【第1回】映画「ひゃくえむ。」が問う『生きる目的』~感想編~
あなたは今、「本気」ですか?
映画『ひゃくえむ。』を観ました。100メートル走の選手たちの物語です。しかしこれは、スポーツの話である以上に、「なぜ生きるのか?」という問いを突き詰めた作品でした。
子供の時は楽しく毎日を「本気」で生きていたのに、大人になってなんだか「安定」や「変化しないこと」を選択をしてしまい、何かに「挑戦」や「本気」で取り組むことができていない。
そんな日々を送っているとしたら、これからお伝えする話が、何かのヒントになるかもしれません。
この感想を、全3回に分けてお届けします。第1回は映画そのものの感想、第2回はエンディングテーマであるOfficial髭男dism「らしさ」の解釈、第3回はそのすべてをまとめた「今後の生活に生かせる哲学」です。
※ネタバレを含みますのでご注意ください
それぞれの「走る理由」
この映画の登場人物たちは、それぞれ異なる「走る理由」を抱えていました。その理由の違いこそが、この作品の核心だと思います。
トガシ——「敗北への不安」から本気で走れなくなった男
主人公・トガシは、走りの天才でした。
しかし、小宮というライバルとの競争の中で、初めて「負けるかもしれない」という自覚を持ち、焦りや不安が湧いてきます。そこから純粋に「走ることを楽しめなくなった」と気づくのです。
競争が始まると、打算が入ってくる。「負けたらどうしよう」という恐怖が入ってくる。ところが競争を意識していなかった頃は、走ることそのものが楽しかった。
これは、職場での昇進や評価に置き換えると、よくわかるのではないでしょうか。
一度成果を出して評価されたものの、逆に「次で失敗したらどうしよう」という恐怖に縛られてしまい、「挑戦」よりも「守ること」が目的になってしまう——そんなジレンマに似たものだと思います。
カイドウ——「成し遂げる自分を信じる」ために走る男
万年2位でありながら、走り続けるカイドウ。彼の走る理由は明確です。
次は自分が勝つ、という心を信じること。
人は衰え、負け、最後には死ぬ。社会の構造から結果が決まってしまうこともある——そうした不条理な現実は理解したうえで、それでも「成し遂げる」という自分を信じてあげること。それが走る理由だ、と彼は言います。
何のために走るのかがわかっていれば、現実はいくらでも乗り越えようとできる。カイドウの強さは、才能ではなく、この「揺るがない理由」にあるのだと思います。
財津——頂点に居続ける男
競技の頂点に君臨し続ける財津は、こんな言葉を残しています。
「浅く考えろ。世の中をなめろ。保身に走るな。勝っても攻めろ。」
考えすぎて動けなくなる前に一歩踏み出す。周囲のノイズや常識を無視して直感を信じる。過去の成功にしがみつかず、常に攻める姿勢を持つ。そして、一度の結果で満足せず次の「本気」を探し続ける。
さらに財津はこうも言います。
「不安には対処できない。失う可能性があるから生きる意味がある。恐怖は不快ではない、安心は愉快ではない。不安は君を試すときに訪れる。」
不安や恐怖は、排除すべき敵ではない。それは「本気になれる何か」に近づいているときにだけ訪れる、ギフトだというのです。
そして、挫折の不安で足踏みをしてしまうときには、こう考えろとも言います。
「栄光の前に対価を差し出すときに、ちっぽけな細胞の寄せ集めの人生なんてくれてやれ。」
小宮——「記録」のために走る男
トガシのライバル・小宮は、もともと走ることが好きでした。
しかし、怪我という挫折を経験し、「次に失敗したらダメになるかもしれない」という恐怖によって、やりたいことができなくなってしまいます。
そんな中、財津の考えに触れた小宮は、「記録」を自分が走る目的にしました。過去の記録との比較、将来に残る数字——それだけが走る理由でした。
しかしある日、記録など追っていないはずのカイドウに敗れます。 そこで小宮は、走る意味を完全に見失ってしまうのです。
これは、現実世界で言えば、同期との出世競争や評価のために働くことに似ていると思います。
「あいつより先に昇進する」「前年より高い評価を取る」——その基準だけを拠り所にしていると、評価制度が変わったり、競争で予想外の負け方をしたりした瞬間に、働く意味そのものが崩れてしまう。
他者の基準や外部の評価を目的にすると、それが揺らいだ瞬間に、自分ごと崩壊してしまう。 映画はそのことを、痛ましいほどリアルに描いていました。
トガシに訪れた変化
「他人のため」に走る。
惰性で走っていたトガシに、「クビになるかもしれない」という変化が強制的に与えられます。
そこでトガシは、「他人のため」に走るという目的を設定しました。これはある程度うまくいきます。誰かが見てくれているかもしれない、という感覚が支えになったのです。
しかし、それを聞いたカイドウは、こうアドバイスします。
「現実から目をふさいで立ち止まるのと、現実を直視しつつ距離を置いて克服しようとするのは、まったく異なる。」
不条理な決定論。心が求める本当の自分。そのような「現実」がわかっていないと、現実からは逃げられない。
認めたくないことを認めるのは、すごく怖い。だが本当に変えようとするなら、その自分にとって不都合な「現実」を直視したうえでやるしかない。カイドウはそう言っているのだと思います。
怪我——「死の自覚」
その後、トガシは怪我をしてしまいます。選手生命が絶たれるかもしれない。これは人生で言えば、死を自覚したのと同等のことでしょう。
そのときトガシの中で、ある声が聞こえます。
「全力でやっても失敗することもある。負けたっていいと思えばいい。人生なんてかけなくていい。」
これは理性の声でした。自分を守ろうとする、打算の声。建前です。
しかし、本能がそれを許さなかった。
トガシはこう悟ります。「明日を生きるために、今を殺していた」と。
今、本気でなければ、将来に意味はない。
そして最後にたどり着いた問い——「他人が認めてくれるからやるのか?」
たどり着いた答え——「本気になるため」に走る
その答えとして彼が選んだのは、「本気になるため」に走るというシンプルな定義でした。
「人は自分の心しか理解できない。連帯も共感も愛情も、すべて自分の思い込みだ。最後には皆、全員死ぬ。ただ、本気でいるときの幸福感だけは、誰にも奪えない。」
次回、Official髭男dism「らしさ」の考察へ
「敗北への不安」「過去との比較」「他人のため」——外側にある理由は、どれも彼らを支えきれませんでした。最後にトガシがたどり着いたのは、「本気になるため」という、自分の内側にある理由でした。
このトガシの内面の戦い——自分を守ろうとする理性と、それを許さない本能——
それを、そのまま音楽にしたような楽曲があります。
エンディングテーマ、Official髭男dism「らしさ」です。
次回は、この曲の歌詞に登場する「君」と「僕」が何者なのか、私なりの考察をお伝えします。
