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べト・ミン最高幹部の日本人-”TIÊU SUNG(ティウ・スン)”の正体。😀

 noteマガジン⇒チャン・チョン・キム著『 一陣の埃風』|何祐子

 1945年3月、第13代バオ・ダイ帝が『独立宣言』を発布後、初の独立ベトナム政府首相に就任したチャン・チョン・キム氏。

 そのキム氏が遺したチャン・チョン・キム 回顧録 一陣の埃風』の『 第6章 ベトナム政府と国内情勢最後部に、当時ベトナム国内に広まっていた”或る噂”のことが書き遺されてます。⇩

…あの政府の大臣職とは名目だけの地位であり実権を持っていなかった証明だ。政府の実権は、ホー・チ・ミン氏やヴォ・グエン・ザップと、共産党総本部が全てを操っていた。
 人々の話では、共産党総本部のメンバーは以下の面々だ。

ハ・バ・カン(別名:クアン・トット、フン・イン省出身)
・グエン・ルォン・バン(別名:サオ・ド、ハイ・ズオン省出身)
・ブイ・ラム(中部出身)
・ダン・スアン・ク(ナムディン省ハィン・ティエン村出身)
・ブイ・コン・チュン(クアン・ビン省出身)
・蒲(ぶ、中国人)
・しょう充(日本人)

 彼らの居場所や、何処で会議してるのかなど知る者は誰一人居らず、極秘とされていた。それなのに、政府内のどんな業務も総本部を通さねばならず、総本部の承認を得て初めて施行できた。それがあの政府の、無尽の権利と勢力を保持した秘密政府の姿だ。

チャン・チョン・キム著『 Một cơn gió bụi(一陣の埃風)』 第6章 ベトナム政府と国内情勢

 上記⇧の『あの政府』とは、日本の無条件降伏に便乗して連合国と連動したベト・ミンが、世論を煽動してバオ・ダイ帝を退位させた後、翌3月国会を召集し成立させた『国家連立政府』のこと。
 勿論、ホー・チ・ミン氏が『政府首席』に就任しましたが、実はその『国家連立政府』は単なる『看板』だけ。
 何の実権も持っておらず、実際はほんの一部の幹部(=ホー・チ・ミン氏とヴォ・グエン・ザップ氏)と、『共産党総本部』が全てを取り仕切っていたというのです。

 あの時、『国家政府』の上に君臨した”7人のメンバー”が居たなんて。。。 
 それは正に、『7人の天上人(てんじょうびと)』かっ!!💦💦 

 そして、更にこの雲上に鎮座する『7人』の中にはなんと!!

 『日本人』が居た
。?!。。。Σ(゚Д゚)Σ(゚Д゚)Σ(゚Д゚)

 なんともビックリの信じられない嘘の様な、本当の話。😅😅

 でも、本当に 実際の原文(PDF)にそう書いて有るんです。⇩

 AIによる記事翻訳「『一陣の埃風』回収」|odayaka

 
 えーでは、はてさて、ところで、この、、、

 『Tiêu Sung(ティウ・スン)』って誰??

 これは、去年の翻訳時には全く見当が付きませんで、、、😅
 取敢えず、30年間愛用の竹内与之助(たけうち よのすけ)先生編『越日小辞典』(大学書林発行)とにらめっこしつつ、最も可能性の高い漢字を絞り込みました。

tiêu (蕉、椒、簫、標、消) 1.バナナの葉. 2.胡椒. 3.笛. 4.標識. 5.消化する. 7.消失する. 8.排泄する
 
*****

sung(充) 1.無花果(いちじく). 2.充足する.

竹内与之助編『越日小辞典』

 我が子に名前を付ける場合、縁起良く綺麗な字を選ぶのが親心。なので、翻訳時に解り易い時もあれば、特定し難い時もあり。この『tiêu(ティウ)』は特定し難かったので、音読みの『しょう』のままにしました。
 続けて『sung(スン)』は、候補が『充』の一字だけ。日本の男児名にも『充(みつる)』は割とポピュラーなので、キム氏回顧録中のTiêu Sung(ティウ・スン)『しょう充』と翻訳して置きました。

 然しながら、『日本人Tiêu Sung(ティウ・スン)』って誰??。。は、全然見当が付いてませんでした。😅😅😅

 それが!! 
 先日連載投稿したこちら⇒『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』中村明人中将著の参考資料にと入手した大井篤氏著『統帥乱れて』(1989年)中の、此の文章を読んだ時に、額の前のくす玉が割れて、”パン・パカ・パーン!!”とラッパと共に紙吹雪が舞った、、そんな瞬間がありました。。(笑)
 それが、この文章です!!😀😀⇩

(日記記述)
 5月26日(日)晴 伶仃島→広東
 広東飛行機隊の飛行艇で主要幕僚4名、広東に先行、午前10時から軍司令部で(支那)方面軍と会談。
 海軍  原少将、横山中佐、柴田中佐、大井(篤)中佐
 陸軍  根本少将、佐藤(賢了)大佐、藤原大佐
 
