見出し画像

仏印進駐-”統帥乱して”😅の 中堂観恵(ちゅうどう かんえい)海軍少将

 以前この記事(⇒仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(1))に、戦前戦後とベトナムで活躍した大南(ダイ・ナム)公司のことを書いて置きました。

 大南公司の本社はサイゴン。支店ハノイ、ハイフォン、チョロン、プノンペンと出張所20カ所。バンコク支店、シンガポール支店、ラングーン支店、海口支店等、合計9支店、30出張所。最盛期には9千人の社員を雇用した在東南アジアの一大企業でした。
       
 松下社長の自伝と云える文章が、北野典夫氏著『天草海外発展史』の下巻の『南十字星きらめく下に』に収められています。
 北野氏は、インタビュー当時をこの様に回想してます。⇩   

 おだやかな話しぶりであるが、大南公司社長松下光廣翁(明治29(1898)年8月3日生)の謦咳に接していると、一語々々が、緊迫した重味となって筆者の耳朶を打つ。東京都中野区白鷺の松下邸を訪問したのは、昭和53年晩秋の一日であった。以下、翁の談話と膨大な史料から。また、関係者に取材して。

北野典夫著『天草海外発展史』より

 全体の内容は、17歳の光廣青年が仏領インドシナ(ベトナム)に渡航した1912年頃から、ベトナム戦争終結1976年に日本へ帰国するまでの生涯を聞き取りしたものです。
 以前、この全47ページを通読し、ふと或る事に気が付きました。
 ”やたら、海軍、海軍が出てくるなぁ。😅” 

 ちょっと、該当部分を抜き出してみます。⇩

 ...戦時中、一度帰国した際、私がクオン・デ公をかついでベトナムの独立運動を促進することを恐れてか、…私への旅券発給を停止したことがあります。…私の理解者だった日本海軍の保証を得て、ようやく渡航を許されたものです。 
 …仏印派遣海軍委員長中堂観恵少将が、支援の手を差し伸べてくれたのである。中堂少将は、海軍部内きっての南方通、…大南公司支店の所在するバンコク駐在の日本大使館付武官であったが、松下光廣とはかねて昵懇の間柄である。…
 
仏印処理(=明号作戦)その後
  …この
ゴ・ディン・ジェム日本亡命には、松下光廣に好意を持つ駐仏印日本海軍部の支援もあった。
  …この日の夜半、在仏印日本軍が、明号作戦と称するクーデターを起こしたのだ。…中堂観恵元海軍少将は当時を回想して語る。…
 
戦犯容疑
 第二次世界大戦は、終結した。…サイゴンから台北へ飛んだ。海軍軍令部嘱託松下光廣が乗っている。…この逃避行も…中堂少将のすすめであった。
 

北野典夫著『天草海外発展史』より

 松下社長の困った時、必ず現れてピンチを救うキー・パーソン、、海軍の『中堂観恵(ちゅうどう かんえい)少将』って、一体、誰??😅😅ということで、牧久氏の『安南王国の夢』に詳細が書かれてました。⇩ 

…中堂はフランス総督府にスパイ容疑で追放されていた松下光廣のベトナム復帰に尽力し、戦後は大南公司の役員も務めた。…
 中堂観恵は1894(明治27)年、石川県穴水町生まれ。海軍兵学校、海軍大学校を卒業後、1932年、軍令部参謀となった。…中堂は自ら志願して1935年、…『泰(タイ)国大使館付海軍武官」としてバンコクに赴任する。海軍の南進に備えて、東南アジア一帯の情報を精査する諜報要員である。…1940年には、仏印国境監視委員の海軍委員長を務め、日米開戦時には大本営軍令部(海軍)の情報担当課長となる。…終戦の年には南方軍総参謀副長として終戦工作に当たった。彼は、仏印時代の松下光廣との交友を記した『松下社長とわたし』という冊子を書き遺している。…
 1936年、…中堂は大南公司に松下光廣を訪ねた。「百年の知古にあったようにいろいろの話が出た」。その後、生涯を通じて助け合うことになる二人の初めての出会いである。…
 中堂はこの後、鉄道で北上する。中堂は、…中越国境に近いジャングルの中にあるこの鉱山を視察する。…
 バンコクに帰任した中堂と、松下光廣の情報交換が始まった。…松下が
「アレルト」紙に書いた記事の大半は、中堂から送られてきた情報によるものであり、…スパイ容疑で仏印を追われる原因の一つにもなったといえよう。
 日本軍の仏印進駐時に、国境監視委員の海軍委員長として再びハノイに戻って来た中堂が真っ先にやったのは、フランス当局から”国外追放”になっていた松下の仏印工作だった。

