『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』③第五師団 中村明人師団長手記~森本中佐越境事件のからくり~(4/26追記)
『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』② 第五師団 中村明人師団長手記~河内(ハノイ)進駐準備~
手記の『まえがき』に、こんな文章が有ります。⇩
承詔必謹眷々として上司の命を遵承し、一意作戦に従事した兵団の長として此の奇怪なる作戦は其の真相を明かにせざれば、光輝ある皇軍崩壊の前奏曲なるべきを深慮し、其の真相調査を「ランソン」攻略後阿南次官及び沢田次長に電請し、之に応じて派遣せられた鈴木宗作少将より、中央部上司は最初から我が兵団を仏印に進駐せしむる考は毛頭なかったと聞き唖然たるものがあった。
是に於いて予は何れの日か皇軍の為、本作戦の真相を手記し、当路に上申し今後の教訓たらしめんと欲し一切の記録を保存した。
。。。余程に奇妙キテレツな事の連続で、憤懣やる方なかったんだと思います。
進駐後、不始末の責任を取り師団長の職を解かれた中村中将が、上記の様な動機で纏めて置いた手記。やっと世に送り出されたのは15年後の1954(昭和29)年でした。
それから更に70年もの時を経て2025年の今、日本軍に巣くってた陰謀亡者連中の信じられない悪行を、ワタシ(←ただの主婦。。)が大解剖します!😤😤😤
戦後、無傷で生き残り日本政界・経済界・学術界・司法界等々にシレっと紛れ込んだ彼ら陸軍陰謀亡者連中が、昭和-平成と悪行三昧を続けた結果が今の日本なんだから。
中村師団長は、『森本中佐鎮南関附近越境事件』を第6章として特別に取り上げて纏めています。⇩
第6章 森本中佐鎮南関附近越境事件
一、兵団長の処置
9月7日零時、岡本少将より急電あり「鎮南関警備隊長森本宅二中佐本6日12時40分頃越境す。」と左記電報を転送し来る。
本電は、現地に於いて佐藤賢了(さとう けんりょう)参謀副長が軍参謀長に打電せしめたるものなり。
和集団(=第22軍)参謀長宛 中村兵団参謀長
本6日12時40分頃、鎮南関警備隊長森本中佐は、大隊主力を提げ鳳林村南方約5、6百メートルの地点に越境前進せり。時恰も「ドンダン」警備隊長メヌラー少将、佐藤(賢了)参謀副総長及び大本営荒尾中佐現場に来たり、其の不法を詰問し、佐藤参謀副長は左記指示を森本中佐に手交せり。
(中略)
9月7日午前、我が兵団より軍に報告せし越境事件の第一報、左の如し。
…取り調べの結果、森本中佐は部下に前進地区の地形を暗識せしむると共に、敵情の変化を確かむる目的を以て越境せりと陳述しありと。
(中略)
…大隊長が一日にして之が停止の命令に接し無限の境地にさ迷いて、精神に異状を呈し遂に此の行動に出たるものと判断せらる。
。。。第5師団としては、厳罰を避けるために精神不安定(鬱病)を理由として報告書を挙げたようです。森本中佐を守るために必死だった様子が、当時の軍紀の厳しさを物語る。😭
此の顛末は後に廻して、ここで、≪スーパー・キーパーソン≫の登場に注目してみたいと思います。それはこの方⇩
実は、佐藤副長は、『仏印進駐の真相』① 第五師団 中村明人師団長手記(昭和29年)~南寧から鎮南関~にも登場してました。⇩
..此の日(7月29日)波集団参謀西郷従吾中佐、ハノイに来たり我が方と鎮南関にて連絡し度旨突然連絡あり、依って馬淵参謀を派遣し夕刻帰寧す。其の復命に依れば、仏印内日本監視委員会西原一策少将は急遽上京を命ぜられ、目下佐藤賢了参謀副長在河(ハノイ)し、西原少将の方針とは全く異なりたる方針を以て8月1日より談判を開始すと。
西原監視団の団長不在時の代理としてハノイに来たり、仏印軍との交渉という大役を仰せつかった佐藤賢了参謀副長とは。。。?
