1940年『仏印(ベトナム)進駐事件』 ~大井回想記から知る『統帥乱シテ💦』の犯人たち。😑~
先の連載⇒『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』中村明人中将著)に登場した、『統帥乱れて 北部仏印進駐事件の回想』(毎日新聞社、1984)のご著者、大井篤(おおい あつし)元海軍大佐。
1940年『仏印進駐』は、中越国境の鎮南関(ちんなんかん)方面からの第五師団(=中村兵団)だけでなく、この時新しく編成された『印度支那(インドシナ)派遣軍(西村琢磨兵長=西村兵団)』を海方面から上陸させる2面作戦の『陸海協同作戦』でした。
この時に、陸軍西村兵団を載せてハイ・フォン沖に停泊していたのが第2遣支艦隊。大井篤海軍中佐(当時)は、その時の艦隊参謀だった人物です。
題名『統帥乱れて』の意味は、大井氏自身がご著書の巻末にこう書いてるように、⇩
付記、「統帥乱れて」の書名は本文第六章の「信ヲ中外二失ウ」の節にある西原陸軍少将電の冒頭を借りてつけた。
ネット情報によれば、、、⇩
西原 一策(にしはら いっさく)
生誕1893年4月18日 日本 広島県
死没1945年1月23日(51歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍 軍歴1913 - 1943
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1940年の北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。
陸軍憲兵大尉・西原貫洞の三男として生まれる。広島県立広島第一中学校(現、広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校25期卒業。同期には、武藤章等。北部仏印進駐に際し、平和進駐を指示していた中央に反して富永恭次らが強行進駐を実施したのを嘆き、陸海軍次官宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発した
『仏印進駐』と云えば、『統帥乱れて』。
『統帥乱れて』と云えば、『仏印進駐』。。。
そんな優れた『キャッチ・コピー』で、1940年秋、昭和メディアに華々しく登場し、歴史に名を遺した西原一策(にしはら いっさく)少将。。
嗚呼、、、それなのに、、😑😑😑
1945年1月に、、たった51歳の若さで、『急死』してるんですよねー。wwww(笑)
その約4年前の『仏印進駐』では、あんなに元気ハツラツで、殺しても死なない様な人だったのにぃ~。
フランス料理の食べ過ぎかっ、はたまたワインのがぶ飲みかっ??🤣🤣
。。。でもでも、アノ、大手広告代理店を彷彿とさせる秀逸な『キャッチ・コピー』と『西原一策』の美名だけは、今も日本史上に燦然と輝き続けるぅ~、、、にも拘らず、
”。。。アレ、アレレ、、、、?? 西原、、一策。。。
実は、なーんにもしてないぞっ!! ” Σ(・□・;)
というのが完全にバレてしまう、それが、大井大佐のご著書『統帥乱れて』です!! 😅😅
この⇧詳細は、後日別途で記事にするとして、( ´∀` )
先を続けます。
大井元大佐の『あとがき』に、執筆の動機が書いてあります。⇩
ただ何しろ、(戦後の)日本の再軍備問題やら東西冷戦やら原水爆問題やら続出で、軍事評論家などと世間にいわれていた私には、回想記執筆の時間的余裕がなかった。幸い、学者グループや防衛庁戦史室で戦史研究が行われ、私も証言を求められたわけだが、北部仏印進駐事件も徹底研究の対象となっていることがわかり、(中略)
実は、防衛庁戦史室でこの事件を担当されるという海軍側編纂者が、…残念至極にも、執筆の進まないうちに病気退職のやむなきに至った。…そのころから私は、…私の日記を土台にしつつ、自分の手でこの事件を書こうと真剣に考えだした。というのは、それまで私はその陸軍側の編纂者からただ一回だけ、突然の電話で、極めて限定した問題にイエスかノーを答えるべく求められたことがあったにすぎなかったからだ。…この事件は陸海協同作戦中に起きたもので、しかも第二遣支艦隊作戦参謀としてこの大井がどんなにか深く、終始にわたり、関係していたかは、すぐに解るはずなのに、右の程度の証言しか、私に求めなかったのが奇怪に思われてならなかったのだ。
(中略)
やがて同戦史室書が昭和48年に出版されたのを読んだ私は、独自執筆の要を痛感したが、翌々年出版の戦史室書『中国方面海軍作戦〈2〉』に掲載の北部仏印進駐事件記事にも私は失望した。
(中略)
これら防衛庁戦史に先立ち、日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』の第六巻でも北部仏印進駐事件が大きく取り上げられ、すでに昭和38年、朝日新聞社から出版されていた。…それでも、自分で現実に事件にたずさわった私には満足できるはずもなかった。
そ、そんなぁ。。こんな⇧並々ならぬ戦史研究権威の学者センセイが集まって編纂したモノが実は、ぜーんぶ『噓八百』だって。。Σ(゚Д゚) ??
