テイク・ゼロ 『TAKE 3 ― 動機』
昼食は、誰も食べなかった。
食堂のテーブルには、凛が作った簡単なサンドイッチが並んでいたが、手をつけたのは戸川だけだった。彼は黙々とパンを噛み、時折コーヒーを啜りながら、手帳に何かを書き込んでいた。
私たちは、それぞれの場所に散らばっていた。誰も、誰かに近づこうとしなかった。
律は窓際に立って外を見ている。腕を組んで、微動だにしない。ガラスに映る彼の顔は、どこか遠くを見ているようだった。
翠は椅子に座ったまま、膝の上で手を組んでいる。時折、視線が時計に向く。また床に戻る。その繰り返しだった。
慎一はストーブの近くで、火の具合を確かめるふりをしている。でも、薪を足す必要はない。ただ、何かをしていないと落ち着かないのだろう。
小峰は——コントロールルームへの階段の前にいた。いつも同じ場所だ。機材のそばから離れない。
午後一時を少し過ぎた頃、戸川が立ち上がった。
「藤森さん、少しいいですか」
凛が顔を上げた。表情は変わらない。いつもの冷静さだ。
「はい」
二人が控室に向かった。残された私たちは、黙ってその背中を見送った。
控室は、相変わらず薄暗かった。
窓から差し込む光は弱く、壁に影を落としている。戸川はテーブルにスマートフォンを置いた。録音のランプが点灯する。赤い光が、薄暗い部屋の中でぼんやりと浮かんでいた。
「録音を始めます。よろしいですか」
凛は小さく頷いた。椅子に浅く腰掛け、背筋を伸ばしている。三十五歳。このカルテットでは最年少だ。でも、一番冷静なのは彼女かもしれない。
「停電が起きたとき、藤森さんはどこにいましたか」
「食堂です。一人でいました」
「何を?」
「温かいものを飲んでいました。少し休憩したくて」
戸川はメモを取る。ペンがノートの上を走る音が、静かな部屋に響いた。
「停電が起きて、どうしましたか」
「何も見えなくなりました。そのままじっとしていました」
「物音は」
凛は一瞬、間を置いた。記憶を辿っているようだった。
「静かだった……と思います。ただ、あの状況では自信が持てません」
戸川は頷いた。
「鶴見さんとの関係を教えてください」
凛の表情が、微かに硬くなった。
「プロデューサーとしての付き合いです」
「揉め事はありましたか」
「……ありました」
凛は視線を落とした。手が、膝の上で握りしめられる。指先が冷たい。いつものことだ。
「私がこのカルテットのビジネス面を担当しています。スケジュール、契約、経理。その関係で、鶴見さんとは……契約条件について、意見が合わないことがありました」
「ビジネス担当?」
「昔は律さんがやっていたそうです。でも、私が入ってから引き継ぎました。律さんは演奏に専念したいと言っていたので」
戸川はメモを取り続ける。
「具体的にはどんな問題でしたか」
「次のアルバムの印税率です。レーベル側の提示が低すぎると、私は思っていました。他にも、録音のスケジュールが一方的に決められることへの不満もありました」
「それで、昨日も何か」
「昨日は……私はあまり口を出しませんでした。編集の話で、律さんと翠さんが鶴見さんに反発していたので」
戸川は手帳をめくった。
「昨日、鶴見さんに呼ばれたと聞きましたが」
凛の手が、微かに動いた。指先が膝を掴む。
「……誰から聞きましたか」
「皆さんの供述を総合すると、そういう話が出てきました」
凛は窓の外を見た。雪は、まだ降っている。白い粒が、灰色の空から舞い落ちている。
「呼ばれました」
「何の話でしたか」
沈黙。
凛の横顔は、何かを考えているようだった。話すべきか、話すべきでないか。
「……今は、お答えできません」
戸川は黙って待った。
「事件とは関係のない話です。でも、他のメンバーにはまだ話していないので……今ここで言うわけにはいきません」
戸川は何かを書き留めた。深追いはしなかった。
「十五年前のこと、何かご存知ですか」
凛は少し考えた。
「私が加入したのが、ちょうどその頃です。小峰さんが辞められた後、翠さんと同時期に入りました」
「小峰さんが、第2ヴァイオリンを」
「ええ。今の翠さんの席です」
「辞めた経緯は聞いていますか」
凛は首を横に振った。
「詳しくは知りません。私が入った時には、もう終わった話でした。誰も触れようとしなかったので」
「触れようとしなかった?」
「律さんも、慎一さんも。小峰さんのことは……話題にしてはいけない空気がありました。今もそうです」
戸川は手帳を閉じた。
「分かりました。ありがとうございます」
凛は立ち上がった。扉に向かいながら、一度だけ振り返った。
「刑事さん」
「はい」
「鶴見さんとの話……いずれ、ちゃんと説明します」
戸川は何も言わなかった。凛は静かに扉を開けて、出ていった。
次は、小峰だった。
戸川がホールに戻ると、小峰はコントロールルームへの階段の前に立っていた。いつも同じ場所だ。機材のそばから離れない。まるで、そこが自分の居場所だと決めているように。
