『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』②第五師団 中村明人師団長手記~河内(ハノイ)進駐準備~
『仏印進駐の真相:昭和15年9月23日』① 第五師団 中村明人師団長手記 ~南寧から鎮南関~
鎮南関で仏印監視派遣団の西原少将と会見を経て、中村師団長は7月24日に寧明、明江、北江郷、右郷に集結した諸隊の巡閲を終えました。
7月27日、南寧に残留して残務処理をしていた全員が寧明に到着。
7月29日、波集団(第23軍)参謀西郷従吾中佐からの急な会見要望があり鎮南関へ馬淵参謀を派遣しました。
さて、この会見の内容とは?⇩
...此の日波集団参謀西郷従吾中佐、ハノイに来たり我が方と鎮南関にて連絡し度旨突然連絡あり、依って馬淵参謀を派遣し夕刻帰寧す。其の復命に依れば、仏印内日本監視委員会西原一策少将は急遽上京を命ぜられ、目下佐藤賢了参謀副長在河(ハノイ)し、西原少将の方針とは全く異なりたる方針を以て8月一日より談判を開始すと。
此の馬淵参謀の報告を受け、予の最も奇異に感じたることは、事国交に関する重大問題に一幕僚たる西原、佐藤の方針なぞいふべきものなき筈なり。(折衝の手段方法は別として)飽くまで盤石不動の大本営の大方針に基き如何に折衝すべきかの手段方法を西原少将にせよ佐藤少将にせよ万全に講ずれば良き筈なり。
上意下達の規律厳しい軍隊。。。の筈なのにぃーー。(^▽^;)
『現場指揮官が交代になったから方針も変えます。』
民間でこんな⇧生産工場があったら大混乱ですヨ。。
やはり、中村師団長も、⇩
*国交に関する重大問題に、一官僚の方針云々など関係無い筈だ。飽くまで盤石な大方針に基き、現場指揮者は手段を万全に講ずれば良い筈だ*
と言っております。その通りですよね。。。
そして更に。。中村師団長は全然はっきり書いてませんが、ここで言いたかったことは、本当はこれだと思います。⇩
7月16日に米内内閣は総辞職した。外交問題にあき足らずという畑陸相の抗議が内閣を潰したのである。(中略)
翌7月17日近衛文麿に大命降下。
…7月19日近衛文麿は東條中将、吉田中将、松岡洋右の三人を招いて重大国策を語り合っていた。
第二次近衛文麿内閣の成立です。
この7月19日は、世間で云う『荻窪会談』。
日本内閣メンバー変更で、仏印監視派遣団の団長が急遽日本へ帰国してる。。?? さて、この背景とは?⇩
…しかるに陸軍は、第二次上海事件以来、伝統軍略たる北進主義を棚上げにして、南方へ進む方針をとっているが、これは南方諸地域における油、ゴム、鉄鉱、錫その他の軍需物資の獲得を主たる目的としてのことだ。
(中略)
従来、歴代の内閣で、殊に外務大臣を苦しめ続けてきた事柄は、政治と統率兼の独立に関する軍部の非妥協的主張であった。軍部の外交干渉は、多くこれから発生し、政府または外務省の方針を無視し外交干渉を行い、または自らいわゆる強硬外交を敢行した。(中略)
3 矛盾した二つの外交
近年、矛盾した二つの外交方針が日本で対立抗争したことは、前章に述べた通りであるが、(中略)
歴代の外務大臣の殆ど全ては、陸軍の侵略方針と戦って来た。最初は、軍人の外交干与防止の形態をとったが、だんだんと軍人の実力外交食い止めの闘争に転じ、それに闘争地域の推移も加わって、朝鮮や満州の問題から中国問題へ、中国問題から南方諸地域問題へと、軍部外交が拡大されるにつれ、闘争の程度も高まり、地域も広まった。しかも、第二次近衛内閣時代には、軍人外交がもっとも猛威を振るいはじめ、軍部は実力にものをいわせて、傍若無人にふるまったから、文官グループのその間に処する苦心は並大抵のものではなかった。
