『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』①第五師団 中村明人師団長手記 ~南寧から鎮南関~
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令和日本の全御家庭に是非一冊、、、
これで日本が変わる!?(かも???知れないデス。。😅😅)
宜しくお願いします。
ひと段落したので再び仏印(ベトナム)の方へ軸足を戻したいと思います。自称・仏印史ハンター(笑)としてはやる事が目白押し、、、次はやはりこれにします。⇩
『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』
著者 中村明人(なかむら あけと)
1940年、鎮南関(ちんなんかん)を越えて仏印(ベトナム)側ドン・ダン、ラン・ソンへ進攻した第5師団の師団長、中村明人中将の手記です。
(仏領インドシナ、ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その①(再))
大東亜戦争の超・重要作戦にも拘らず、戦後一貫して完全スルーされ続ける『日本軍の仏印(ベトナム)進駐』、、、とその『真相』。。。
第5師団の師団長だった中村明人中将の手記が去年やっと国立国会図書館オンラインにアップされたので、著作権が切れたらこれも復刻出版したいと思っていますが、今は取敢えず仏印(ベトナム)関連部分だけを抜粋してnoteに連載投稿します。
全篇の目次はこの様になって居ます。⇩
仏印進駐の真相 : 昭和15年9月23日
目次
まへがき
第一章 第五師団長親補より広西省南寧到着まで
一、東京より広東まで
二、広東滞在
三、広東出発南寧に至る
第二章 南寧駐屯、陣地構築、次期作戦準備
一、着任
二、南寧及び其の附近の状況
三、南寧陣地の構築及び補強
四、次期作戦準備の為の教育訓練
第三章 仏印国境に対する作戦準備
一、龍州方面に部隊派遣の準備、岡本支隊の出発
二、岡本支隊の状況
第四章 仏印に対する威圧強化、河内進駐準備
一、中村兵団の寧明移動
二、鎮南関に於ける中村兵団長と西原少将、メヌラ少将との会見
三、威圧強化、河内進駐準備
第五章 仏印進攻準備
一、八月十日までに仏印進攻準備下令
二、進攻準備完了次で現状待機
三、上金、上思方面の討伐、仏領印度支那軍の編成
四、軍司令官の鎮南関視察、九月四日までに仏印攻略準備完了、進攻中止、原駐地帰還
五、参謀総長及び波集団長の賞詞
第六章 森本中佐鎮南関附近越境事件
一、兵団長の処置
二、兵団長責とる
三、越境事件に対する上司の態度
第七章 九月二十三日零時の仏印進駐
一、対仏印進攻戦機三度動く
二、仏印進駐作戦開始
三、仏印側の先攻により平和進駐破る
四、「ドンダン」要塞、「シマ」止阻堡、「チヤトケ」要衝攻略
五、「ランソン」攻略及び「ナアシヤム」占領
第八章 「ランソン」攻略後の状況
一、「ランソン」入城
二、諒山城頭書
三、附表
第九章 進駐余録
一、軍状奏上案
二、外交調査会席上久米正雄講演抜萃
三、九月四日調印西原「マルタン」協定
四、九月二十二日調印西原「マルタン」協定
五、大東亞戦争全史抜萃
あとがき
第5師団の南寧滞在時期は、東京に本部を置いていたベトナム復国同盟会(クオン・デ候総裁)の外交部長陳希聖(チャン・ヒ・タイン=陳文安)や広東から陳中立(チャン・チュン・ラップ)達の革命同志がここで合流して『ベトナム建国軍』を組織した大変重要な時期でした。
ですが取敢えず、仏印(ベトナム)へ向けて出発した『第四章 仏印に対する威圧強化、河内進駐準備』から纏めます。⇩
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前日10日に新作戦(=ドン・ダン、ラン・ソン進攻作戦)の要旨命令を受け準備中だった中村師団長は、1940年7月11日午後、南寧司令部で軍命令、「中村兵団は其の主力を以て寧明附近に前進し、仏印に対する威圧を強化し河内(ハノイ)進駐を準備すべし」を受領した。
7月15日、新作戦地寧明に向けて楠本旅団から順次進駐開始。南寧地区の警備は、近衛師団桜田兵団が交代した。