「小峰さん、お願いできますか。これで皆さん全員からお話を聞けます」
小峰は頷いた。無言で控室に向かう。その背中は、どこか疲れているように見えた。五十歳。創設メンバーとして、この音楽と関わってきた人間だ。
控室に入ると、小峰は椅子に静かに座った。背筋は伸びているが、力みはない。長年、座り続ける仕事をしてきた人間の姿勢だ。
戸川がスマートフォンの録音を始める。
「録音を始めます」
小峰は頷いた。言葉は少ない。
「停電が起きたとき、小峰さんはどこにいましたか」
「コントロールルームです」
「お一人で?」
「はい」
「何をしていましたか」
「機材の確認を。録音データのバックアップを取っていました」
声は平坦だ。感情を抑えている、というより、そもそも感情を表に出さない人間なのだろう。
戸川はメモを取る。
「停電が起きて、どうしましたか」
「動けませんでした。暗闇で、何も見えなかったので」
「非常灯が点くまで?」
「そうです」
「物音は」
「……分かりません。風の音が大きくて。窓が鳴っていたので」
戸川は頷いた。
「鶴見さんとの関係を教えてください」
小峰の表情は変わらなかった。
「仕事上の付き合いです」
「皆川さんから聞きました。小峰さんは昔、このカルテットで弾いていたそうですね」
沈黙が落ちた。
小峰の目が、微かに揺れた。それから、静かに頷いた。
「……ええ。十五年前まで」
「なぜ辞められたんですか」
「手を怪我して」
小峰は左手を見た。特に傷は見えない。でも、何かを思い出しているような目だった。かつてそこにあったもの。今はもうないもの。
「カルテットを辞めて、今の仕事に?」
「すぐに、というわけではありませんでした。しばらくは……何もできなかった」
「その後、エンジニアに」
「演奏はできなくなっても、音のそばにいたかったので」
小峰の声は、初めて少しだけ揺れた。でも、すぐに元の平坦さに戻った。
戸川は間を置いてから、聞いた。
「辞めたときは、円満だったんですか」
長い沈黙。
時計の秒針が動く音が、やけに大きく聞こえた。
「……どうでしょう」
小峰の声は平坦だった。感情を出さない。何かを飲み込んでいる空気がある。
戸川は追及しなかった。
「今回の録音に参加することになったのは、どういう経緯で」
「鶴見さんから依頼がありました。このカルテットの音を一番よく知っているから、と」
「それを聞いて、どう思いましたか」
「……仕事ですから」
それだけだった。
戸川は手帳を閉じた。
「分かりました。ありがとうございます」
小峰は立ち上がった。扉に向かう。
「小峰さん」
小峰が振り返った。その目は静かだった。
「円満ではなかった——そう聞いています」
小峰の表情は変わらなかった。何も言わずに、静かに扉を開けて、出ていった。
午後二時半。
戸川がホールに戻ると、全員がいた。
律は壁際に立っている。腕を組んで、戸川を見ている。目つきは鋭いが、どこか警戒している色もある。
翠は椅子に座っている。背筋は伸びているが、肩が微かに上がっている。緊張しているのだろう。
慎一はストーブの近くで、落ち着かない様子だった。手が、何度も腰のあたりに行く。
凛は窓際に立っている。静かに全員を見ている。
小峰だけが、別の窓際にいた。外を見ている。振り返らない。
「皆さん、まとめて確認したいことがあります」
戸川の声が、ホールに響いた。高い天井に反射して、残響が長く尾を引いた。
全員の視線が、彼に集まった。
「先ほど、十五年前にメンバーが辞めたという話が出ました」
戸川は全員を見回した。
「個別にお話を聞いて、少し状況が見えてきました。小峰さんが第2ヴァイオリンだった。そして辞めた経緯は——誰も話したがらない」
沈黙が落ちた。
私は、その空気を覚えている。
律の腕が、微かに硬くなった。視線が逸れる。窓の外を見るふりをして、戸川から目を逸らしている。左顎に、無意識に手を当てた。
翠が床を見た。肩が、わずかに上がった。唇が、微かに震えている。
慎一が腰に手を当てた。何かを堪えるような仕草だった。顔が青い。
凛だけが、静かに全員を見ていた。小峰が辞めたことは知っている。でも、なぜ辞めたのかは知らない。
小峰は——動かなかった。振り返らない。背中が、何かを拒絶しているように見えた。
「なぜ辞められたんですか」
沈黙。
誰も、答えなかった。
戸川は待った。一秒。二秒。三秒。
沈黙が重くなる。空気が圧し潰されるように、密度を増していく。
律が口を開きかけた。でも、何も言わなかった。唇が動いて、止まった。
翠が顔を上げた。視線が、一瞬だけ小峰に向いた。そして、床に戻った。
「私が——」
翠の声だった。
全員が、彼女を見た。
翠は立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。