”一体誰だっ???” w(゚Д゚)w
この事が、当時海軍の海上護衛総司令部参謀長だった大井篤(おおい あつし)氏の回想録『統帥乱れて』(昭和59(1984)年)に詳細が書かれてあります。⇩
第1章 北部仏印への野望
1939年(昭和14年)12月、第二遣支艦隊参謀になってから、私は毎日かなり詳しい日記をつけていた。1940年(昭和15年)5月26日のものは次のように綴られている。
5月26日(日)晴 伶仃島→広東
広東飛行機の飛行艇で主要幕僚4名、広東に先行、午前10時から軍司令部で方面軍と会談。
海軍 原少将、横山中佐、柴田中佐、大井中佐
陸軍 根本少将(参謀長)、佐藤(賢了)大佐(参謀副長)、藤原大佐(先任参謀)
(中略)
陸軍側は、…(援蒋ルート)封鎖の効果は海軍ほどには重視せず、佐藤参謀副長は、欧州に介入し、独側に立つを1此の手段の一と主張す。
(中略)
この日記の重点は、佐藤賢了大佐から「欧州に介入、独側に立つ」と聞かされたことであった。
これに対し、私が断固反対を表明した訳だが、佐藤のいう「独側に立っての欧州戦争への介入」とは、具体策として仏領印度支那攻略の意図の表明だった。「欧州戦争への介入」ということ自体が当時の日本の国策への明白な違反なのに、それを出先陸軍が勝手に口にしたことに私は我慢できなかったのだ。この日の佐藤と私との論争は、「北部仏印進駐事件の回想」として、これから長々と綴られる物語りの発端となる。
1939年に既に『仏領印度支那攻略の意図の表明』をして、海軍参謀長の大井氏に、”出先機関が国策違反を勝手に口にするなんてけしからん!”と煙たがられている佐藤賢了参謀副長。。
、、あれ、、なんかこれと、同じ臭いがしますヨネ?🤔🤔⇩
此の馬淵参謀の報告を受け、予の最も奇異に感じたることは、事国交に関する重大問題に一幕僚たる西原、佐藤の方針なぞいふべきものなき筈なり。(折衝の手段方法は別として)飽くまで盤石不動の大本営の大方針に基き如何に折衝すべきかの手段方法を西原少将にせよ佐藤少将にせよ万全に講ずれば良き筈なり
”たかが現場指揮官が、自分の方針とか何とか口にするって、ヘンだろ???”と。😅😅😅
いやー、軍人でなくても、社会常識から見て異変有りですヨ。。
なので、佐藤賢了参謀副長の履歴を一応確認してみます。
佐藤賢了 - Wikipedia ⇩
1895年 石川県生まれ
1914年 陸軍士官学校入学
1917年 士官学校卒業(第29期)
1925年 陸軍大学校第37期卒業
1930年 アメリカ駐在
1938年 軍務課国内班長として国会審議で『国家総動員法』説明を行い『黙れ事件』を起こす
1940年2月 南支那方面軍参謀副長就任。
おおっとぉ。。
西原センパイは1913年に第25期でご卒業っと。。
。。。仲良かったんだろうなぁ。。(笑)😅
1901年生まれの西田税氏が幼年学校内で『武断党』と戦っていた頃、やっぱり『武断党』の味方だったんかなぁ。。。(笑)😅
えー、ここで今一度中村明人師団長の手記に戻ります。⇩
岡本旅団長及び三木連隊長よりも本職(=中村師団長)に進退伺を提出したるも、その儀に及ばざるものとして却下し、旅団長を重謹慎3日に、連隊長を同5日に処せり。
(三)森本中佐は軍法会議に附すべきものとし速やかに三木連隊長に捜査すべきを命ず。
三 越境事件に対する上司の態度
9月8日午前10時、軍参謀権藤中佐帰来着、越境事件を調査す。午後4時岡本、三木両部隊長、森本中佐を連行し来り面接す。予(=中村師団長)は一言して曰く、「予は兵団第一の勇士(=森本中佐のこと)に功名を頒つ事能わず、重大過失を犯さしめ、上司に其の不徳を謝し君と共に其の裁決を待って居る。決して今後軽率の処置をとらず自重謹慎せんことを望む」と、此の時森本中佐は狂気の如く床上に伏し倒れ、一言も発せずさめざめと落涙滂沱、両部隊長も吾も亦共に泣けり。直ちに別室に移し安臥せしめ、終夜同僚をして監視保護、心身の沈静に努めしむ。
(中略)
9月10日 …この日森本中佐は第22軍(和集団)司令部附に命課せらる。
