見出し画像

料理の存在論、そしてバーチャル化へ


1. 経験としての料理:素材の集合から出来事へ

 料理とは何か。
 この問いを存在論的にたどると、料理は単なる「物」ではなく、「出来事」として立ち現れる存在者である、という理解に行き着く。野菜や肉といった素材は、それ自体ではまだ料理ではない。それらが切られ、加熱され、盛り付けられ、そして食べられていく一連の流れの中で、はじめて「料理」というまとまりが現れる。
 しかも、その料理は、皿の上に静止しているわけではない。食べられるごとに崩れ、やがて消えていく。さらに言えば、私たちは炒め物を食べているようでいて、実際にはキャベツや肉といった個々の具材を口に運んでいるにすぎない。それでもなお「炒め物を食べた」と言いうるのは、味や香り、食卓の状況といった関係の束が、一つの経験として統合されているからである。料理とは、素材の集合ではなく、経験の単位なのだろう。

2. 変質する出来事:AIとSNSがもたらす情報

 こうした観点に立つと、近年の変化もまた別様に見えてくる。
 たとえば、献立をAIに任せるという実践である。何を作るかという出発点は、従来、冷蔵庫の中身や身体の調子、季節感といった具体的な状況から立ち上がっていた。それがいまや、データとアルゴリズムによって提示されるようになりつつある。これは料理の流れの起点が、身体や環境から情報空間へと移動することを意味する。たしかに負担からの「解放」ではあるが、同時に、料理という出来事への関わり方が一段階、間接的になることでもある。
 また、SNSにおける「映え」の重視も見逃せない。料理は本来、食べられることで消えていく出来事であったはずだが、写真に撮られることで保存され、共有されるイメージへと変換される。ここでは味覚よりも視覚が前面に出て、料理は「食べるもの」から「見るもの」へと重心を移しつつある。

3. 料理の二重性:情報空間と身体的現実の交差

 このように見てくると、料理は、栄養を摂取するための手段というよりも、人間が世界と関わるための出来事の形式であるように思われる。 そして現在、その出来事は、AIによる起点の外部化と、SNSによる終点のイメージ(視覚)化によって、ゆるやかに変質しつつある。

 それでもなお、料理は最終的には食べられなければならない。
 口に運ばれ、味わわれ、消えていくという過程を完全に免れることはできない。その意味で、料理はどこまでも現実に根ざしながら、同時に情報や記憶へと広がっていく、不思議な二重性を帯びた存在者であり続けている。


いいなと思ったら応援しよう!