これ⇧は、第2次近衛内閣松岡洋右外務大臣の時の外務省顧問、斎藤良衛(さいとう りょうえ)博士の回顧録からです。
なるほどーー、と。😅😅
先の記事の作家石川達三氏の、この大本営発表通りじゃないでしょうか。
⇩ ⇩ ⇩
「西原少将の任務は半ば軍事委員であり、半ばは外交官であった。」
(^▽^;)。。
西原少将は完全に外交官として仏印に居り、松岡洋右新外相対策の為に陸軍作戦会議に日本に呼び戻され、後の大陰謀の謀議に参席してたと。。。
「援蒋物資の監視で派遣されてるのに、仕事ほっぽり出して、、外交官気取りで何やっとんじゃ!」
。。。多分、中村師団長は本当はこう書きたかったと思います。(^▽^;)。。。
中村師団長の回顧録を続けます。⇩
第5章 仏印進攻準備
7月31日午後6時、鉄道連隊長青村大佐来たり報告して曰く、「本日夕刻を以て所命の道路工事は総べて一段落を告げたりと。(中略)
午後9時玉置参謀長、向井副官を伴い南寧より帰明(寧明)し、和集団(第22軍)命令を伝う。その要旨次の如し。
-和集団は仏印に侵攻す。中村兵団(第5師団)は8月10日頃までに諸準備を完了すべし。(中略)
尚、去る20日鎮南関に於いて西原少将との会見後本職(=中村兵団長)の具申に対し、軍は左の回答を玉置参謀長に与え、又参謀長は此の回答に違反することなき旨の誓書を出す等、本職の未だ体験せざる処置をなし来たり。
ー中村兵団は西原機関と連絡し、その情報を受ける事を禁ず。該機関の情報は総べて軍以上に於いて処理するものと心得られ度し。
これ⇧は、先の記事に書いた様に、中村師団長から問い合わせした、
「今に於いて仏印に於ける大本営出先情報(外交)機関と作戦系統に立つ我が兵団との関係を明らかにせざれば、将来由々しき齟齬を惹起し、累を聖明に及ぼすべきことあるを深慮し、直ちに玉置参謀長に命じ会見の詳細を和集団長久納中将に報告し、今後西原機関との関係を如何に律すべきやを質せり。」
これに対する返答がだった訳です。ビックリΣ(゚Д゚)です。
ほう(報)れん(連)そう(相)は何処へ行った。(笑)
何と言うか、、足並みバラバラじゃないですか。😨😨😨 いやはや、、恐ろしい。。
先を続けます。⇩
8月3日、仏印進攻に関する中村兵団作戦計画成り、和集団に報告す。(中略)、夕刻に至り予期せざりし入電に接す。
ー廟議決せず、今少し外交談判のみに依ることとなりしを以て現状のまま待機すべし
惟うに、去る7月22日米内内閣総辞職の後を受けて近衛内閣成り、東条中将陸軍大臣、松岡洋右外務大臣兼拓務大臣となり曩に帰京せし西原少将等の意見を聴取して進攻を一時見合わせたるものならんと兵団は情勢判断を下していた。上司よりは別に詳細の通報なし。
(中略)此の日(8月9日)西原少将8日東京発河内(ハノイ)に飛行せりとのニュースに接す。幕僚の臆測盛んなり。
此の辺りの事が、石川達三氏の『包囲された日本』に書いて有ります、大本営発表(=プロパガンダ)が。
7月27日、(フランス本国の)ペタン政府は、アンリー大使を通じて、外務次官谷正之に挨拶を送って来た。…同時に新任ドク―中将からミッション・ジャポネ西原機関に対しても同様の挨拶があった。(中略)
…ドク―よりもカトルーの方がずっと話のわかりが良かった。カトルーは本国と絶縁し日本と提携するつもりだから独断で事を成し得たが、ドク―は事々にヴィシーに訓令を仰がなければならなかった。(中略)ミッション・ジャポネはやりにくくなった。
なるほど。。。(笑)
やっぱり、西原少将は今後の”外交方針”をどうするかの作戦会議の為に、日本へ呼び戻されていた模様。。
