見出し画像

テイク・ゼロ 『TAKE 0 ― プロローグ』

〜あらすじ〜
雪に閉ざされた山奥の教会で、弦楽四重奏の録音合宿が始まった。

ベートーヴェン作品131――たった四人で四十分を弾き切る、晩年の傑作。

だが初日の夜、停電の闇の中でプロデューサーが転落死する。

事故か、殺人か。

翌朝、吹雪を歩いてきた刑事が聞き取りを始めると、四人の証言は微妙に食い違い、やがて「私」という語り手そのものに矛盾が生じていく。

音は嘘をつかない。嘘をつくのは、音の"並べ方"だ。


《作品131》について

この物語に登場する「作品131」は、ベートーヴェンが晩年に書いた弦楽四重奏曲です。ヴァイオリン2本、ヴィオラ1本、チェロ1本——たった4人で、約40分を休みなく演奏します。

冒頭はフーガ(同じ旋律が追いかけ合う形式)で始まり、7つの楽章が切れ目なく続きます。知らなくても読めますが、知っていると少しだけ、物語の手触りが変わるかもしれません。


この記録は、誰かの手を経て作られた。

あの夜のことを、できるだけ正確に伝えるために。

嬰ハ短調。ベートーヴェンが晩年に書いた弦楽四重奏曲——作品131。七つの楽章が、切れ目なく繋がっていく。私たちは、あの曲を録り直すはずだった。

レーベルの"看板になる一枚"。プロデューサーの鶴見は、そう言っていた。山奥の教会を借り切って、三日間の合宿。外界から遮断された空間で、音だけに集中する。理想的な環境だった——雪が降り始めるまでは。

私はすべてを聞いていた。

演奏の音。機材のノイズ。誰かのため息。そして、あの夜に起きたこと。録音というのは、そういうものだ。マイクは選ばない。美しい音も、醜い音も、等しく拾い上げる。

あの教会には、六人がいた。私を含めて。

普段は管理人が通いで来ているらしい。初日の夕方、「明日また来ます」と言って麓に帰った。翌朝には戻ってくるはずだった。でも吹雪が道を閉ざした。電話も通じない。結局、六人だけが残された。

作品131は、嬰ハ短調で始まり、嬰ハ短調で終わる。

途中で長調に転じる瞬間もある。光が差すような、束の間の解放。でも最後には、また短調に戻る。あの夜も、そうだった。一瞬だけ、何かが違う方向に進む可能性があった。でも結局、私たちは元の場所に戻された。いや——戻されたのではない。落ちたのだ。

鶴見は死んだ。教会の二階、バルコニーから。真下のホールの床に、仰向けで倒れていた。

事故か。自殺か。それとも——。

刑事は、その答えを探しに来た。吹雪の中を、一人で歩いて。

私はこの記録を、できるだけ正確に作った。何が起きたのか。誰が何を言ったのか。誰が何を隠したのか。すべてを、音として残してある。あとは、聞く人が判断すればいい。

ただ、一つだけ。

音は正直だ。嘘をつかない。嘘をつくのは、音の"並べ方"だ。

あの停電がなければ、すべては違っていた。

九時半近くだったと思う。教会の明かりが、一斉に消えた。暗闇の中で、何かが動いた。何かが、落ちた。そして私たちは、二度と元には戻れなくなった。

【TAKE 1へ続く】



いいなと思ったら応援しよう!

音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。