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1940年秋  海外公演『ああ、統帥乱して ~仏印奮闘記 ~』😅

 『統帥乱れて』のキャッチ・コピーでお馴染みの、

  ≪1940年秋の日本軍『北部仏印進駐』≫

 
(詳しくは『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』中村明人中将著

 このキャッチ・コピーの発案者とされる人物が、州出身西原一策(にしはら いっさく)陸軍少将です。⇩

北部仏印進駐
 援蔣ルートを遮断して日中戦争の解決を探っていた日本は、当初はフランス当局との話し合いによって平和進駐を取り決めていたが、同時期に日独伊軍事同盟が締結されたこともあって陸軍の強硬派は1940年9月、独断で武力進駐に踏み切り、フランス軍と交戦しハノイなどを占領した。

フランスの対独降伏
 …1940年5月にドイツの進撃により
フランスが降伏し、傀儡政権のヴィシー政府ができた。日本は…6月(20日)…日本軍を進駐させることをフランスのインドシナ総督と交渉を開始し…西原一策少将を団長とする仏印国境監視団を派遣して交渉にあたらせた。…交渉は難航した。
 
平和進駐方針の決定 
 日本国内で松岡外相と仏駐日大使アンリとの間の交渉に移され、8月30日に合意が成立、フランスは…臨時的な日本軍の駐留を承認、援蒋ルートの遮断も約束した。…9月6日、中国・ベトナムの国境にいた日本軍の一部が独断で国境を越え、フランス軍と交戦するという事件が起こった。…衝突はいったん停止され、西原少将とフランス軍司令官マルタンの間で交渉が再開されたが、…交渉は難航した。…西原=マルタンの交渉もようやくまとまり…

武力進駐の強行 
 ところが約束の
1940年9月23日の午前0時直前、…第五師団が武装したまま国境をこえたため、…戦闘が始まった。第五師団は明らかな命令違反であり、撤退命令が出たにもかかわらず戦闘を続け、…大本営命令とは異なった武力進駐となった日本軍…、…海軍も、この戦闘開始で混乱し、護衛義務を放棄して海南島に引き揚げた。

「統帥乱れて信を中外に失う」
 9月26日、海軍の艦船…、船上には…仏印国境監視団の西原少将らも同船していた。西原少将は船上から東京の参謀本部に次のような電文を打電した。それには次のような言葉があった。
「統帥乱れて信を中外に失う。今後の収拾策に関し、小官等必ず一応東京に帰り報告の必要ありと確信す。」
 つまり、軍の命令系統が乱れたことによって国際的な信用を失った、として国家間の交渉でまとまった約束を守らず、軍が勝手に行動したことを非難したわけで、具体的には武力進駐を強行した陸軍の強硬派を批判したのだった。…
 このときの「統帥乱れて信を中外に失う」という西原一策中将の陸軍中枢に対する批判は世間にもよく知られ、昭和天皇も憂慮したと言われているが、ナチス・ドイツの勝利を疑わない陸軍の戦争への動きを止めることはできなかった。

フランス領インドシナ進駐/北部仏印進駐/南部仏印進駐

 こんな感じ⇧で、戦後メイン・ストリームでは、非の打ちどころの無い正義感と頼りになる爽やかな外務軍人として書かれ続けている西原一策(にしはら いっさく)少将ですケド~、、、💦💦

 オタク🤓的ベトナム・仏印史を調べて来たワタシは、不謹慎ながら、、どうしてもこんなイメージを拭い切れない。。🤣🤣⇩

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 西原一策 デビュー公演  大歌舞伎 海外初公演
  題名:『ああ、統帥乱して ~仏印奮闘記 ~』
😅

 日時:1940年 秋
 場所:ベトナム北部
 座長:西原一策
 
 出演:助さん・角さん(佐藤大佐・富永部長)
    うっかり八兵衛(有賀甚五郎少佐)

 見どころ:『統帥乱れて~』の名文句を引っ提げ、華々しくデビューを果たした西原一策少将の記念すべき海外特別公演!!!

