【自己紹介②】「ドンキー(間抜け)」と呼ばれた日。40歳、家族4人の無謀な留学と、人生で一番美しかった2年間。
序章:完璧な準備が、何の役にも立たなかった日
2002年4月。私は単身、オーストラリア・パースに降り立ちました。
単語は5000語暗記した。TOEFLの文法問題集は5周した。「準備は万全だ」。そう信じていた私は、到着した翌朝、現実に叩きのめされました。
ホストファミリーの会話が、何一つ聞き取れないのです。
「Sorry?」「Sorry?」「Sorry?」
一度ならず、三度も聞き返す私。その夜、ホストファーザーがため息まじりに呟いた言葉が、耳に刺さりました。「Donkey Japanese...(間抜けな日本人だ)」
40歳、日本では一国一城の主として塾を経営していた人間が、ここでは言葉も通じぬ子供扱い。翌週には語学学校への道が分からず迷子になり、公衆電話からタクシーを呼んで帰宅するという失態を演じました。
プライドなど、粉々でした。これが私の「再スタート」の現実でした。
仲間:国籍も年齢も関係なかった
そんな迷子のオジサンを、語学学校のクラスメイトたちが救ってくれました。
読み書きの点数だけは高かったため、クラス分けテストで中級クラスへ。周りは20代の若者ばかりです。イタリア人の伊達男、私に興味津々の韓国人女性、後に家族ぐるみで付き合うことになるタイ人の青年。
とりわけ、日本人留学生の女子たちは40歳のオジサンを放っておけなかったのでしょう。「家探し手伝いますよ」「中古家具はここが安いですよ」。3ヶ月後、妻と娘たちが到着した時には、空港まで迎えに来てくれました。
50代の皆さんに、正直に告白します。年下に助けてもらうことが、これほど有難く、そして照れくさいことだとは、日本では気づきませんでした。「頼れない」「弱みを見せられない」というプライドが、いかに自分を孤立させていたか。パースはそれを教えてくれた場所でもありました。

家族:人生で一番、何もしなかった日々
3ヶ月後、妻と二人の娘(8歳と4歳)がパースにやってきました。
長女は日本人学校へ。次女は「英語わからん!」と幼稚園を断固拒否(笑)。最初の頃は妻と次女が二人、家の近くの公園を毎日散歩して過ごしていました。「退屈させてしまっている」。その申し訳なさが、じんわりと胸を刺しました。
そんな私たち家族を見かねて、ホストファミリーが手を差し伸べてくれました。図書館の利用手続き、地域の体操教室への入会。おかげで次女も居場所を見つけ、笑顔が増えていきました。
週末は、家族4人で大きな公園へピクニックです。樹齢数千年の大木の下に広がる天然芝。裸足で駆け回る娘たち。サンドイッチを頬張りながら木漏れ日の中で笑う妻。
「ねえ、人生で一番幸せな時間かもしれないね」
妻がポツリと呟きました。私も、そう思っていました。大きな仕事もなく、肩書もなく、ただ家族と並んで空を見上げているだけの午後。今でも目を閉じると、あの光景が浮かんできます。
学び:戦場を生き延びた仲間と、チームの話
大学院の準備コースは過酷でした。
クラスメイトの中に、アフガニスタンやボスニア紛争からの避難民がいました。ある日、仲間がぽつりと話してくれた言葉が、今も頭から離れません。「叔母が産気づいて病院に行こうとしたら、タリバンに銃を向けられ、そのまま亡くなったんだ」
言葉を失いました。日本の平和の値段を、初めて骨身に感じた瞬間でした。
そして大学院本番。ここで出会った「タックマンモデル(チームビルディング理論)」は、今の私の仕事の原点です。「チームは、形成・混乱・統一・機能・解散のステージを経る」。異なる国籍、異なる宗教、異なる常識を持つメンバーと一つのチームを組み、議論し、衝突し、最後に一つにまとまっていくプロセス。
それは教科書の知識ではなく、自分の血肉そのものでした。だから今、沖縄で「ちいき叶い塾」や「かりゆし塾」に集まる受講生たちに、臆せず言えるのです。「混乱期は、チームが育っている証拠です」と。
帰国:ダイヤモンドと、ディズニーランドと、42歳の無職
2年間の留学生活の終わりに、私は妻にダイヤモンドの指輪を贈りました。
特別なプレゼントが好きだからではありません。言葉にならない感謝を、何か形にしたかったのです。「あなたがいたから、乗り越えられた」。この言葉に、一ミリの嘘もありません。
帰国前に東京に立ち寄り、娘たちへのご褒美にディズニーランドへ行きました。かつての語学学校のクラスメイトたちが駆けつけてくれ、アトラクションへ効率よく案内してくれました。国境を超え、世代を超えた友情に、胸が熱くなりました。
そして沖縄へ戻ると、かつての上司から電話が入りました。「東京で、買収した専門学校の学院長をやらないか?」
魅力的なオファーでした。でも、私の心は決まっていました。
「沖縄の人材育成に貢献したい」。安定を捨て塾を始めたあの日の初心は7年経っても消えていませんでした。丁重にお断りし、家族と共に沖縄へ帰る道を選びました。
42歳、職なし。
それでも不思議と、不安はありませんでした。「なんとかなる」。根拠などありません。でも、パースの空の下で迷子になり、間抜け呼ばわりされ、それでも前へ進んできたあの2年間が、私に根拠のない自信を植え付けてくれていました。
最後に、この記事を読んでいる50代の皆さんへ。
「今さら遅い」は、思い込みです。40歳の私が、5000語の単語と「ドンキー」と呼ばれた日々の先に、人生で最も豊かな時間を手に入れたように。手放すことで、手に入るものがあります。
(第3話「沖縄での再始動とAI革命」へ続く)
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