29 華北分離は、南京政府の通貨改革で華北から銀を収奪したことが主な原因
華北分離というと、日本の都合で満州国と中華民国の国境に非武装地帯や緩衝地帯を設置し分離工作したことが原因のように説明されるが、そんな単純な話ではない。
中国の歴史の中で、南京に首都をおいた王朝で華北を統治できたのは、明の洪武帝の一度だけだ。蒋介石は、北京を北平に、直隷省を河北省に名称を変更し、華北の人々のプライドを傷つけた。もともと華北地方は南京政府に対する忠誠心が低く、南京政府が推し進めた通貨改革で、華北分離独立の動きに火がついた。
1928年南京政府の蒋介石が北京入城で北伐完成した後も最大の内戦である中原の戦いが1930年起き、翌年第5次広東政府が立ち上がったように、南京政府によって中国が統一されたとは認めがたい状態であった。
中国統一の実体は、議会や地方の統治機構をもたない南京政府が、各省の軍閥の将軍たちを、形だけ国民革命軍の方面司令官に任命しただけのことである。満州の張学良も同様である。
1933年5月に締結された塘沽協定では、中国軍は延慶、昌平、高麗営、順義、通州、香河、宝坻、林亭口、寧河、蘆台を通する線以西及以南の地区に一律に撤退し、今後、同線を越えて前進してはならないとされ、中国軍が駐屯できない非武装地帯が設定された。汪兆銘は協定受け入れに尽力したが、反日中国人から銃撃され、3発弾を受け、重傷を負った。
最初の華北分離政府は、1933年6月、元北京政府関係者を活用するため、蒋介石は非武装地帯とその以西、以南の緩衝地帯に北平政務整理委員会を設置し、黄 郛(こう ふ)を委員長に任命した。河北、チャハル、山東、山西、綏遠5省北平(北京)天津2市を統治した。
1935年6月の天津軍は梅津・何応欽協定で、北平や天津を含む緩衝地帯からも国民革命軍の撤退を求めたが、宋哲元(馮玉祥の元部下)が指揮する第29軍は、もとは馮玉祥の国民軍であり、軍閥ということで緩衝地帯から撤退しなかった。すると関東軍(奉天特務機関長土肥原少将)は土肥原秦徳純協定で内蒙古チャハルからの宋哲元軍の撤退を要求した。南京政府は宋哲元をチャハル省主席から罷免したが、第29軍はチャハル省から全軍は撤退しなかった。結局、中国側はいろいろ理由をつけて、非武装地帯を除く河北省、北平や天津、山東、山西、チャハルの緩衝地帯に宋哲元の29軍を温存したわけである。
1935年11月、蒋介石は英国の支援のもとで法幣発行し、中国国内で流通している銀貨を新紙幣に強制的に交換させた。通貨を統一するという建前であるが、その銀を国際市場で売却し蒋介石らは巨額の富を得た。これにより蒋介石一族(浙江財閥、特に孔祥熙、宋三姉妹の長女宋靄齢(そうあいれい)の夫)は私腹を肥やした。
北平(北京)、天津では、通貨改革は南京政府、浙江財閥による銀の収奪と考え、猛反発から農民の蜂起がおきた。北伐で蒋介石に敗れ、天津に逃れていた元北京政府関係者らが、この期に乗じて、華北を南京政府から分離独立しようと考えたとしても不思議ではない。しかも幸いなことに、華北に非武装地帯、緩衝地帯が設定され、分離運動が国民革命軍に鎮圧される懸念がなくなった。
呉佩孚の参謀だった白堅武など元北京政府関係者による自治政府を目指す動きが高まり、1935年11月非武装地帯である冀東地区の通州市(北平市の東隣)で冀東防共自治政府((きとうぼうきょう)(殷汝耕を委員長とする冀東防共委員会)が、関東軍土肥原特務機関長と南京国民政府の同意のもとで設立された。(写真はウィキペディアから)
(ただし、南京国民政府の同意は、続いて発足する北平(北京)の冀察政務委員会への合流が前提の同意であったが、殷汝耕は合流を拒んだ。)
蒋介石は、北平政務整理委員会を解散し、第29軍の司令官宋哲元を委員長に任命し、12月に北平(北京)に冀察政務委員会を設置し、緩衝地帯である河北省、チャハル省を受け持たせた。
冀東防共自治政府は、中華民国が定めた日本製品に対する高い関税を半分の税率に変更したため、日本からの物資が大量に入り、それを域外移出することにより経済的繁栄をし、一時は東洋のデンマークなどと言われた。一方日本の輸入品が通州経由で流れ込み、蒋介石国民党の関税収入が激減したので、関税収入を鉄道借款の担保にしていた英米は怒った。英米が扇動したのか、12月に北平(北京)で大規模な学生の反日デモが発生した。
しかし残念なことに関東軍の山海関特務機関が冀東防共自治政府を、麻薬等の密輸の隠れ蓑に利用したため、自治政府は当初の目的と違う姿に変わってしまった。
1937年7月、北平(北京)には冀察政務委員会の宋哲元第29軍が駐屯していた。(そのほかに、義和団事件の北京議定書に基づき、北京には日本だけでなく、英米仏伊の軍隊も駐屯していた。)
1937年7月7日の盧溝橋事件後、関東軍による誤爆や宋哲元の第29軍が攻め込んでくるというデマから7月29日には、冀東防共自治政府保安隊が反乱を起こし、通州事件が発生、特務機関は細木機関長以下殆ど殉職、領警署員全滅、城内の日本人居留民のうち250名余りの老若男女が殺害された。委員長の殷汝耕は保安隊に捕らえられ、宋哲元に引き渡されそうになったが、脱出し、北平に潜伏した。
天津軍(8月末には北支那方面軍に編入される)は、8月北平(北京)、通州を占領、冀東防共自治政府は8月9日になって殷汝耕に代わって池宗墨が政務長官に就任し、業務を再開した。
一方、冀察政務委員会は8月19日宋哲元が北平(北京)から去り、解散する。
1937年12月北京(このとき北平市の呼称が日本によって正式に北京市に戻された。)では、王克敏を首班とする中華民国臨時政府が、北支那方面軍の支援のもとで成立し、冀東防共自治政府は翌年1月吸収された。
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