それが推測できる箇所が、斎藤良衛外交顧問の『欺かれた歴史』に書いて有ります。⇩
…この問題(北部仏印進駐問題)の考え方には、両者(松岡外相と陸軍)に雲泥の差があった。松岡の考え方からすると、仏印ルートによるヨーロッパ、アメリカ方面からの蒋介石軍援物資の輸送阻止が、日華事変の解決になんらかの効果はあっても、これだけで事件が解消されうるものでなく、中国におけるわが軍事行動を完全に清算しないかぎり。とうてい期待しうべきでない。(中略)だた蒋介石の抗日意識を鈍らせる一つの手段になるだけだとした。松岡の考え方は、それきりのものであった。軍部のねらいはそんななまやさしいものではなかった。彼等からすれば、蔣介石援助は、彼等に米、英、蘭等に対するいいがかりの種をつくり、南方諸地域占領に好個の口実を与えるものとしていたに相違ない。もし軍部が本当に仏印、ビルマ両ルートの閉鎖だけを希望し、それ以上何も考えなかったとしたならば、当時まだ、正常の外交関係を持続していたイギリスやフランスに対する日本の一切の要求は、当然、外交機関を経て、それのみによって先方に提出され、その貫徹を期すべきであった。現に、松岡はこうした考えで外交交渉を開始していた。…しかるにこの交渉のはじめには軍部は、これを直接妨害もせずにいたから、松岡は曲がりなりにもなんらかの妥結に到達しうるものと考え、フランスでは駐仏大使からフランス政府に、また東京では松岡がアンリー大使とせっせと話し合いを続けた。しかしながら軍部には、その成功を願う心はなかった。
この事情を理解した上で、『包囲された日本』(☚大本営プロパガンダ情報。。😅)に再び戻ってみます。⇩
8月10日、西原少将はドク―を総督官邸に訪ねて進駐交渉を行った。…ところがドク―は明答を与え得る人物ではない。…そこで西原は蓑田総領事と一緒に飛行機で東京にかえり、仏本国と直接の外交交渉を行うことになった。松岡は8月3日から東京でアンリー大使との間に、仏印に対する軍事協定の要求を提出協議しているところである。
いわゆる『松岡・アンリー協定』といわれるこの”話合い”は、(中略)東京に於いて8月30日に議決されたが、それは日本と仏本国との間に結ばれた原則協定であって仏印はこの交渉にあずかってはいない。日本対仏印の問題は、この原則に従い現地協定をして、西原少将とマルタン軍司令官との間で協議されることになった。
これ⇧から判ることは、斎藤良衛外交顧問の”読み”がほぼ当たってることです。
「松岡はこうした考えで外交交渉を開始していた。…しかるにこの交渉のはじめには軍部は、これを直接妨害もせずにいた」
⇒わざと松岡外相の交渉を妨害せずに放置し、後の『謀議』の為の時間稼ぎをし、、、
「しかしながら軍部には、その成功を願う心はなかった。」
⇒『松岡・アンリー協定』という建前が出来た所で、”じゃあ、それに基づいて現地は現地でミッション・ジャポネ西原機関と仏印軍マルタン司令官で協議するぜ!、でこれが締結。⇒『西原・マルタン協定』(9月4日締結)
でもでも、この、仏印軍のマルタン司令官とは、旧派(カトルー前総督側の人)の人間ですヨネェ、、、 (^▽^;)
だから、結局どうなったのか??⇩
9月4日、突然この部隊(第5師団三木部隊)に飛報がもたらされた。
ーハノイに於ける西原・マルタンの会談は交渉決裂せり。本日夕刻までに出動準備を完了すべし。
怪しさ満載じゃん、、、。嘘をつけ、嘘を。(笑)
これを中村師団長の回顧録に見て見ましょう。⇩
8月31日、(中略)…渡辺参謀長より次の如き電報あり。
ー近衛師団の一部を基幹とし、仏領印度支那軍を9月9日編成す