 海軍側から艦隊作戦状況を説明して、香港よりバイヤスおよび九竜方面にいたる(援蔣)物資遮断に対する陸軍側の決意を促し、かつ作戦および政務連絡は、なお一層、広根〔海軍広東特別根拠地隊〕司令部及び南支特務部を介し行われ度旨要請せり。
 陸軍側は、事変解決には、大袈裟にして断乎たる処置を要するとの見解なり。封鎖の効果は海軍ほどには重視せず、佐藤(賢了)参謀副長は、欧州に介入し、ドイツ側に立つを此の手段の一と主張す。小生之を反駁す。此の秋が問題の時機なるが如し(作戦的に見て)。汪(兆銘)政権援助には陸軍側は、海軍以上に乗り気の積もりなり。
 (中略)
 
 この日記の重点は、佐藤賢了大佐(参謀副長)から「欧州に介入、ドイツ側に立つ」と聞かされたことであった。
 これに対し、私(=大井氏)が断固反対を表明した訳だが、佐藤のいう「ドイツ側に立っての欧州戦争への介入」とは、具体策として仏領印度支那攻略の意図の表明だった。「欧州戦争への介入」ということ自体が当時の日本の国策への明白な違反なのに、それを出先機関が勝手に口にしたことに私は我慢できなかったのだ。この日の佐藤と私との論争は、「北部仏印進駐事件の回想」として、これから長々と綴られる物語りの発端となる。

大井篤著『統帥乱れて 第一章 北部仏印への野望』より

 
。。。ぁああぁぁ。。。これだぁぁ!!!。。。。☆*: .。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

 、、とは、この部分。⇩

佐藤(賢了)参謀副長は、欧州に介入し、ドイツ側に立つを此の手段の一と主張す。小生之を反駁す。

 「小生、之を反駁す。」

 ぐ、軍人さんがっ、、、自分を『小生(しょうせい)』って呼んでる。

 読者皆様の中に、ベトナム語話者の方も多いと存じます。。。

 『小』= Tiểu (ティウ)
 『生』= Sinh (シン)

 これは、、1946年時点のべト・ミンの天上組織=『共産党総本部』メンバーの日本人が、自分のことを『小生( Tiểu Sinh(ティウ・シン)』と呼称してた証拠だと思います。
 では、何故に『Tiêu Sung』なのか??、の謎解きは、、、

 『ベトナム人通訳者が中部人だから、訛ってた。』 💦😂

 Tiểu Sinh(ティウ・シン)⇒Tiêu Sung(ティウ・スン)

 液晶前のベトナム語話者の読者は今、一斉に声出してませんか。。😂😂😂😂 
 ぜーーーーったいに、ビンゴ!☆彡!です。😤😤

 ベト・ミン天上組織に鎮座していた日本人が話する時、
 「小生としては、この場合は云々かんぬん、だが小生はこの方法で云々かんぬん、、、、」 

 これをベトナム人通訳者(中部人)が通訳して、
 「Ông Tiểu sinh (Sung)nói rằng ….,nhưng ông Tiểu Sinh(Sung)) muốn là…..」

 で、ついたあだ名が『Ông Tiểu sinh (Sung)=ティウ・スン氏』

 自分を『小生』と呼称する”軍人”が、1946年時点ベト・ミンの天上幹部だと。。。な、ならば、もう、もう、、この人しかいない!! どーん!(笑)
   ⇩  ⇩  ⇩

 目を合わせたくない、生理的に。。
 でも、さあ、気を取り直して、、(☚自分に云い聞かせてます。。😅笑)

 『226事件からベトナム戦争終結まで』・・・理想のCIAエージェントの佐藤賢了中将。
 では、1946年頃から佐藤賢了中将は、『何処』で『何』していたか、、、今一度確認してみましょう!! ⇩

1945年:広島・長崎原爆投下、日本無条件降伏
      ベトナム内戦、混乱

  佐藤⇒ 中将昇進、第37師団長へ。12月予備役編入
     A級戦犯で巣鴨に拘留(~1956年まで)

226事件からベトナム戦争まで。戦前戦後の筋金入り”CIA工作員”は多分、この人。😅

  
 な、なんと、、1945年から『巣鴨刑務所』に『A級戦犯』として御滞在で。 ( ´∀` )。。。
 しかも、他の戦犯の方々が次々と東京裁判に出廷し、デス・バイ・ハンギングで逝ってしまう中、、、”ずっと無傷のまま” ”誰にも見られず” ”こっそり” ”密かに” ”終戦直後からインドシナ戦争が終わるまで” ”プリズン・ホテル個室内” に引きこもってたんだって。。。