「皆さんご存知の通り、私は……小峰さんの後を継いで、このカルテットに入りました」
声が、かすかに震えていた。
「小峰さん」
翠が、小峰の方を向いた。小峰は振り返らない。窓の外を見たままだ。雪が降り続けている。
振り向いてほしかった。でも、振り向かないと分かっていた。
「あなたの席に座るの、怖かった」
小峰は何も言わなかった。
「私がこのカルテットに入った時、もう小峰さんはいなかった。でも……皆が何かを避けているのは、分かりました。触れてはいけない話題があるって。名前を出してはいけない人がいるって」
戸川が口を開いた。
「何を避けていたんですか」
翠は一瞬、律を見た。律は視線を逸らした。壁を見ている。
「追い出したこと」
言葉が、ホールに落ちた。残響が、高い天井に吸い込まれていく。
「翠」
律の声だった。低い。制止の響きがある。
「もう隠しても意味がないでしょう」
翠は律を見た。目が据わっている。覚悟を決めた人間の目だった。
律は何も言わなかった。壁に背をつけて、視線を床に落とした。
戸川は慎一に向き直った。
「堂本さん」
慎一がびくりとした。視線が泳いでいる。
「さっきは『話せない』とおっしゃった。今なら話せますか」
慎一は黙り込んだ。腰に手を当てている。長時間、中腰のような姿勢で弾き続けると、どうしても腰に来る。血の気が引いている。
「俺は……」
声が絞り出される。喉が詰まっているような声だった。
「止められなかった」
律が「慎一」と言った。短く、鋭い声だった。
「お前が言い出したんだ」
慎一は律を見た。目が赤い。昨夜からずっと眠れていないのだろう。でも、それだけではない。何か別のものが、目の奥にある。
「『もっと合わせられる第2が必要だ』って。お前がそう言ったんだ。十五年前。俺たちがこのカルテットを始めて、五年目のことだった」
律の顔が強張った。
「当時、俺たちは売れ始めていた。でも、批評家からは『アンサンブルが甘い』と言われていた。お前はそれが許せなかった。自分のテンポについてこられない第2が、許せなかった」
慎一の声が震えていた。
「お前は鶴見さんに相談した。『メンバーを替えたい』と。鶴見さんは同意した。レーベルがお前を支持するなら、俺たちに選択肢はないって」
「慎一、もういい」
律の声には、諦めがにじんでいた。でも、慎一は止まらなかった。
「俺は反対した。でも、律と鶴見さんが決めた後じゃ、もう遅かった」
慎一は言葉を切った。
「結局、何もできなかった」
凛が息を呑んだ。何かがあったことは感じていた。でも、こういうことだったのか。
「小峰さんは——」
慎一が絞り出すように言った。小峰の背中を見ながら。
「追い出されたんです。俺と——律と——鶴見さんに」
誰も、言葉を発しなかった。
長い、長い沈黙だった。
全員が固まっていた。誰も動かない。誰も口を開かない。
律は壁を背にして、視線を床に落としていた。腕を組んだまま、微動だにしない。その顔には何の表情もなかった。でも、それが逆に何かを物語っていた。
翠は唇を噛んでいた。自分が言い出したことの重さに、今さら気づいたような顔だった。肩が震えている。
慎一は腰に手を当てたまま、うつむいていた。白髪まじりの頭が、傾いている。十五年前のことが、今も彼を苦しめている。止められなかった。その後悔が、今も彼の中にある。
凛は——ただ、信じられないという顔をしていた。十五年間、一緒に弾いてきた律と慎一が、かつて一人の演奏家を追い出していた。
そして小峰は。
静かに窓の外を見ていた。
振り返らない。何も言わない。ただ、雪を見ている。
白い粒が、灰色の空から舞い落ちている。音もなく。絶え間なく。
戸川は、その沈黙を破らなかった。
手帳に何かを書き込んでいた。ペンが紙の上を走る音だけが、静かなホールに響いていた。
やがて、戸川は手帳を閉じた。
「分かりました」
その声は、ホールに吸い込まれていった。
「また後で、お話を聞かせてください。皆さん、しばらく休憩を」
誰も答えなかった。
戸川は踵を返して、控室の方へ歩いていった。その足音が遠ざかっていく。
残されたのは、五人だけだった。
律がようやく顔を上げた。でも、誰とも目を合わせなかった。壁から離れて、反対側の窓に向かって歩いていく。
翠は椅子に座り直した。肩が小さくなっている。何かを言いたそうに口を開いて——結局、何も言わなかった。
慎一は、ストーブの方へ歩いていった。薪を確かめるふりをして。でも、その手は震えていた。
凛は、しばらく立ち尽くしていた。それから、静かに食堂の方へ歩いていった。
そして小峰は。
ずっと窓の外を見ていた。
雪は、まだ降っていた。
この沈黙を、どう記録すればいいのか。私には分からなかった。
【TAKE 4へ続く】
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