肩書きのない俺の言葉は、安い
同じ言葉なのに、なぜ俺が言うと軽いのか
ひとつ、実験させてほしい。
これから、ある一つの言葉を見せる。 それを読んで、君がどう感じるか、正直に観察してみてほしい。
まず、こいつが言った
「努力は、才能のある人間だけに許された娯楽だ」
これを言ったのは、こういう男だ。
躁鬱、ADHD、ASD。生活保護で生きている。奨学金が残っていて、ブラックリスト入り、ギャンブル依存、酒好き。なんの肩書きもない、無名の人間、そう俺だ。
……どう感じた? 「努力から逃げた奴の、言い訳だな」と、少しでも思わなかったか。
次に、こいつが言った
「努力は、才能のある人間だけに許された娯楽だ」
まったく同じ、一文字も違わない言葉だ。 ただし今度は、こういう人物が言ったとする。
国立大学の、教授。専門は心理学。著書多数。
……どうだろう。 さっきより、少しだけ「一理あるな」と聞こえなかったか。「才能と環境の話だな、示唆に富む」と。
同じ言葉だ。中身は、一文字も変わっていない。 変わったのは、それを言った人間の、肩書きだけだ。
君は、中身を見ていない
もし、君の中で、二つの印象が少しでも違ったなら。 君はさっき、言葉の中身じゃなく、容器で、価値を判断した。
責めてるんじゃない。これは、誰でもやっている。俺もやる。
肩書きは、便利だからだ。 世の中には、言葉が多すぎる。全部の中身を、ゼロから吟味する時間なんて、誰にもない。だから脳は、近道を使う。「教授が言った」「フォロワー100万人が言った」——その肩書きを、"中身を検証しなくていい印"として使う。
肩書きで判断するのは、バカだからじゃない。 有限な脳が、無限の言葉を捌くための、合理的なズルなんだ。
でも、その近道は、罠でもある
便利な近道は、同時に、罠になる。
肩書きは、「中身が正しい保証」じゃない。 なのに、いつのまにか「中身を見なくていい言い訳」に化ける。
立派な肩書きの人間が、空っぽなことを言っても、肩書きが、君の検証する目を曇らせる。 逆に、肩書きのない人間が、本物を言っても——その言葉は、検証される前に、入口で弾かれる。「お前が言うな」で、終わる。
SNSなら、もっと露骨だ。フォロワーの多い人間の言葉は、それだけで「すごいこと」に見える。中身を読む前に、数字が「これは価値がある」と告げてくる。
これは、俺の話だ
正直に書く。これは、世の中への批判じゃない。俺の、立ち位置の話だ。
俺には、肩書きがない。フォロワーも、多くない。 だから、俺がどれだけ本物の言葉を書いても、それは「検証する価値がある」と思ってすら、もらえないことがある。中身以前の、入口で、弾かれる。
最初の実験で、君が無名の俺の言葉を「言い訳」と感じたとしたら——それが、毎日、俺の言葉に起きていることだ。
だから俺は、画像を作る。タイトルを練る。読みやすく、行間をあける。 これは、媚びじゃない。 肩書きという"通行証"を持たない人間が、せめて中身を読んでもらう場所まで、自力で辿り着くための、戦いなんだ。
最後に
「肩書きで言葉を測るな」とは、言わない。 それは、誰にもやめられない。俺だって、やる。
ただ、ひとつだけ。
さっき君が、同じ言葉を、容器で測り分けた——あの一瞬のことだけ、覚えておいてほしい。
君が今日、聞き流したどこかの無名の言葉の中に、 本当は、聞くべきものが、あったかもしれないから。
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コーヒー代にします。
あ、溜まったら焼肉に行かせてください....!!