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【第2回】映画「ひゃくえむ。」が問う『生きる目的』~髭男「らしさ」編~

はじめに

この記事は、映画『ひゃくえむ。』の感想と考察をお届けする全3回の第2回です。
⇐ 【第1回】:映画「ひゃくえむ。」が問う『生きる目的』~感想編~
【第3回】映画「ひゃくえむ。」が問う『生きる目的』~結論編~

第1回では、映画の登場人物たちがそれぞれ抱える「走る理由」と、主人公トガシが「本気になるため」という答えにたどり着くまでをお伝えしました。

今回は、エンディングテーマであるOfficial髭男dism「らしさ」についてです。

映画を観終わって、エンドロールでこの曲が流れた瞬間、作品のテーマがもう一度、音楽の形で押し寄せてくる感覚がありました。

この曲の歌詞には、「君」と「僕」という2人が登場します。この2人がいったい誰なのか——それを考えることが、この曲を解釈する鍵だと思います。

「君」が言ってくれていること

歌詞を私なりに意訳すると、「君」はこんな言葉を投げかけてきます。

  • 「オンリーワンでいいじゃん、きっと1位なんてとれないよ」

  • 「始めた時期が遅いよ」

  • 「世界は広くて、天才はいるしレベルが違うよ」

  • 「昔楽しかったからいいじゃん」

  • 「自分が楽しければいいじゃん」

どれも、何かに挑戦したり変化しようとしたりしたとき、頭の中に必ず現れる声ではないでしょうか。

並べてみると、共通点が見えてきます。

どの言葉も、自分を「立ち止まらせる」方向に働いています。挑戦の前に現れて、リスクを示し、周囲と比較し、現状にとどまる理由をくれる。

ただ、注意したいのは、歌詞がこの「君」を単なる敵として描いていないことです。歌詞の中で、「僕」を守ってくれる絆創膏に例えています。

つまり「君」は、自分を守ろうとしてくれているのです。

「僕」が言ってくれていること

一方の「僕」は、それらの正論を前にして、こう言います。

頭ではわかっている。現実は理解している。それでも、直感的に納得ができていない——と。

そして曲の終盤、「僕」の声は最大音量に達します。
もう限界だ。「君」の言いなりになってたまるか。「僕」はやっぱり、誰にも負けたくないんだ。この熱よ、どうか消えないでくれ——。

理屈では「君」に勝てない。それでも腹の底から湧いてくる、抑えられない衝動。これが「僕」の正体です。

では、「君」と「僕」は誰なのか

ここまで整理すると、答えが見えてきます。

「君」は理性です。
自分を守ろうとする心、変化を恐れる心、打算で考える頭。失敗から、挫折から、傷つくことから、必死に自分を遠ざけようとしてくれる、もう一人の自分。

「僕」は本能です。
理屈を超えて「負けたくない」と叫ぶ、自分の根源の魂。

そして重要なことに、歌詞自体がはっきりと歌っています。どちらも自分であり、どちらも本心だ——と。だからたちが悪いのだ、と。

つまりこの曲は、誰か他人との対話の歌ではなく、自分の中にいる2人の自分の歌なのです。

大切なのは、どちらかを消すことではありません。理性も本能も、どちらも自分です。その両者を抱えたまま、本能が叫ぶ「生きててよかった」という瞬間を掴みに行くこと——それが「自分らしく生きる」ということだと、この曲は伝えているのだと思います。

映画とつなげて聴くと、解像度が上がる

この解釈を持って映画を振り返ると、いくつかの場面がつながってきます。

トガシの中の「君」

第1回でお伝えした、トガシが怪我をした場面。選手生命が絶たれるかもしれないという状況で、トガシの中に聞こえた声がありました。

「負けたっていいと思えばいいじゃん。人生なんてかけなくていい。」

これはまさに、「君(理性)」の声です。自分を守ろうとする、建前の声。

そして、それを許さなかったのが「僕(本能)」でした。歌詞で言えば、言いなりになってたまるか、と熱が叫んだ瞬間です。

財津の語る「不安」も、理性の声だった

ここで思い出したいのが、財津の言葉です。

「不安には対処できない。恐怖は不快ではない、安心は愉快ではない。不安は君を試すときに訪れる。」

不安とは何でしょうか。「失敗したらどうしよう」「危ないからやめておけ」——そう、不安とは、理性(君)が鳴らすアラームなのです。

多くの人は、このアラームが鳴ると引き返してしまいます。しかし財津は、不安を排除すべき敵ではなく、「本気になれる何か」に近づいているときにだけ訪れるギフトだと捉えました。

つまり財津は、理性の声を消すのではなく、「理性がアラームを鳴らすほどの挑戦に、いま自分は向かっているのだ」というサインとして利用していた。理性と本能の両方を抱えたまま進む「らしさ」の生き方を、財津はすでに体現していたのだと思います。

僕の本音は、どうすれば聴こえるのか

ただ、ここで1つの疑問が湧きます。理性の声はアラームとして大音量で聞こえてくるのに、本能や魂が本当は何を望んでいるのかは、普段なかなか聴こえてこないのです。

この映画の中で、トガシが本能の声に気づけたのは、怪我という外的に与えられた「死の自覚」がきっかけでした。選手生命の終わり——人生で言えば死——を突きつけられて初めて、「本能がそれを許していない」とわかったのです。

一方で、これを自発的に、毎日やっていた人物がいます。
スティーブ・ジョブズです。

ジョブズがスタンフォード大学の卒業式スピーチで語った習慣は有名です。彼は毎朝鏡の前で、「もし今日が人生最後の日だったら、今日やる予定のことを自分はやりたいだろうか」と自分に問いかけ、「ノー」という日が続いたら何かを変えるべきだと考えていました。
死を意識することは、何かを失うという思考の罠から自分を解放してくれる、とも語っています。

不安になったとき、自分に問うべきこと

この曲と映画の解釈から、日常に持ち帰れることをまとめます。

不安になったとき、「できない」という声が聞こえたとき。それは理性(君)が自分を守ろうとしているだけかもしれません。その声を否定する必要はありません。「守ってくれてありがとう」と受け止めたうえで、財津のように「これはギフトだ」と捉え直し、こう問えばいいのだと思います。

「でも、本能(僕)は何を望んでいるか?」

そして、その本能の声が聴こえないときは、一つのやり方としては、ジョブズの問いを借りてみてください。

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やることを、自分は本当にやりたいか?」

喜怒哀楽を一瞬に詰め込みながら、「ああ、生きててよかったな」と感じること。それがこの曲の言う「らしさ」なのではないでしょうか。

おわりに——次回は「結論編」へ

ここまで、映画『ひゃくえむ。』の感想と、「らしさ」の解釈をお伝えしてきました。

最終回となる次回は、この2つの作品から受け取ったものを、今後の生活に生かせる1つの哲学としてまとめます。

そこでお伝えしたいのは、この物語の「走る理由」が、実は隠喩だということ。そしてそれは、まるまる「生きる目的」に言い換えられるということです。


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