スキが少ないは、不安がらなくていい
少し前に、「スキが少ないのは、悪い記事か」という記事を書いた。
あれから、もっと書いた。数えてみたら、もうすぐ百本になる。毎日、数字を見てきた。どの記事が読まれて、どの記事が読まれないか。どれにスキがついて、どれにつかないか。
それだけ続けると、あの頃よりも、はっきり言えることがある。
スキが少ない記事は、ダメな記事じゃない。
それどころか、俺は、スキが少ないと、安心することすら、ある。
今日は、その話をする。
スキの数は、純度のメーターだ
入口を広くした記事は、読まれる。多くの人が当てはまる話、わかりやすい切り口、共感しやすいテーマ。そういう記事は、ビューも伸びるし、スキもつきやすい。
逆に、入口を狭くして、深く掘った記事は、読まれない。スキも、少ない。自分の、ごく個人的な経験。誰にでも当てはまるわけじゃない、偏った話。そういう記事は、刺さる人が、そもそも少ない。
でも、最近はスキが少ない時、こう思う。
「ああ、今回は、誰にも合わせず、薄めずに、本当に言いたいことを、言い切れた」と。
スキの数は、たぶん、「どれだけ多くの人に当てたか」のメーターだ。だとしたら、スキが少ないのは、「どれだけ自分を薄めなかったか」のメーターでもある。
多くの人に当てようとすると、言葉は、丸くなる。角を削って、誰にでも届く形にする。その過程で、本当に言いたかった、尖った部分が、削れていく。
スキが少ない記事は、その尖りを、削らなかった記事だ。だから、安心する。今回も、自分を、裏切らずに書けた、と。
広い記事は入口で、本体は、狭いほうだ
じゃあ、広い記事は書かないのか、というと、そうじゃない。
俺は、両方書く。広く、読まれやすい記事も書くし、狭く、深い記事も書く。
なぜか。
広い記事は、入口なんだ。
多くの人に、まず気づいてもらうための、扉。そして、本当に残したいのは、たぶん、スキの少ない、狭くて深いほう。
広い記事で来てくれた人の、何人かが、狭い記事まで辿り着いてくれる。そして、その狭い記事のほうを、何度も読み返してくれる人が、ほんのひと握りいる。
俺が一番うれしいのは、広い記事に千個のスキがつくことじゃない。狭い記事を、たった一人が、何度も読み返してくれることだ。
数字は、出さない
こう書くと、思う人がいるかもしれない。「で、お前の数字は、どうなんだ」と。
正直、数字を出せば、この記事の説得力は、上がるかもしれない。「これだけ結果を出した。だからこう言っている」となれば、言葉は、信じてもらいやすくなる。
でも、出さないことにした。
理由は、二つ。
一つは、単純な矛盾だ。「数字にこだわるな」と言いながら、自分の数字を見せるのは、結局、こだわっている。
もう一つが、本当の理由。数字を見せると、人は、俺の言葉そのものじゃなく、数字を理由に、俺を信じる。「数字を持っている人が言うなら、正しいんだろう」と。
それは、肩書きと、同じだ。
俺は前に、肩書きのない自分の言葉は安い、という話を書いた。でも、安くても、肩書きを借りたくなかった。数字も、同じだ。数字という肩書きで、言葉を信じさせたくない。
俺は、言葉そのもので、届けたい。だから、数字は、書かない。
それでも、俺はこの方法を選ぶ
最後に、正直なことを書く。
もし仮にnoteで、数字だけを伸ばしたいなら、俺のやり方は、間違っている。
もっと効率のいい方法は、いくらでもある。広い記事だけを、毎日量産すればいい。読まれるテーマを狙えばいい。狭くて深い、スキのつかない記事なんて、書かなければいい。
そういうやり方も、ある。それを否定はしない。
でも、俺は、選ばない。
上辺の評価で増えた数字より、たった一人が、何度も読み返してくれる、その事実のほうが、俺には、ずっと価値があるから。
——たった一人に、何度も読み返してもらえること。それが、書き手にとって、どれだけの灯りになるか。
俺は好きな書き手にいつまでも残って欲しい。
そんな思い出これを書いた。
良かったら、読んで欲しい
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コーヒー代にします。
あ、溜まったら焼肉に行かせてください....!!