 (注:上⇧の画像はあくまでもイメージです。。。)

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 えええ。。何それぇ、、??と思いますヨネ? でも、真実の方がより強烈で個性的なんですヨ、それが『仏印進駐』。。(笑)
 では、何(が)流でこの史実を紐解いていきます!!😀 

 ⇩    ⇩    ⇩  

 陸軍少将西原一策を委員長とする援蔣物資看視委員の一行は、昭和15年6月26日羽田飛行場を…出発し、29日ハノイの郊外ジャランの飛行場に着いた。…
 一行は漫遊客のように自動車に揺られて緑茂るハノイに入り、小湖に近いメトロポール・ホテルに宿泊した。…豪華なホテルであった。…
 (7月1日)その夜ハノイでは仏印カトルー将軍みずから日本看視委員一行を総督官邸に招いて歓迎会をひらいた。…

 ハノイの看視団本部は…西原機関、フランス側ではミッション・ジャポネと言った。…陸軍23名海軍7名、合計30名の軍専門委員からなり、随員を加えると100名近い人数であった。…機関員全部が軍服をぬいで…、半袖半ズボンに白のヘルメットをかぶる…、ミッション・ジャポネはずっと平服で仕事をしていた。
  

石川達三『包囲された日本』より

 フランス駐在が長く仏語話者
 『ミッション・ジャポネ』コスチュームは、いかにも西洋風コロニアルスタイル。送迎車で豪華ホテル、翌日仏印側パーティーにご出席。

 さてそれから、約3週間後。
 支越国境の鎮南関(ちんなんかん)で、南寧から南下して来た第五師団の中村師団長たちと面会した西原少将でしたが、、、⇩

 7月20日午前8時30分寧明を出発、…本部にて所要の要件を終え次いで鎮南関に至る。時に午後一時、既に歩兵第21旅団長岡本鎮臣少将以下我が兵団の幹部到着し有り。

 予が到着するや、西原一策少将は仏印監視日本将校、仏印第一戦司令官メヌラ少将、チェボウ武官、その他新聞記者を伴い賑々しく国境線を越えて入り来たり儀礼的握手を交換せり。

 メヌラ少将は予に「貴軍にて不自由の品あれば何なりと申出でられたし。好意を持って調達すべし」と好意を寄せられ、予も「メルシー」と答礼せり。何故か西原少将は最初より相当昂奮しあり。先ず岡本少将に対し何故貴軍の歩哨は日本将官たる予(=西原少将)が引率せるメヌラ少将一行の支那領土に入るを阻止したるか、又在龍州の仏国領事に送るべき衣糧品を拒みしかと難詰せり。

 岡本少将:歩哨は特別守則のまにまに行動し当然なり。龍州領事に送るべき衣糧を拒みしに非ず、日本軍の手に依って完全に届けるから前線に於いて日本軍に交付せよと云いたるなり。

 西原少将:何故仏人が携行して領事に渡し得ざるか。

 岡本少将:軍は目下作戦行動中心で鎮南関以内は他国人に見せることが出来ない。

 西原少将:貧弱なものだから恥ずかしくて見せ得ない為だろう。

これに於いて予(=中村師団長)は聊か強き声を以て、:

 西原少将、それは過言です。岡本少将以下一歩哨まで総べて本職の命令で行動して居り誤りはない。本職も亦上司の命を受け眷々服膺して居る。疑問の点あれば上司に糺されたい。

 これに於いて、会見は全く白けた。やがて西原少将は一行を促して関上を去った。去るに臨み日本兵卒に向って放ちたる同少将の数言は頭脳明晰思慮ある将軍の言として同意し兼ねるものなり。…
 
 本日西原、メヌラ両少将の態度よりすれば、恰も日仏両軍は連合軍の如く国境の観念なぞ不問なるが如くにも見受けらるる節もあり、之に反し我が方に於いては憑祥附近にて岡本支隊に三木部隊は一挙ハノイ攻略の突進演習を日夜訓練しているという両者間腑に落ちざる阻隔の状態である。
 

『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』①第五師団 中村明人師団長手記 ~南寧から鎮南関~

 西原一策少将は、日本人が嫌いだったのかなぁ。。 (・・?

 いや~、何はともあれ、7月1日から3週間近くも一体フランス人と何やってたんだろ?? えー、そして、⇩ 

 7月29日、此の日波集団(第23軍)参謀長西郷従吾中佐ハノイに来たり、…馬淵参謀を派遣し夕刻帰寧す。其の復命に依れば仏印内日本看視委員長西原一策少将は急遽上京を命ぜられ目下佐藤賢了参謀副長在ハノイし西原少将の方針とは全く異なりたる方針を以て8月1日より談判を開始すと。

中村明人『仏印進駐の真相』より

 。。あんな感じのまま、西原少将一週間後に日本へ帰国
 じゃあ、この日から佐藤賢了大佐が代理に?と思いきや、そんな甘いものではありませぬ。⇩

 防衛庁戦史室編纂の戦史によると、佐藤賢了がこのころ仏印で猿芝居的演技を展開している。彼は11日ハノイに飛び、南支方面軍司令官安藤将軍からとして仏印総督カトルー将軍に軍刀を贈呈し、翌日カトルーから午餐に招かれた際「日仏印協定要綱」なるものを提案した。提案の説明も広東で準備してきており、仏語訳を添えてあった。「西原機関電第126号」として戦史室に保存されている。...
 この猿芝居に(海軍)軍令部の神部員が加わっていた。
 神部員は、10日上海着、…神は参謀本部部員荒尾興功とともに佐藤に随行、…13日ラオ・カイに飛んだ。カトルーが自分の専用機を貸してくれたという。