(中略)
9月13日、…午後、不愉快というより寧ろ奇怪なる軍命令に接す。即ち森本中佐の軍法会議は陸軍大臣の命令に依り和集団(第22軍)にて行わず、波集団(第23軍)に於いて実施す。依って速やかに森本中佐を南寧に送るべしと。之を以て見れば今回の越境事件に対し東条陸軍大臣が、如何に重視せられしかは窺はるるも、和集団の権限を無視したる此の処置は、軍法会議法なる特別法の精神を蹂躙したるものなり。
森本中佐は第五師団下の岡本旅団所属、第五師団は和集団(第22軍)所属なので、本来軍法会議は和集団がやるべき所のものを、何故か第23軍(波集団)がやることに。で、これを時の陸軍大臣が許可をしてると。。。
ホント、、、オカシイですヨ。。。
森本中佐は、なんと他軍による軍法会議へ。
ではでは、森本中佐はそんなに重大な軍紀違反を本当にしていたのか??です。
この『越境事件』の実相を、調査に当たった南支那方面軍の後宮(うしろく)司令官⇒東条英機陸相宛ての極秘電文に見てみます。日付は約3カ月後の昭和15年12月12日。⇩
…越えて9月4日、仏印進攻準備命令下り直ちに分駐せる二山村、價茶村の部隊を鎮南関及び溢口街に集結し越境進発の命令一下行行動を開始を期し居りたるか、翌5日日‐仏印間の外交交渉成立したる故を以て右進攻準備は中止せられ、更に部隊は9月8日までに同月3日以前の態勢に復帰し、前任務を続行すべしと命令を受けたり。
被告人森本中佐は、外交交渉成立せりと謂うと雖も、日‐仏印間の交渉は従来容易に決せざりしに鑑み、又何時進攻命令なきを保せすとし、(中略)行軍訓練を為さんことを企て、9月5日、…命令を以て部下将兵700を率いて出発し、三木連隊長に対しては出発時第17界標を目標として行軍を実施する旨報告しあり。三木部隊長は、…之を認容したり。
斯くて被告人森本中佐は、第17界標は予て不明なるを以て其の存在予想地点の手前なる無名地に向かって行動を起こし、同地点に達したる頃、恐らくは部隊の鎮南関出発の情報を得たるなるべく「ドンダン」方面より来りたる仏軍将校に会い、同将校か何か申したるも固より言語普通なるが、国境線内なるを以て敢えて取り合わず、同将校も亦そのまま立ち去り、(中略)…茲に被告人森本中佐は350乃至400メートル主力亦150メートル乃至200メートルを越境したりと自任し、部隊に休止を命し、昼食を取りありたる際、仏印側司令官メヌラ少将来たり森本中佐に面会を求め、被告人は予ねて昵懇の間柄なるを以て単独に対談し、自ら越境したりと思料しあるを以て同地点が仏印領なることを認める旨の言質を与え、メヌラ少将に対し仏印側は何処を以て国境線と考えありやの反問に対しては答解を得ることなく同所を引き上げ、同日…鎮南関帰着後夫々復帰命令を達し
要するに、中止命令を受けた後で、こうも二転三転したのでは、どうせまた進攻命令が下るだろうからと、帰営する前に前線確認で行軍訓練を行った。そして、国境目標『第17界標』に達した頃に”仏印側将校”に会っていた。それから森本中佐が、”あ、やばい、数百メートル位国境を越えちゃったかな?”と思って、『行軍訓練中止ー!ここで昼食!』、で弁当食べていた時、なぜかひょっこりあら偶然、仏印軍のメヌラ少将が現れたと。(^▽^;)
森本中佐はメヌラ少将と『予ねて昵懇の間柄』で、”いやー、多分国境線を越えちゃったのかなぁ、、”とかおしゃべりしたか。しかし、メヌラ少将は『超えた』とも『越えてない』とも返答せず。部隊は再び従軍開始し、9月6日午後に無事鎮南関に帰営してたのでした。
ここで元の中村師団長の手記に戻ってみましょう。⇩
9月7日零時、岡本少将より急電あり。「鎮南関警備隊長森本宅二中佐本6日12時40分頃越境す。」と左記電報を転送し来る。
本電は、現地に於いて佐藤賢了(さとう けんりょう)参謀副長が軍参謀長に打電せしめたるものなり。
和集団(=第22軍)参謀長宛 中村兵団参謀長
