誰もが同じような道具を持っていた。
色も、形も、大きさも、少しずつ違う。
私は、近くの男性に尋ねた。
「それ、椅子ですよね」
男性は、首をかしげた。
「椅子?」
私はAIに聞いた。
AIは静かに答えた。
「現在、この地球に『椅子』という言葉はありません」
「約八十年前、AIが世界中の健康データを解析しました。その結果、多くの腰痛や姿勢障害は、共用の椅子が原因だと判明したのです」
「公共の椅子は、すべて廃止されました」
「身体を支える道具は、家具ではなく、健康器具になりました」
「今は、『サポート』と呼ばれています」
私は、男性の道具を見つめた。
「少し、貸してもらえませんか」
男性は笑った。
「靴を貸してください、と言われるようなものですよ」
その一言で、この世界が分かった。
サポートは、一人ひとりの骨格に、体重に、姿勢に合わせて作られる。
だから、家族でも共用しない。
身体の一部だからだ。
元の地球へ戻る。
駅のホームには、長いベンチが並んでいた。
誰もが気にせず、腰を下ろしている。
私は、空いた席の前で立ち止まった。
今日、何人がここに座ったのだろう。
何人分の身体が、この同じ板に沈んだのだろう。
私は、そのベンチには座らなかった。
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