 そこで一体、”何やってた”んだろ。。。??😅😅😅

 *********

 以前の記事(日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様②)に、この様に書いて置きました、⇩
 

…井川少佐は、べト・ミン側の武器弾薬確保を間接的に支援していた事実があります。また、その①で、日本軍兵站御用商人や下村洋行ハノイ支店員が残留日本兵の居場所を把握し、元南洋学院生に通訳を頼んでべト・ミンなどへ斡旋していた事実もあり。

 そうならば、元々山砲部隊所属だった駒屋氏の元へ、ベトナム民兵が『日本軍の歩兵砲』の使用方法を教えてくれと持って来たのは”偶然”なのか?? クアンガイ陸軍士官学校設立前、その教官になり得る優秀な人材が、丁度中南部に居た会津若松部隊から複数名離隊してたのは”偶然”なのか??。。。

 。。。否、絶対偶然ではない筈。😑😑

 私がベトナムに移り住んだ30年前でも、まだある日偶然出会ったような人に、”そういえば、貴方あの日何処其処へ行ってこんなことしてましたね。”と言われて背筋が寒くなった経験が何度もあるのです。

 仏領インドシナ時代に『蟻をも通さない密偵網』を構築し、隣組様の村制度で密告を奨励して厳重に管理してたのは仏印政府ですが、
実際の実行者はベトナム人官僚・幹部なのだから、フランス人が居なくなったところでこの仕組みと組織網、ノウハウは丸々彼等の手元に有る。

 その前提で考えれば、離隊した残留日本兵の行方、元所属部隊、出身地、得意教科、得意語学、性格、嗜好、家族構成…等々は全て、ベトナム密偵網により筒抜けだったと考える方が合理性が高いです。

 情報とは、理解出来る人が握って初めて有効活用できる性質のもの。ならば、ベトナム密偵網を使って”誰が”情報を集めさせていたのか? 集まって来る人材と遺棄兵器の情報を分析し、”誰が”采配し、”誰が”指図をしていたのか?。。。と、こう整理していくと、どう考えても『元々べト・ミン最高幹部は(極秘の)日本軍人』という結論に至ると思うのですが、如何でしょうか??😅😅😅

日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様②

 
 以前この⇒べト・ミンの実態を追う①😑『下剋上』記事や、この⇒ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~記事に、こんな分析を書いて置きました。⇩  

纏めますと、1945年頃に存在した『ベト・ミン』はこのような多重性格の持ち主です。⇩

1,中部クアン・ガイ陸軍中学で日本軍に教育されたベト・ミン
2,モスクワ・コミンテルンの後押しで阮愛国が組織した越北ベト・ミン
3,ハノイ近郊に現れた反日のベト・ミン

ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~

 
 ならば、もしかして、、1945年末に『巣鴨入り』した『小生(ティウ・スン)』=佐藤賢了中将が、上記の3、ハノイ近郊に現れた反日のベト・ミンへのテコ入れを開始した、と仮定して、、

 すると、『小生(ティウ・スン)』CIAから受けてた司令は、多分これか。。。 ⇩

昭和29年(1954)5月ディエン・ビエン・フーが陥落。

 加茂氏ら合計74名の旧日本軍人は日本へ帰国することになり北部タイグエン省 (Thái Nguyên)に集合,11月出発。陸路で中国入り、列車で天津へ移動して、引揚船『興安丸』で同月30日に舞鶴港へ入港した。

戦後なき”若松連隊”|佐川明生@法律家

 1945年8月~1954年まで、現地除隊した日本兵をベトナムの軍事訓練に上手く流用しつつ邪魔者を排除しながら、インドシナ銀行の『通貨発行権期限切れ』前(1956年)に、残留日本兵を全員帰国させる任務を請け負っていた。

 こう過程すれば、ピッタリと辻褄が合う。。😅😅😅

 『小生(ティウ・スン)』は、ブルドーザー並みにこのタスクを完璧にやり遂げたことになる。 

******************

 敗戦直後の東京辺りでは、軍が機密書類をドラム缶で焼き払ってたという証言があります。そんな中、金髪・青目の連合国側の軍人が街中でそれら書類を買い集めていたという証言も。
 もしかしたら、連合国側の軍人さん達は、集めた書類をせっせと『巣鴨プリズン特別室』に運び込んでたかも知れませぬ。。。
 『プリズン・ホテル』の特別室で、軍事機密資料や仏印(ベトナム)地図を広げた『小生(ティウ・スン)』が、電話や、時にこっそり個室を抜け出してアメリカ軍専用機に乗ってベトナムへ直行し、数日間現地に滞在してたって、まさかそんなこと想像も出来ない、だってA級戦犯で監獄に収監中のお人だっ。😅
 
 何よりも、、、
 チャン・チョン・キム氏の回顧録第7章『 共産党の理念と行動 』に書かれているビックリ仰天のベト・ミンと共産党の下劣さ、悪逆さが、戦前の日本人の『国家総動員法』『泣く子も黙る特高警察』『治安維持法』等々を経験した人々の語る『恐怖体験談の数々』と、奇妙な一致を見るのは気のせいか。。😱😱😱


 

  
 
 
 

 

 
 

 


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