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喫煙所で語る避難訓練について

前提知識


ユニバーサル・ハイ・インカム 略して UHI とは、
つまりロボットが人間の代わりに働いてくれる社会である

Google AI

登場人物

3名
※関連記事は、当記事の最下部だよ


喫煙所で語る避難訓練について

本編


喫煙所の換気扇はタールがびっしりとこびりついており、羽の回転もなんだか重たそう。よし今日は掃除でもしてやろうか、なんて殊勝なことを思いつく社員はここにひとりも居ない。同じくヤニでコーティングされている黄色と灰色の壁、事件現場を彷彿とさせるような茶色の飛沫や染みは、缶コーヒーでもぶちまけた跡だろうか。ステンレス灰皿は吸い殻を捨てたばかりで空っぽなのだが、洗っていないせいで底はどす黒く変色していた。

そこに居る3人は、指先に挟まれたそれぞれの銘柄の煙草が短くなっていくのを見つめては、口に咥えて肺の奥に煙を送り込む。「依頼メールを次々処理する男」はこう言った。イーロン・マスクがUHIを提唱したとき、わたしは思ったんだよ。つまりAIで労働階級が消滅するということは、わたしの大好きなロック音楽がほんとうの意味でしぬってことだなってね。それは嫌だな。

Rock is dead.と言ったのはルー・リードだったかしら。ロックはとっくにしんだらしいわ。「資料室で書類をまとめる女」は老眼鏡の奥で疲れ果てたような目をスマホに落としたまま答えたが、自分の言ったことに耐えられず吹き出してしまったようだった。なんだか恥ずかしい台詞ね?

横でしきりに煙草の灰を落としている「寝ぼけた目つきをする巨漢の男」は鼻から口からモウモウと煙を立ち込めさせながらうんうんと頷いた。しかしUHIだかHDMIだか知らないですけどね、馬鹿げてますよ。それはつまり……全人類がお貴族様になるってことでしょう。AIに全ての生産を任せてそしたら人間様は毎日遊んで暮らせるってわけですか。我々も含めて? なんか話がうますぎますね。たぶん詐欺ですよ。詐欺。

貴族ってヨーロッパ史の中世社会を彷彿とさせるわね。物質的にはパーフェクトに満たされたヨーロッパの特権階級の末路……。その線でいくと人類は破滅するでしょうね。なぜだかわかる? ロックが大好きな男はそんなことを知るわけがない。肩をすくめている様子はどことなく楽しそうな顔をしていたが、誰から見ても嘘臭い笑顔だった。彼の長所であり短所な部分である。

待ってください、当てますよ。結局は退屈すぎて労働し始めるんでしょと、鼻から口から煙が立ち込めている男が横槍を入れた。でもお貴族様だからろくな働き方ができない、そして腹を立てた農民たちにみなごろしにされてしまうわけさ。違うわよ。……まぁ退屈になったというところだけは正解。退屈になったお貴族様たち同士で争いが始まった。

私たち労働者と違ってお金の取り合いをする必要はないのだけど、代わりに名誉を巡って「あいつに馬鹿にされた!!」とか、その1点のみで命懸けの決闘が行われたりして、多くの有望な若者たちが命を落とした。三銃士とか読んだことないのかしら。ああいう感じよ。ちなみに私は読んだことがないけど。なんだよそれ……と言わんばかりに呆れた顔をしている男達。でもそんなことで破滅するってのもおかしな話だね。

もちろんそんなことだけじゃないわ。ありとあらゆる争いの理由が陳腐化していくのよ。例えばマナーの激化。これも名誉と関係があるだろうけど、要するに見栄のため、自分たちの存在を正当化するため。些細な言葉遣いや服装の乱れが致命的なスキャンダルとなって、その一族が破滅に追いやられる。

先程まで肩をすくめていた男の張り付いたような笑顔が、急にペロンと、次のページでは顔の皮ごと落ちたかのように変わった。スキャンダルか。なんだか芸能人みたいだね。いつの間にか2本目を咥えていて、あまり熟れていない手つきでジッポライターに火をつけた。ジッポライターは見栄のためなのかどうかは知らないが、買ったばかりだった。

あとはそうね、マナーとも関連しているけど、使い所のない知性の暴走といったところかしらね。芸術家のパトロンとして囲い込んで、誰が最も優れた才能を見出だせるかでも争っていた。これは現代における推し活と似てるかもしれないわね。そしてそれらの批評を如何に鋭く展開できるか……自分たちの審美眼こそが優れてるんだって、それを誇示するかのように言い争いが耐えなかった。

それで流血沙汰、つまり決闘に帰結するわけだね。芸術の話になったせいなのか、ロックを愛してやまない男は少し身を乗り出したようだった。それまでくらやみを宿していたその瞳が少しだけ灯ったような気がしたが、他の2人は互いの顔を見もせず会話をしているので誰にも気が付かれなかった。

そう、でもそれって……。スマホの画面を人差し指で雑に彈きながら続けた。何かをスクロールして読んでいるのか、またはゲームをしているのかがわからない。お金もルッキズムも「あって当たり前」、言葉遣いの些細なミスを小突きあって、誰かを社会的に破滅させるまで追いかけ回す。自分の推しを批評したり、あるいはマウントを取り合う。これってイーロン・マスクのXの中でずっと行われていることじゃないの。

すると予定通りの時刻に、いつ聴いても聴き慣れない大音量の時報が鳴り響いた。何処から調達したのか分からない調子外れなBGMが、あらゆる種類の気持ちを幻滅させる。それまで気分が悪かったことすら忘れられるが、新しい気分の悪さで上書きされる。だが3人はそれを無視した。会話を辞められないのではなくて、単に休憩時間を守れないだけなのだ。

巨漢の男がいつもの寝ぼけた目つきで、3本目に火をつけてまもなくものすごい量の煙を吐き出した。肺活量が常人の3倍はあるのだ。煙草は早くも、1/3ほど燃え尽きている気がする。そのUHIが実現して、人類が働かなくていいお貴族様になった後の世界、それはイーロンのXでシミュレーションしてるってわけですね。俺らはイーロンの手のひらってわけだ!!

しかし、それは一体なんのために……。ふいに喫煙所のドアの中心から衝撃音が走った。壁を伝って天井や床まで緊張感も走った気がしたが、3人はひとつも緊張していなかった。しかし誰かから、長過ぎる休憩に反感を買われているのだ。着席に時間差があってもそれがどんな影響があると言えようか。連綿と続く業務の数センチ先に手が届くだけの話であって、原因療法にはなり得ない。やった分だけ尊厳が損なわれていくだけだ。

陰謀論ね。そうかもしれない。意味があるとしたらこれはなんだ。モルモット化したユーザーを利用した実験場なのか、それとも来たるべきシンギュラリティへ向けた避難訓練なのか…。あるいは人類統括を目的とした完全知的人口生命体Grokの誕生でも目指しているのか。今起こっていることの正体がわからない。何かが引っかかる。

巨漢の男が短くなって、なくなったも等しい煙草を、例のどす黒い灰皿に押し付けた。指が熱くはないのだろうか。3人は特に示し合わせもせず扉を開けて順番に部屋からでていった。


関連

「依頼メールを次々処理する男」

「寝ぼけた目つきをする巨漢の男」

「資料室で書類をまとめる女」


「すだれを求めている女」「金属に惹かれている男」

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floater 読んでくれてありがとう