ならば、それを必死に暗記する日本の大学生は、本当かわいそうだ。😿
上記以外に、大井篤氏を突き動かした最大の動機は、多分コレ。⇩
…昭和35年夏、文藝春秋社から佐藤賢了著『東条英機と太平洋戦争』が出版され、その中に「北部仏印進」の章があったが、それは真相の歪曲が甚だしいものだった。私はこの佐藤著が、学者グループや防衛庁戦史室などに、どのような影響を与えるだろうかを心配しながらも、どうせ多くの史料によって、佐藤説は覆されるものと信じていた。
大井氏は、この背景を本文中にこう書いてます。⇩
…佐藤賢了が誇大妄想的で、しかも国際正義もクソ喰らえの言辞を弄するクセのあることを、私は経験を通して知っていたからだった。
1932(昭和7)年春のことだった。彼も私も当時アメリカ駐在の末期にかかっていたが、第一次上海事件との関連で日米国交が極度に緊張したため、両人とも情勢のよくわかるワシントンに居た。彼は大使館付陸軍武官府の、私は海軍武官府の、業務を手伝いながら、国交断絶に先立ち逸早く米国外に脱出の態勢を密かにとっていたのである。
同時期の『アメリカ留学組』で、尚且つ結構長い期間、大使館内で毎日顔を合わせて仕事した『腐れ縁』。。且つ『犬猿の仲』(多分。。)😅😅
その大井氏が、御著書の冒頭部分にも更にハッキリ書いてます。⇩
…この日(1940年5月26日の陸海会談)の佐藤と私(=大井氏)との論争は、「北部仏印進駐事件の回想」として、これから長々と綴られる物語りの発端となる。
。。。( ´∀` ) 、
えー、更にもう一つ、非常に重要なことも書かれてまして、⇩
…この北部仏印進駐事件回想は太平洋戦争原因論の見地からでなく、統帥の混乱の見地を主に綴ってみよう。(中略)
…この事件が陸軍統帥の紊乱に終始したものであったことは、別に私が証明するまでもなく、すでに出版された文献も明らかにしている。(中略)
…陸軍統帥紊乱そのことを太平洋戦争原因の重大要素と解しうると思えることである。事件を通じ天皇が明白に自由主義の立場で統帥を指導されたのに対し、全体主義に憑かれた連中によって陸軍の統帥が行われた。つまり、自由主義と全体主義との衝突があの事件だったことになる。(中略)
…ついに本事件の真の教訓が無視されてしまったことだ。統帥紊乱分子の閥が実権を握り続け、日本は太平洋戦争に突入したのである。
こうした残念無念のあまり、私は統帥紊乱の人々に忌憚ない批判の筆を走らせた。
えーと、ちょっとここで、再度『統帥権(とうすいけん)』のおさらいをします。。先の記事に書いた様に、
陸軍 海軍
軍令組織:参謀本部(報道部)/ 軍令部(報道部)
軍令トップ:参謀総長 / 軍令部総長
(⇧作戦用兵の計画と実施)
軍政組織: 陸軍省 / 海軍省
軍政トップ:陸軍大臣(次官)/ 海軍大臣(次官)
(⇧作戦決定、実施には関与しません。)
陸・海両軍の『軍令組織』=要するに『部』が着く2つを合わせて『統帥部』です。統帥部の別名が『大本営』です。両方とも本部に報道部を持っていますので、これを併せたものが統帥部(大本営)報道部、要するにここが発表したものが『大本営発表』です。『大本営=統帥部』には『統帥権』があります。統帥権は、天皇陛下に直属しますので、天皇陛下以外は誰も口は出せません。
戦前日本で、『統帥権』拡大解釈、所謂『統帥権干犯問題』が起こり始めたのが1930年頃の様でして、因みに陸軍統帥トップ(=参謀総長)(参謀本部 (日本) - Wikipedia)と、海軍統帥トップ(軍令部総長)( 軍令部総長 - Wikipedia)は、1930年頃から『仏印進駐』までずっとこのお二人だったみたいです。⇩
陸軍参謀総長:閑院宮載仁親王(陸軍大将、皇族)