本6日12時40分頃、鎮南関警備隊長森本中佐は、大隊主力を提げ鳳林村南方約5、6百メートルの地点に越境前進せり。時恰も「ドンダン」警備隊長メヌラー少将、佐藤(賢了)参謀副総長及び大本営荒尾中佐現場に来たり、其の不法を詰問し、佐藤参謀副長は左記指示を森本中佐に手交せり。
更に、海軍海上護衛総司令部参謀長大井篤(おおい あつし)氏の回想録『統帥乱れて』(昭和59(1984)年)の記述は、⇩
…陸軍将校の「暴走」はかねてから私の重大警戒事で、とくに、すでにふれたように、私にはワシントン郊外での佐藤賢了との激論の想い出があった。佐藤が満州に於ける関東軍の専恣極まる「暴走」を是認し弁護したことが私の頭にこびり付き、何かにつけて思い出された。
(中略)
仏印相手の猿芝居
防衛庁戦史室編纂の戦史によると、佐藤賢了がこのころ仏印で猿芝居的演技を展開している。彼は(7月)11日ハノイに飛び、南支方面軍司令官安藤将軍からとして仏印総督カトルー将軍に軍刀を贈呈し、翌日カトルーから午餐に招かれた際『日仏印協定要綱』なるものを提案した。提案の趣旨説明も広東で準備してきており、仏語訳を添えてあった。『西原機関電第126号』として戦史室に保存されている。
(中略)
…ともあれ佐藤は、ハノイに飛んで勝手なことをやり出した。
この佐藤による対仏印交渉が、参謀本部と波集団(第23軍)との共謀だったろうことは想像に難くない。(中略)
大井篤氏によれば、7月25日以降南支那方面軍は大本営直轄となり、26日に西原一策に上京(帰国)命令、佐藤賢了が監視委員団長代理となって、28日に西原は日本へ帰国。。。
えーでは、情報が大体出揃った所で、『森本中佐鎮南関附近越境事件』のからくりを紐解いてみます。😀😀😀😀
先ず、時系列です。 ⇩
①西原一策少将・佐藤賢了中佐は、多分陸軍士官学校時代からの兄貴・舎弟の仲良しコンビ。
②6月22日 ドイツ・フランス仏休戦協定調印(ドイツがパリ占領)
③6月25日 フランス本国(ペタン元帥)政府、カトルー総督に罷免。カトルー総督はこれを無視、サイゴンに居座る。
④6月29日 西原一策少将、援蔣物資監視派遣団団長としてハノイ入り。
⑤7月11日 佐藤賢了中佐もすかさずハノイ入り。
⑥7月12日 佐藤中佐、カトルー総督に軍刀贈呈でとても仲良し。
⑦7月13日 午餐会で、居座り将軍に佐藤中佐が『日仏印協定要綱』提案。(=アリバイ作り)
⑧7月16日 米内内閣総辞職
⑨7月20日、西原・中村会談。西原団長は仏印第一戦司令官メヌラ少将らを伴い昂奮して第五師団部隊にケチつける。
⑩7月22日 第二次近衛内閣成立、東条陸相・松岡外相に交代。
⑪7月26日、西原団長⇒佐藤代理に交代命令
⑫7月28日、西原日本へ帰国
⑬7月29日、第5師団(中村兵団)と西原機関の連絡と情報交換を禁止
では、ここからどうなったかをもう一度。⇩
⑭7月31日 「仏印侵攻。8月10日頃迄に諸準備完了すべし」の命令有り。
⑮8月 3日 「廟議決せず、今少し外交談判。現状のまま待機すべし」
⑯8月30日 『松岡・アンリー協定』議決
⑰8月31日 平和進駐準備の為、仏領インドシナ軍を編成すと連絡あり。
⑱9月 4日 突如「仏印現地交渉は決裂状態。速かに北部仏印攻略準備」の命令有り。
⑲9月 5日 突如「仏印側が全面的に要求を容れ、協定(=西原・マルタン協定)成立」=進攻中止の電報あり。
そして、ここから森本部隊の動きを見て見ましょう。⇩
⑳9月 4日 最前線担当の森本部隊700名は、仏印進攻の為行軍開始。
㉑9月 5日 行軍中止。
㉒9月 6日 帰営途上、第17界標を目標にこのまま行軍訓練実行の連絡。
㉓同日 ドンダン方面から来た仏軍将校に会う。
㉔同日 昼食中に仏印側司令官メヌラ少将が来ておしゃべりする。
㉕同日 帰営
㉕9月 7日 佐藤賢了(さとう けんりょう)参謀副長からの急電有り。
「鎮南関警備隊長森本宅二中佐本6日12時40分頃越境す」

もう、バレバレですよね。。(笑)
全員(西原・佐藤・カトルー・メヌラ)、グルですヨ。。