牧久著『安南王国の夢』より

 北部ベトナムの『露天掘り炭鉱群』に興味を寄せ、実地調査までしてたという海軍の中堂少将。。😅😅
 その豊富な仏印知識を活かしてか、、
 「1940年には、仏印国境監視委員の海軍委員長を務め」、、と。なんとタイムリーなことに、『仏印進駐事件』”ど真ん中”に”降臨”してた。😅😅

 大井篤海軍大佐著『統帥乱れて』にも、もちろん登場してます。⇩

 8月下旬になると、私(大井)の日記には仏印問題が影をひそめた。高須(艦隊司令長官)日記にも次の程度のことしか姿をみせていない。…

 8月28日欄
◎中堂大佐〔兵44期、中佐、観恵〕本日「ハノイ」柳沢大佐に代わる
 8月30日欄
◎仏印問題、外交的に妥結、細目協定を在ハノイ西原少将へ訓令せらる
 8月31日欄
◎西原一策陸軍少将本日付 第二遣支艦隊司令部付となる、仏印現地交渉に於ける海陸軍委員長を兼ねる為か

大井篤『統帥乱れて』より

 前任の仏印派遣看視団の海軍側委員長柳原蔵之助海軍大佐と交代で8月28日にハノイ入りした中堂少将(この時は大佐)は、要するに派遣団のNo.2として、陸軍側委員長で団長の西原一策(にしはら いっさく)少将をサポートする立場に降臨してた。😅

 でもこの数日後に、国境付近で『第五師団越境事件』のでっち上げが発生(9/6)。現地にいた陸軍佐藤賢了(さとう けんりょう)大佐からの打電を合図に起ったこの不祥事のせいで、折角まとまった仏印軍との軍事細目協定は残念なことにお流れへ。。。😭
 
 その後、仕切り直しということで、西原(陸)&中堂(海)の日本看視委員会側仏印側が再び協定に関しての話し合い努力を重ねる様子が、高須艦隊司令長官の日記等にも屡々出てきます。⇩ 

9月18日
◎仏印交渉の情勢
 仏印側が我方の決意を知り全面的に折れんとする形勢にあるも…、西原、中堂は速に妥結に導かんとする努力中

大井篤『統帥乱れて』

 となると、当然ですケド、、、第二遣支艦隊の大井大佐側は、8月28日以降、仏印側との直接交渉役である看視派遣団海軍側委員長の中堂少将からの電報を頼りに情勢判断を下し、あれこれ動いていた訳です。で、その結実が、9月25日に艦隊側が最終的に決断した『(海軍は)離脱せよ』電の発信になったと。しかし、電報だけではなく、9月25日の当日に中堂大佐が海軍の”背中を押す”ために、わざわざ艦隊巡洋戦へご来艦してました。⇩

 この日の高須日記が示すように、中堂はこのころ鳥海(巡洋船)にやって来ていた。…
 …私には中堂の鳥海来訪の記憶がほとんどない。中堂も鳥海では長官公室以外には顔を出さないようにしたのだという。問題が藤田の態度(=陸軍に協力的)に関するものだったので、われわれ参謀には秘密にすべきだと高須も原(参謀長)も中堂も考えたのではないか。…
 …中堂は藤田に対し何の権限も持たないから、高須に通報に来たわけだが、そもそも藤田の動機に不純なものを感じ取ってたからでもあったようだ。…
 …軍部が国策を引き摺るという不条理がここでも繰り返されている姿、しかもこの不条理がドイツ軍の当座的優勢に眩惑されてのさばる姿、しかもそれらの陰に、卑俗利己的な名誉慾が隠見する様を、私(大井)は不快に感じ取っていた。