此の電報に接し、幕僚は愕然として驚き色を失うものあり、又昂奮するものあり、常に和気靄々たりし我が司令部も一朝にして重々しき気分に覆われてしまった。
予は此の電報を見て暫し沈思黙考したが、直ちに幕僚長以下を集めて次の訓示を与えた。
訓示
我が兵団が仏印威圧、次いで仏印攻略準備の命令を受けて以来3か月に亘り、あらゆる苦難を嘗めて今日に至った。将兵の奮闘には感謝の言葉も無き位である。此の我が兵団の功績に依って友軍近衛師団は、平和裡に仏印に進駐することが出来る様になった事と思う、、、
(中略)
9月4日、起床すれば諸方参謀あわただしく入り来たり、明5日中に進攻準備を完了せよとの大本営命令が来て、天野参謀が急遽南寧から来るそうでありますとの寝耳に水の報告、固より此の報告は軍司令官に随行し来りたる作戦主任権藤少佐より伝えられたるものなり。
午前十時天野参謀到着11時寧明兵団司令部にて軍司令官より左の和集団命令を下達せらる。
和集団命令 9月4日1030寧明
一、仏印に於ける現地交渉は殆ど決裂の状態に在り
波集団は速かに北部仏印攻略準備の完了を命ぜらる
二、集団は速やかに北部仏印攻略準備を完了せんとす。
三、中村兵団は当面の敵を撃滅し、速やかに「河内(ハノイ)」を攻略、老開(ラオカイ)及び「タンホア」に向い、追撃を準備すべし。
中村師団長は当然、
「直ちに行動を開始し、かねて周到に準備したる計画に基き其の部署に就きつつあり」、午後3時に「和集団(第22軍)は速やかに北部仏印攻略準備を完了せよ」等の命令を発しました。
しかしです。⇩
9月5日、…午後3時突如軍より左の要旨の電報あり。
仏印側は全面的に我が要求を認め、協定成立せり。
中村兵団は進攻を中止し、諸隊を原駐地に帰還せしむべし。
本命令を受領するや直ちに幕僚副官を急派して伝達せしめしが、既に4日夕より展開地に向い進出せる部隊もあり、相当の困難を見たるも幸い夕刻までに伝達完了せしを確認し其の旨軍に報告せり。
ここまでの時系列を整理します、⇩
7月31日 和集団参謀長より、「仏印に侵攻す。中村兵団は8月10日
頃までに諸準備を完了すべし」の命令を受ける。
8月 3日 予期せぬ入電あり。「廟議決せず、今少し外交談判のみに
依ることとなりしを以て現状のまま待機すべし」
8月30日 東京で『松岡・アンリー協定』議決
8月31日 参謀長から第五師団へ連絡あり。これより平和進駐準備の為、
これより仏領インドシナ軍を編成す。
9月 4日 午前11時頃、突如「仏印に於ける現地交渉は殆ど決裂の状態
に在り。速かに北部仏印攻略準備」の命令を受ける。
9月 5日 午後3時、突如「仏印側は全面的に我が要求を認め、協定
(=西原・マルタン協定)成立せり。」=進攻中止の電報あり。
こんなにコロコロ変わってる~~。。(^▽^;)
えー、そしてですね、実はこれが大変重要なポイントでして、⇩
「直ちに幕僚副官を急派して伝達せしめしが、既に4日夕より展開地に向い進出せる部隊もあり、相当の困難を見たるも幸い夕刻までに伝達完了せし」
9月4日11時頃から翌日午後3時までで28時間もあり、最前線の部隊として常に準備は万端、当日夕方から既に作戦展開地へ向けて順次守備地点に移動を開始していた訳です。が、幸いに行軍中止の伝達を完了出来たと。
しかし、この『4日夕より展開地に向い進出せる部隊』の中に、岡本支隊下の森本大隊長(中佐)が居たのです。
これが、後の『森本中佐越境事件』に繋がるんですよね。
さて次回は、この『森本中佐越境事件』を大分解して、仏印利権に目が眩んだ某陸軍将校らの驚くべき『陰謀大作戦』Σ(゚Д゚)Σ(゚Д゚)、の全貌を解明してみたいと思います!😅
*一番上は、回顧録P.63の『仏印監視所』の絵図