罷免された居座り仏印総督を引き込んで、西原・佐藤コンビが第22軍第五師団相手に一芝居打ったに間違いない。😤😤😤
⇩ ⇩ ⇩
7月29日から、からくりがバレない様、西原機関と第五師団の連絡を用意周到に禁止させておき、
7月31日から、三転四転と情勢をわざとコロコロ変転させ、
9月4日に、突如「進攻開始!」の命令を発し、
9月5日に、突如「進攻中止!」の命令を発し、
9月6日に、何故かドンダンにメヌラー少将と佐藤賢了参謀副総長らが仲良く大集合し、森本部隊を探る為に仏印軍将校を偵察に向かわせ、其の後にはメヌラ本人も森本大隊長に会いに行かせ、”越境したかも…”と思っていることを探り出し、、
9月7日に、佐藤賢了参謀長が自ら、「重大軍紀違反発生!!」の大袈裟な電報を打った。
ぴったりと辻褄が合っています。
しかも、、 中村明人師団長は、手記の『まえがき』(出版年の昭和29年書かれた)にこう書いているのです。⇩
偶々9月6日鎮南関附近に於いて森本大隊長の越境事件突発し百日の労苦を一匱に欠くの結果を招来した。此の事件に依って仏印派遣大本営西原機関と仏印軍との間に秘密協定が成立したが、此の協定に日本軍の一兵たりと雖も越境したる時は協定を破棄するとの条項があり、之に依って本協定はお流れとなったことを越境(実際は越境して居ないことが後の調査で明瞭となった)後数日を経て、私共将兵は知った。
ね。。。😑😑😑
連絡も情報交換も禁止した上で、こそこそと極秘協定書に『日本軍の一兵たりと雖も越境したる時は協定を破棄するとの条項』と入れて置き、朝令暮改で『進攻!』『中止!』を繰り返し、当日(9月6日)は日本兵が一人でも越境せぬかと偵察兵まで送り、メヌラ少将まで詐欺の片棒を担がせ、そして、実際は越境して居なかった真面目な森本大隊長に罪を被せて軍法会議にまで掛けてた。
これが、『森本中佐鎮南関附近越境事件』の全貌とからくりでしょう。。ワタシはこの推論に自信アリ。😤😤😤
そして、ここで忘れてはならない事、それは、、、結局、『メヌラ少将が越境していた!!!』んですヨ。。。(笑)
だって、そうですよね。森本隊長は越境して居らず、支那側でメヌラ少将に会った。要するに、国境線を越えて仏印側から支那側に”越境”してたのは、メヌラ少将だったいう事になりますよね。
なのでワタシは、草葉の陰の森本大隊長や雲の上の第五師団の皆様の名誉のために、今日からこの事件を『仏印軍メヌラ将軍越境事件』と呼んで歴史を書き換えたいと思います!!😤😤😤😤😤😤
😅😅😅😅😅
続きます!
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回想録の中に以下の地図と文章を発見したので、追記します。(4/
26)
9月30日、岡本少将より報告あり。森本中佐は越境しあらず、先方の謀略にかかりしものなりと左の如く説明あり。本件はすでに9月15日望月憲兵中佐の指摘せし所と符節を合するものあり、特別報告追加其の三を作製す。
『特別報告追加其の三』がこの図です。⇩

軍は(森本中佐部隊は)、AB線を一応国境と認め之を厳守したものなり。(17号標識石とCD両岸山南端を列ねる線)
調査の結果、昔は此処南端に16号標石ありしが、いつの間にか消え、仏印と支那と年久しく繁争の処なりしが、其の後妥協なり15号ー17号を連ねる線以南は、両国民雑居の地として現在も自由に出入りしありと。
図にはこの様⇧に注意書きがあり。
森本中佐は全然越境していなかったんです。逆に、事前に訓練を重ねていたお陰で地図上の16号標石位置をちゃんと意識していた。なのに不意に『仏印軍将校』を見掛け、”あれ?ひょっとして?”、念の為に休憩し部隊にその場で昼食を命じていた。国境内で。そ、それなのに、、、
越境だ!軍紀違反だ!と騒ぎ立てた西原一策&佐藤賢了コンビ。。。
それに片棒担いだ仏印軍のメヌラ少将。。。
あの世で会ったらワタシが全員殴ってやります。(笑)
今は、取敢えず名称変更を。
『仏印軍メヌラ将軍越境事件』
⇩ ⇩ ⇩
『西原・佐藤・メヌラ越境冤罪でっち上げ事件』
😤😤😤😤😤😤😤