大井篤『統帥乱れて』

 要するに、、現場の人間しか知り得ない秘密の裏情報”(=実は、海軍側の人間が現場で陸軍に与してますよ。。)を、高須司令長官だけにこっそり直接ご進言に来てたんですネ。。😅😅 高須長官は、
 ”うぬぬ、、あいつ(藤田)め~、そうはさせるか!” 
 
と心理が煽られてしまうは必然で、結局これが決定打となり、『海軍全体で離脱方針が固まった』とあります。
 で、結局はそれが後々の⇒『統帥乱れる』導火線になっている。(とワタシの目👀にはそう見える。。😅)

 要するに、単純に結果だけ整理すると、、、
 中堂観恵海軍少将が、柳原海軍大佐と交代して西原一策(にしはら いっさく)陸軍委員長とタッグを組んだ8月28日以降、日本陸海軍に一体何が起こった? ⇩

①9月 6日、『日本軍越境事件』がでっち上げられ、
②9月23日、第五師団の協定違反が策謀され、
③9月25日、海軍が離脱し、
④9月27日、大本営が世界メディアに向け『進駐途上の不幸なる出来事』を表明し、
⑤10月3日、大本営から『参謀総長閑院宮(かんいんのみや)殿下』と『軍令部総長伏見宮(ふしみのみや)殿下』が排除された 

 誰が悪い悪くないはさて置き、結果これだけの不祥事が起こっているのに。。。
 この2人(西原&中堂)は、無傷で英雄扱いのまま出世を続け、西原少将は1945年1月に突然死っ。Σ(゚Д゚)💦 中堂少将は、大井篤著『統帥乱れて』の中で戦後『東京近郊で悠々自適』のご様子が書かれてます。

 。。。( ´∀` )( ´∀` )( ´∀` )。。。。

 ところで、中堂観恵少将は、戦後に『現地踏査 邪馬台国』(1978)や『宿命の戦争』(1966)等の御本を出版されてます。宿命の戦争 - 国立国会図書館デジタルコレクション
 
 どんなことが書かれてるのか、見てみましょうネ。😐⇩

自序
 大東亜戦争の正しい認識は
 わが国精神復興の根本である
      昭和41年7月8日   著者

中堂観恵著『宿命の戦争』

 おぉぉ、、表紙を開けると、いきなりこの文章。。😅😅
 さあ、そして、肝心のその内容とは如何に。。?
 

はじめに
 …今からでも遅くはない、戦争の真実を明らかにする必要がある。誤り伝えられているところを正さねばならぬ。民族の名誉のためにも、そうすることが必要であると考えた。
 …私は、別の角度から、すなわち、主として国外からの資料に基づいて、この研究にとりくみ、この戦争を見直そうとしたのがこの書である。…

中堂観恵著『宿命の戦争』

 そう前振りしつつ、第一章から始まるのが、、ジャーン!!⇩
 

アメリカの西進政策
 …この戦争がどうして起こったか、それをアメリカ側からつきつめて見ると、
 …アメリカ人は最初ヨーロッパから移住し…
 …こうなると、アメリカ人の西へ西へという気分が、…
 …1803年、アメリカ政府は西の方に太平洋の存在を認識し、…
 …カリフォルニアから西進する場合の第一の基地として、アメリカはハワイを考えた。…
 …アメリカの歴史家ピアードのマハンに対する批評によれば、…
 …セオドル・ルーズベルトが海軍次官になったのは、彼39歳のときであった。…

中堂観恵著『宿命の戦争』

 。。と、、、この様に⇧、何故か、『アメリカの歴史』が延々と書いてあるんですよねぇ、、、( ´∀` )