大井篤『統帥乱れて』より

 な、なんと佐藤賢了大佐らが『第五師団越境事件』の現場を下見に来ていた。。?
 でも、それだけじゃないんです、上記の、
 「(7月1日)その夜ハノイでは仏印カトルー将軍みずから日本看視委員一行を総督官邸に招いて歓迎会」
 
この出席者の中に実は、

 カトルー大将はその夜、平然として日本看視団一行を歓迎した。陸軍側委員長西原少将、副委員長佐藤賢了大佐、中井大佐、酒井大佐、海軍側委員柳原大佐…

石川達三『包囲された日本』

 おぉぉ、、西原一策少将と一緒に、ハノイに来てた!! Σ(゚Д゚)💦
 
 
要するに、7月1日と7月11日~13日と、初対面はパーティ―、2回目は軍刀贈呈でラオ・カイへ仏印軍専用機を借りるまでの仲になっていたんですねぇ。
 それなら、大井篤海軍中佐の回顧録にある様な、「西原委員長、本(7月)28日飛行機により出発せられたるを以て命に依り小官(=佐藤)代理す」なんて淡々としたものではない。もう既に『けんちゃん』『カトちゃん』とニックネームで呼び合う位の仲良しだったか。。😅

 この2者(日X仏印)が共謀し9月6日『日本軍越境事件』をでっちあげた。⇩

森本中佐鎮南関附近越境事件
一、兵団長の処置
 9月7日零時、岡本少将より急電あり「鎮南関警備隊長森本宅二中佐本6日12時40分頃越境す。」と左記電報を転送し来る。
 本電は、現地に於いて佐藤賢了(さとう けんりょう)参謀副長が軍参謀長に打電せしめたるものなり。

『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』③第五師団 中村明人師団長手記~森本中佐越境事件のからくり~(4/26追記)

 初めから、味方(第五師団)を欺く為に仕組まれた周到なでっち上げ事件でした。⇩

 偶々9月6日鎮南関附近に於いて森本大隊長の越境事件突発し百日の労苦を一匱に欠くの結果を招来した。此の事件に依って仏印派遣大本営西原機関と仏印軍との間に秘密協定が成立したが、此の協定に日本軍の一兵たりと雖も越境したる時は協定を破棄するとの条項があり、之に依って本協定はお流れとなったことを越境(実際は越境して居ないことが後の調査で明瞭となった)後数日を経て、私共将兵は知った。 

『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』③第五師団 中村明人師団長手記~森本中佐越境事件のからくり~(4/26追記

 しかも、9月頭に参謀本部からも助っ人がハノイ入りしてた。Σ(゚Д゚)💦

 9月1日、…同日参謀本部第一部長富永少将は、両総長の指示を承け現地に飛び西原少将を補佐することになったのであるが、大体こんな事を統帥部がやるのは変な事だ。…
 9月2日 仏印問題の紛糾は続いた。富永少将は遂に西原少将をして最後通牒を出さしめた。…富永は、南支海陸軍最高指揮官5日以後兵力を進駐するぞと通告した。
 

大井篤『統帥乱れて』

 実務は全部、富永第一部長が出張してやってたんですネ。。(笑)

 さてでは、この『でっち上げ事件』は、一体何のため?と。。
 その理由が判る箇所が、大井篤海軍参謀の回顧録にあります。⇩

9月5日…◎仏印軍事協定細目妥結
 ところが、右の「仏印軍事協定細目妥結」も何のその、日本陸軍の無統制によって日仏印交渉は共の木阿弥になった。その無統制が誤れる名誉心に根差すだけに救う術もない。

大井篤『統帥乱れて』

 そう、海軍側の『陸軍憎し』を増長させ、後に『海軍離脱』を誘発させる⇒『統帥を乱す』為に、海軍側へ巧みに罠を仕掛けていたんですね。

 えーと、ここまで西原少将、全然出番無し。(笑)