7月19日午前8時、中村師団長、車で南寧を出発。途中、蘇墟、綏淥で休憩、那忙にて昼食、鉄道隊架橋の渡り初めをし北江郷に入る。午後5時、寧明橋梁に達し、寧明県公署に兵団司令部に入る。
7月20日、仏領印度支那(インドシナ)監視員西原少将一行が鎮南関に来たり岡本少将に会見を要望。中村師団長も同席する。
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回顧録のP.61、南寧から仏印国境の鎮南関までの旅程詳細がこちらです。⇩

朝8時に南寧を出発し、途中蘇墟(46km)と綏淥(+36km)で休憩を取り、那忙(+40km)で昼食。北江郷を通過、寧明橋梁に達したのは当日の午後5時頃ということで、寧明県まで合計180キロの旅程でした。
兵団歩兵は15日から順次出発。背中に30キロ近い荷物を背負っての行軍で17、18日辺りには寧明入りしたのでしょうか。。。😭
西原少将とは、西原一策陸軍少将のことです。
援蒋(蒋介石)物資監視団の団長として昭和15(1940)年6月26日に羽田を出発、29日にハノイ入りしてました。
6月17日にフランスがドイツに全面降伏し、ペタン元帥が首相に就任。2日後の19日には、東京の有田外相がアンリー仏大使に対して『援蔣停止についての重大要求』を提出した為、フランス側が翌日には仏印現地への日本側監視員派遣を承諾したという経緯があり、この仏印派遣団御一行の団長に選ばれて先に仏印(ベトナム)入りしてたのが西原少将です。
さて、中村師団長の回顧録によれば、7月20日鎮南関での西原少将と仏印軍メヌラ少将との会見はこの様なものでした。⇩
7月20日午前8時30分寧明を出発、…本部にて所要の要件を終え次いで鎮南関に至る。時に午後一時、既に歩兵第21旅団長岡本鎮臣少将以下我が兵団の幹部到着し有り。
予が到着するや、西原一策少将は仏印監視日本将校、仏印第一戦司令官メヌラ少将、チェボウ武官、その他新聞記者を伴い賑々しく国境線を越えて入り来たり儀礼的握手を交換せり。
メヌラ少将は予に「貴軍にて不自由の品あれば何なりと申出でられたし。好意を持って調達すべし」と好意を寄せられ、予も「メルシー」と答礼せり。何故か西原少将は最初より相当昂奮しあり。先ず岡本少将に対し何故貴軍の歩哨は日本将官たる予(=西原少将)が引率せるメヌラ少将一行の支那領土に入るを阻止したるか、又在龍州の仏国領事に送るべき衣糧品を拒みしかと難詰せり。
岡本少将:歩哨は特別守則のまにまに行動し当然なり。龍州領事に送るべき衣糧を拒みしに非ず、日本軍の手に依って完全に届けるから前線に於いて日本軍に交付せよと云いたるなり。
西原少将:何故仏人が携行して領事に渡し得ざるか。
岡本少将:軍は目下作戦行動中心で鎮南関以内は他国人に見せることが出来ない。
西原少将:貧弱なものだから恥ずかしくて見せ得ない為だろう。
これに於いて予(=中村師団長)は聊か強き声を以て、:
西原少将、それは過言です。岡本少将以下一歩哨まで総べて本職の命令で行動して居り誤りはない。本職も亦上司の命を受け眷々服膺して居る。疑問の点あれば上司に糺されたい。
これに於いて、会見は全く白けた。やがて西原少将は一行を促して関上を去った。去るに臨み日本兵卒に向って放ちたる同少将の数言は頭脳明晰思慮ある将軍の言として同意し兼ねるものなり。
。。。おぉぉ。。。。これが、これが、、これからアジア解放の序章となる大作戦を決行しようとする部隊を迎えた自国の将校の態度とな。。。(笑)😅😅
初っ端から敵愾心剥き出しの西原団長。。。
『何故か西原少将は最初より相当昂奮しあり。』とか書かれちゃってます。💦(^▽^;)
しかし実は、外国駐在の日本人にこういうタイプ結構多い。😂😂😂🤣🤣🤣🤣🤣
どんなタイプか・・・西原少将の履歴をネット情報で確認して見ましょう。⇒西原一策 - Wikipedia
1913年に陸軍士官学校25期で卒業、
22年陸軍大学校卒業、
24年東京帝国大学法学部派遣、
27年参謀本部付、フランス駐在
29年国連代表随員
31年ジュネーブ軍縮会議全権随員
38年陸軍大学校教官
40年大本営参謀(仏印監視団長)
おぉー。。。見事な頭でっかちだ。。現場経験が極端に少なーー。(笑)
しかも官費留学経験者特有の”直訳的(By 北一輝先生)”西洋カブレ者の可能性もアリ。😑😑😑
何故にこのお方が出世街道を猛進し、仏印進駐という重要局面で援蔣看視派遣団の団長に選ばれたのか?🤔🤔🤔