 さて、肝心の、ご本人が台風の目の中心人物だった『仏印進駐』に関して何と言っているかというと、⇩

 …ルーズベルト大統領は、”はるか北方で中国と戦っている日本軍を保護する”ことが、仏印に派遣せられた5,6千の兵力の進駐目的であった、と解しているようであるが、実際はそうではない。当時わが広東軍麾下の一カ師団が、広西省まで作戦していたが、中国軍の頑強な抵抗にあい、仏印国境まで圧迫され、その上補給路を断たれて、絶体絶命の窮地に追い込まれていた。そこで窮余の一策として、仏印進駐を考えた。仏印進駐という名はよいが、実は逃げ込んだというのが当たっていよう。この部隊は仏印を汽車で素通りして、ハイフォンで乗船、海路転進したのであるが、これを迎えてフランスとの摩擦なく通過させたのが、進駐部隊の任務であった。また、陸軍と同時に、海軍の航空隊が進駐した。これは、援蒋ルート監視団の働きで仏印を通ずる重慶向けの輸送は完全に止まったが、代わってビルマから雲南を通ずる輸送が始まり、これを遮断するために、…ハノイにある飛行場を使用するのが最も近い。そこでここに海軍の航空隊が進駐して来たのである。…
 更に南部仏印進駐であるが、この目的は南部仏印に産出するゴムと米を確保することが真のねらいで、外部からの侵入を予期したものでは全然ない。当時ゴムなどの戦略物資を欲しいのは日本ばかりでなく、海上封鎖を受けたドイツも同様であった。…こうして我国(日本)にとっても重要なゴムが、…実力をもって抑える必要があった。…これが仏印共同防衛の実態であった。

中堂観恵著『宿命の戦争』

 ま、曲がりなりにも『仏印派遣看視団の海軍側委員長』というど真ん中の立場にいたのにぃ、、、💦💦 

*(日本軍の師団が)仏印国境まで圧迫され、…絶体絶命の窮地に追い込まれて⇒???
*この部隊は仏印を汽車で素通りして⇒???
*ハイフォンで乗船、海路転進した ⇒???
*南部仏印に産出するゴムと米を確保することが真のねらい ⇒???
*日本にとっても重要なゴムを(ドイツと争った)、これが、仏印共同防衛の実態 ⇒???

 Σ(゚Д゚)💦Σ(゚Д゚)💦Σ(゚Д゚)💦。。。。

 アノ時、アノ立場にあった人が、ぼんやりして、結局ナンだかワカラナイことを、堂々と回顧録に書いている!! ( ´∀` )。。。

 しかも、”ゴム、ゴム”って、これのことっ??⇩

 仏印が輸出する最大のものは米であり、次にゴム、玉蜀黍、石炭、錫、硅砂などであるが、…欧州大戦の軍需工場となった米国は、錫とゴムを大量に仏印から買って行った。…
 
 この3月(1940)、米国は突然仏印に対して、在米資産の約四分の三を凍結することを通告し、仏印は狼狽して交渉した結果、米国はゴムの大量輸入と交換に資産凍結を解除することになった。
 真相を探ってみると、サイゴン財閥(ユダヤ系とコルシカ(イタリーマ〇ィア)系)は米国との取引が多いので、預金の大部分はアメリカにあった。そしてこの財閥の巨大な資産はフランス人独占のゴム園事業である。そこで米国の通告した資産凍結というのも大部分は、サイゴン財閥の有する資産である。これを凍結して置いて、ゴムの輸入量だけ凍結を解除し、ゴムを米国に確保する手段とした。一方において仏印経済を米国に牽引し、対日妥協を掣肘しながら、他方では日本へゴムが行かない様にしようという一石二鳥の名案であったのだ。サイゴン財閥はたちまち悲鳴をあげて、要求されるだけのゴムを輸出することにした。