 しかし、海軍が協力離脱して以後、彼の本当の出番です。⇩ 

 同じ9月25日1930着付の海軍関係発信電中、なんといっても最も重要だったのは次に掲げる「大海令」の電報だった。これら発信中のほんの30分前、二遣支(艦隊)はあの「…離脱セヨ」電を発信した。…つまりあの昭和15年9月25日1900ないし1930という時点は、陸軍の国策無視には絶対に協力しないとの決意に於いて、全海軍が一致していたことを示した、実に記念すべき段階だったと私(=大井)は言いたい。
 (中略)
 (26日)…ベッドに横になったのも束の間、従兵がやって来て、
「西原機関長の一行が来訪されますから、まだお休みでないなら、長官公室においで下さいとのことです。」という。
 一行は「子の日(駆逐艦)」に乗って来たもので、西原陸軍少将、小池竜二陸軍大佐、福岡武海軍機関少佐の3人だけだった。…まあたらしい軍装にまあたらしい略綬が、さすがは対外接衝を任務とする人との印象を強く与えた。
 すぐと長官公室での晩餐会となったが、…まるで大晩餐会の感じだった。…私が西原と会ったのはこれが初めてだったが、この日、一同のうち一番ご機嫌だったのは彼だったろう。むろん主客は彼だったし、…西原が独りでしゃべったような恰好の約3時間にわたる晩餐だった。
 話題の中心は、西原機関がいかに波集団(第23軍)や和集団(第22軍)の横暴、強引なやり方に手を焼いたかにあった。中村兵団の進駐を抑えるため西原の命令で国境に急派された小池大佐が、実に非条理極まる処遇を日本軍部隊から受けた情景も、西原は小池に代わって身振り手振りを交えて説明した。そのときの私の感動は今なお私の脳裏に残っている。…
 …ともあれ西原は高須(艦隊指令長官)の左隣り2席目の小池に向かい、
「このまえ話したことを、この席の雰囲気を反映させ中央に電報を打とう」
と、大きな声で言った。小池の左隣りにいた私もハッとした。
 小池はすぐ立って姿を消し、ものの五分もしてから二遣支(艦隊)の電報用紙を以て入って来た。西原にそれを見せた上でその電報用紙を私に渡し、
「これを打ってくれませんか」
という。私は思わず電文に目を走らせると、
「統帥乱レテ信ヲ中外二失フ、今後ノ収拾二関シ小官等必ラズ一応東京二帰リ報告ノ必要アリト確信ス」
とある。
「統帥乱レテ信ヲ中外二失フ」に、私は諸葛孔明「出師之表」の名文を読まされたような感動を受け、すぐとそれを目の前の席の通信参謀に渡してしまう気になれなかった。着信者指定に「陸海軍次官、次長」とあるのだから、これは海軍電報でもあるというわけで、…(原、高須)両人は西原に同感の感銘を表情で伝えていた。
 私はそれからこれを通信参謀に渡し、通信参謀から暗号表へといったことになったはずだし、しかも「親展」指定の電報だったはずなのに、晩餐終了直後、私が記者団と会ったとき、記者団の誰かが「統帥乱れて・・・」を持ち出し、私に質問したのには驚かされた。記者たちは仏印いらい西原機関に随行してきたらしく、おそらく、西原機関の誰かに聞いていたのではないか。記者の一人が往年の関東軍司令官だった菱刈陸軍大将の子息だったということも、私には右推測の一材料となった。

大井篤『統帥乱れて』

 
 おぉぉ、、長州・西原一策の、デビュー晴れ舞台
 きっと、会津・柴五郎(しば ごろう)大将も固唾を呑んで ”ヨシ!いいぞ、一策、よくやった!!”と娘婿の晴れ舞台を見守っていたことでしょう。。😀
 
 彼等の作った舞台の台本(シナリオ)は:
助さん&角さん(佐藤大佐&富永部長)がまんまと『統帥』を乱して、
うっかり八兵衛(有賀少佐)はハイ・フォンからラオ・カイへ向け珍道中の旅へ。。。 

 さあ、舞台は華やかなクライマックスへ。
 お共(小池少佐&福岡少佐)と御用記者団を引き連れて駆逐艦上に表れた、スター・西原一策。
 事前に用意した歴史に名を遺す名文(キャッチ・コピー)を、さりげなく取り出してわざわざ『海軍』から発信させた。。
 
 ”いいぞ、一策、大成功だ!!”(←柴五郎の声。。🤣🤣)

この日、一同のうち一番ご機嫌だったのは彼だったろう。

大井篤『統帥乱れて』

 そりゃそうだ。
 本当なら、”オ~レ!!!!”と叫んでフィニッシュ・ポーズ決めたかったハズ。

 しかし、あんな殺しても死なない様な元気ハツラツの西原一策少将が、1945年1月に急死してますネ。

  ⇩   ⇩   ⇩

 日本ボロ負けの敗戦間近に、、、、一体何所へ消えた?(笑)

 
 
 
 
 


 

 

 

 








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