因に、1913年に陸軍士官学校を卒業なら、市ヶ谷台に『武断党』が出現する5年前位なので、広島(長州)出身者として『武断党』に味方し反硬派、反西田税(にしだ みつぎ)を煽った先輩集団の中に絶対居たんじゃないのかな~、そんな雰囲気が隠しきれない西原センパイ。😑😑
さて、この難癖に対して中村師団長はどうしたか?⇩
予は飽くまで儀礼は儀礼とし、一行を午後一時半国境線まで送り、昼食後附近国境線を視察し、岡本少将と共に憑祥に下車し支隊本部を一閲し、四時出発午後7時30分寧明に帰る。此の夜は深更に至るまで本日会見に於ける西原少将及びメヌラ少将の懐ける思想と過去4カ月南寧に於いて上司より得たる指導、別して今回の新作戦に対する軍命令即ち「仏印に対する威圧を強化し、河内(ハノイ)進駐を準備すべし」との間には大いなる相違あり、今に於いて仏印に於ける大本営出先情報(外交)機関と作戦系統に立つ我が兵団との関係を明らかにせざれば、将来由々しき齟齬を惹起し、累を聖明に及ぼすべきことあるを深慮し、直ちに玉置参謀長に命じ会見の詳細を和集団長久納中将に報告し、今後西原機関との関係を如何に律すべきやを質せり。(中略)
本日西原、メヌラ両少将の態度よりすれば、恰も日仏両軍は連合軍の如く国境の観念なぞ不問なるが如くにも見受けらるる節もあり、之に反し我が方に於いては憑祥附近にて岡本支隊に三木部隊は一挙ハノイ攻略の突進演習を日夜訓練しているという両者間腑に落ちざる阻隔の状態である。
中村師団長は、南寧出発前に聞いていた軍令と大本営出先(外交)機関の態度が180度違っているのに驚き、直ぐに上司へ報告、問い合わせしました。そりゃあ、ビックリしますよね!😨😨😶
実際に、西原監視派遣団側は何を考えていたのか?
これが解る文章が実は、石川達三氏の『包囲された日本 仏印進駐誌』に書いて有ります。⇩
陸軍少将西原一策を委員長とする援蔣物資看視委員の一行は、昭和15年6月26日羽田飛行場を2台の軍用機で出発し、29日ハノイの郊外ジャラン(Gia Lam)飛行場に着いた。そこには総督府の高官連中が出迎えに来て居り、一個小隊ばかりの安南兵が整列して待っていた。(中略)総督府さし廻しの自動車が一行を乗せてソンコイ河の濁流を渡り、ハノイのホテルに入った。(中略)
このとき、ハイフォン、ハノイには援蔣物資15万トンが集積されていたが、看視委員一行はそんなものには眼もくれなかった。こんな少人数で騒いでみても始まらない。彼等が仏印に乗り込んだという事だけで目的は達している。本当の目的は少々の援蔣物資を押さえるなどということではない。貧乏臭く慌てることは禁物だ。それに委員長西原少将は親仏派ではないが知仏派である。いくらか陰鬱な感じの、殆ど笑ったことがないと言われる人柄であったが、仏国駐在武官としてパリに数年を過ごした経歴もある。仏印の弱り切った姿につけ込んで事を急がなくても、相手の感情を害さないで友好的に、しかも充分効果的に交渉をすすめる方法はあると思っていた。この考え方がやがて中村明人中将の意見と衝突し、ドンダンの戦争をひきおこした原因でもあった。(中略)
(北部仏印に何とかして兵力を入れなくてはならない)--大本営の本当の腹はそれであった。…看視委員の本当の任務はそういう交渉をつける事であった。従って援蔣物資の方は横眼で睨みを利かせておけば足りることで、友好的に仏印と進駐交渉を進めようという目的であった。西原少将の任務は半ば軍事委員であり、半ばは外交官であった。
作家石川達三氏は、昭和16年12月に海軍の徴用を受け、翌年1月に新聞記者や報道写真家ら25人と共にサイゴンの日本軍報道部指揮下に入りました。
日仏蜜月時代の昭和17(1943)年頃は、仏印利権獲得に国策会社や商社が押すな押すなの大盛況だった頃なので、多分そんな現地の活況を自慢する記事を書かせる軍部の目的があって、記者ら25人も徴用したのでしょう。
石川氏は、その時5カ月間に亘って「進駐当時(1940)の事情を直接取材した現地の新聞記者、直接責任の地位に在った陸海軍軍人、外交官等々を、直接訪問し、談話を聞き、ノートを取り、また史料を調べ、現地調査をして廻った」そうです。
だから、要するに上⇧の文章は、直接”西原少将側(=大本営出先情報(外交)機関)”から聞いたという、これぞ正しく”大本営発表”。