石川達三著『包囲された日本』

 中堂少将は、『仏印のゴム』は元々アメリカの独占なのに、それを狙った日本軍は”悪い奴!!” と言いたかったか。。?😅😅

 えーさて、続いて何言ってるでしょうネ。⇩

わが国の負けっぷり
 日米戦争でわが国は、たしかに負けた。文句なしに負けた。それは、小国であるが故に、もたざる国であったが故に敗れたのである。…しかし敗れたとはいえ立派に戦った。特攻隊員は、身を忘れ、家を忘れて、敵中に突入、敵の心胆を寒からしめ、日本民族の意気を示した。…大偉業を成し遂げた。しかも、大詔一たび煥発せらるるや、ピタリと戈をすて、一糸乱れぬ美事なる終戦ぶり、…
 こういう人たちの立派な行動が、向こうにも通じていたものと見え、終戦後、アメリカの部隊長で、あのときの相手の日本の部隊長と逢って想い出話がしたいと、日本にやって来たものが、わたしの聞いているだけでも十指にあまる。…
 それから、これは私の聞いた負けっぷりのよかった一例であるが、シンガポールへ進駐する英軍が、…
 さらに、負けっぷりのよかった事例の圧巻ともいうべきことは、天皇陛下のマッカーサー元帥にとられた態度であろう。…
 この度の敗戦は、わが国としては、未だかつて歴史にないところのものであるが、ヨーロッパをはじめ大陸の各国では、興亡の歴史はありふれて珍しくないこと、栄枯盛衰を重ねて、これに耐えたるものは栄え、…
 この負けは負けたが、勇敢に戦って敗れ、しかもいったん降伏となると、いささかの未練気もなく、敗者としての作法を乱さない。これが勝者アメリカの民心をとらえ、対日心理の転機をもたらした主因であると思う。

中堂観恵著『宿命の戦争』

  。。。( ´∀` )( ´∀` )( ´∀` )。。。。
  
      ⇩  ⇩  ⇩

 ”負けたけど、いい負けっぷりだったぜ。立派だったよ。アメリカ人にはその心意気、通じたぜ。一度や二度の負けでくよくよするなよ、ヨーロッパを見ろよ、これに耐えてこそ、彼等みたいになれるんだぜ。敗者としての潔さがアメリカのハートを溶かしたんだ。。。”
 
 って、、、一体、アンタ、ナニ人なんだよ。。??(笑)

 *************

 いやー、しかし。 
 常に大南公司の味方として、ピンチを救ったキー・パーソンが、実は、ゴリゴリの『親(媚)米保守』だったというオチ。Σ(゚Д゚)💦

 そのキー・パーソンは戦後も大南公司の役員を務めてた、と。
  ⇩  ⇩  ⇩

…大南公司の経済活動は、現在(1978年)のところ中絶の形を余儀なくされており、ビルマ、タイなどと、わずかな貿易取引を行っているだけである。ホーチミン市には、資産処理のため、甥の松下磯興が残留している。共産主義体制となった現在では、大南公司のことも現地資産のことも、今後、どうなるか全くわからない。個人的には、松下光廣多年の努力が水泡に帰してしまったわけで、まことに気の毒な状況下にある。

北野典夫著『天草海外発展史』より

 1975年サイゴン陥落で、、ベトナム共産政権に全て没収された莫大な大南公司の海外資産の行方。。。。
 中堂さん、ご存知だったかもネ。😅😅 

 もうひとつ、ちょっと気になることが。
 それは、中堂さんの履歴。⇩

 中堂観恵は、1894(明治27)年、石川県穴水町生まれ。

 。。あれ、石川県出身って、誰か他にも居たっけ。。?⇩

佐藤 賢了(さとう けんりょう)
 日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

経歴
 明治28年6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。大正3年に金沢第一中学校卒。中学校同期には海軍少将中堂観恵(海兵44期)が居る。

佐藤賢了 - Wikipedia

 おぉぉ、、さ、さ、佐藤賢了(さとう けんりょう)陸軍中将と、同郷の幼馴染みだったかっ!!💦💦 わーっ💦💦Σ(゚Д゚)💦
 


いいなと思ったら応援しよう!