1931年12月~
海軍軍令部総長:伏見宮博恭王(海軍大将、皇族)
1932年2月~
あー、だから要するに、難しいこの問題を沈静化させる為、皇族お二人がトップに就き『統帥権』を抑えてたんでしょうねぇ。。。
だって、こんな重要な『統帥権』がもし『敵国性の紊乱(クーデター)分子』に『背乗り(はいのり)』されたら、それこそ大変だ、危ない、危ない。
と、、、その視点で今一度、上の大井篤氏の『あとがき』を見てみます。⇩
「…この北部仏印進駐事件回想は・・・『統帥の混乱』の見地を主に綴って」
「…この(仏印進駐)事件が、陸軍統帥の紊乱に終始したもの」
「…陸軍統帥紊乱…(が)、太平洋戦争原因の重大要素」
「(仏印進駐)事件を通じ…、全体主義に憑かれた連中によって陸軍の統帥が行われた」
「自由主義と全体主義との衝突があの(仏印進駐)事件」
「…(仏印進駐)事件の真の教訓が無視…。統帥紊乱分子の閥が実権を握り続け、日本は太平洋戦争に突入」
「残念無念のあまり、私は”統帥紊乱の人々”に忌憚ない批判の筆を走らせた」
えっ、よ、要するに、💦💦
元海軍大佐大井篤氏の言いたかったことは、、、
「北部仏印進駐事件は統帥権の紊乱で起こったんだよ!それはさ、結局太平洋戦争原因の重大要素なんだ!!あの時、あの仏印進駐事件直後にこれを総括せずに放置したお蔭で、統帥紊乱分子の輩がまんまと『統帥部』を乗っ取った!そいつらが、その後ズルズルと日本を日米戦争へ引きずり込んだんだ!!」
と、そういう意味ですね、ハイ。。😅😅😅
その”統帥紊乱分子の輩”こそ、、ワタシがCIA敏腕エージェントと(勝手に)認定した、その名も『ブルドーザー佐賢』(注:佐藤賢了中将。😅)、とその周囲に集った親欧米や親独、出世、栄誉云々、、、其々の私欲を腹に集まった取り巻き仲間か。。。
10月3日、此の日重大ニュースあり参謀総長閑院宮(かんいんのみや)殿下は杉山元大将と、軍令部総長伏見宮(ふしみのみや)殿下は永野修身大将と夫々交代せられたりと。之を以て見れば、今回の進駐作戦は、如何に重大なる波紋を大本営に投じたるかを察知するに足る。…
…「平和進駐途上の不幸なる出来事」として発表した此の事件は、意外の大波紋を軍最高統帥に巻き起こし、遂に陸海統帥部を一新せしめ、大本営は陸は杉山、海は永野の両大将が帷幄に幕僚長として列することになり、(中略)あと仕末で尚を残されてあったのは越境事件に対する判決のみであった。何故か事件直後は異例の捜査処置を命じた東条陸軍大臣、而もすばらしい決断力を持って居る大臣が此の問題に関しては決心を躊躇して居られたのみならず時に苦悩の色さえ見えた。
これ⇧は、第五師団中村師団長の手記からですが、
全然知名度が低いですが、実は知れば知るほど『仏印(ベトナム)進駐事件』はスゴイ大事件なんですヨ。。。
だって、ここでオセロの駒がひっくり返った。
陸軍 海軍
軍令組織:参謀本部(報道部)/軍令部(報道部)
軍令トップ:参謀総長 / 軍令部総長 閑院宮殿下 / 伏見宮殿下
お二人共引き摺り降ろされ、、、
⇩ ⇩
CIAエージェント『ブルドーザー佐賢(佐藤賢了中将)』が背乗り完了。😱😱😱
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よく、よくそれから約5年間も、戦争してたなぁ。。😑😑
(⇧ワタシの心の声。。。😅)
オマケの大注目。⇩
「昭和35年夏、文藝春秋社から佐藤賢了著『東条英機と太平洋戦争』が出版され」、、、 「文藝春秋社」、その名は「文春」。。。
それは、『真相の歪曲が甚だしい』モノ。。。
昭和35年(1955年)、丁度ピッタリ70年前に放たれた、
元祖『文春砲』がこれかっ。www(笑)🤣🤣🤣