その意味では、”信頼”に値する内容だと思います。😅😅
⇩ ⇩ ⇩
・こんな少人数で騒いでみても始まらない。
・仏印に乗り込んだという事だけで目的は達している。
・本当の目的は少々の援蔣物資を押さえるなどということではない。貧乏臭く慌てることは禁物だ。
・委員長西原少将は親仏派ではないが知仏派である。仏国駐在武官としてパリに数年を過ごした経歴もある。
・相手の感情を害さないで友好的に、しかも充分効果的に交渉をすすめる方法はあると思っていた。
・この考え方がやがて中村明人中将の意見と衝突し、ドンダンの戦争をひきおこした原因でもあった。
・(北部仏印に何とかして兵力を入れなくてはならない)--大本営の本当の腹はそれであった。…看視委員の本当の任務はそういう交渉をつける事であった。従って援蔣物資の方は横眼で睨みを利かせておけば足りることで、友好的に仏印と進駐交渉を進めようという目的であった。西原少将の任務は半ば軍事委員であり、半ばは外交官であった。
なるほどな。。と。(笑)
「何故か西原少将は最初より相当昂奮しあり」と言われる筈ですヨ。。。
初めから兵団に協力する気なんかゼロだった訳です。
残念だな。
しかしながら、当時の国際情勢は非常に緊迫してました。
6月22日に独仏休戦協定が調印されると、ド・ゴール将軍はイギリスに亡命して自由フランス国民委員会を立ち上げ、フランスは分裂しました。
仏領インドシナ総督はドイツへの降伏を認めないド・ゴール派のカトルー総督。
6月25日、カトルー総督は本国のヴィシー新政府から罷免を言い渡されるもこれを無視し、後任のドク―東洋艦隊司令長官の上陸を阻止してサイゴンに居座り続けてました。
こんなメンドクサイ状況で、、
何故に西原一策少将は、、、
カトルー総督支配下である「仏印第一戦司令官メヌラ少将とチェボウ武官やその他新聞記者を伴い賑々しく国境線を越えて入り来たり、儀礼的握手を交換」してたのか。。
その謎行動の答えが、これじゃないでしょうか。⇩
カトルーは罷免されてから10日も経っているのに後任総督との事務引継ぎは済んでいない。従って彼はまだ総督府に在り、総督としての権能を持って居た。(中略)
(7月6日)此の日西原少将はカトルーと会見し、重慶方面から仏印を経て対外輸出される物資の輸送を禁絶されたいと希望し、(中略)
カトルーは日本側の二つの要求を簡単に承認した。そしてこの日またはこの直後あたりに、彼は西原少将にむかって重大計画を漏らした事実がある。
「自分は仏印をフランス本国から離れた独自の存在とする必要を感じている。もしも自分が実行にとりかかったならば、日本はこの計画を積極的に支援してくれるだろうか。」
これは驚くべき大陰謀であった。仏本国から独立し、仏印に自治政府を作り上げ、自ら主権の地位につこうというのである。
ただでさえ緊迫した国際状況の中で、他国のクーデター紛いのメンドクサイ話に引き込まれるなんてまっぴらごめんだ、、普通はそう思いますよね。
しかし、西原少将は違いました。⇩
西原少将はこの考えに反対ではなかった。これはとんでもない大芝居だ。仏本国が単に存在しているというだけの微力なものになっている今日、やるなら今だと思った。(中略)西原は大本営にむかってこの事を報告し、もしかトルーが事を起こした場合には支持を与えて貰いたいという問い合わせを発した。
問い合わせまでしてる。。(笑)
これが100%真実かどうかは断定できませんが、、、
少なくとも、7月20日頃にもなって、今だ反本国ヴィシー政府のカトルー総督配下に居る少将や武官、在サイゴン新聞記者らを連れて賑々しく国境線を越えて来て、兵団との会見初っ端から一人で昂奮して兵団幹部に難癖付けてたとか、、、これらの変な謎言動とはぴったり辻褄が合ってます。😑😑
いやーやっぱり、、、いつの時代もお受験戦士は、『クーデターがお好き』なのか。。。😑😑😑
しかし、日本とアジア各国の命運を賭けていた時に、冗談では済まされませぬ。。。
特に第5師団の中には南寧で合流したベトナム建国軍の総司令官陳中立(チャン・チュン・ラップ)らが居たのに、日本軍部のこんな内幕は絶対に知らされなかった筈です。
しかも戦後は、これら醜聞を隠そうと生き残った日本人が『仏印史』を隠し続け、殆どのベトナム人は『本当の歴史』を全く知らされないまま。
