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テイク・ゼロ 『TAKE 4 ― 録音』

私たちは、まだホールにいた。戸川が控室に入ってから、どれくらい経っただろう。

ストーブの火が、ぱちぱちと爆ぜている。外は雪。窓の向こうには、灰色の空しか見えない。

律は窓辺に立っていた。腕を組んで、誰とも話さない。

翠は椅子に座っている。時々、肩を回す。

慎一はストーブの近くにいた。右手を腰に当てて、火を見つめている。

凛は——静かに全員を見ていた。

そして小峰は。

コントロールルームへの階段の前にいた。いつも同じ場所だ。機材のそばから離れない。

しばらくして、戸川が戻ってきた。

「困りました」

全員の視線が、彼に向いた。

「まず、事故は考えにくい。手すりの高さからして、うっかり落ちるようなものではありません」

戸川は手帳を見た。

「自殺も——皆さんの証言を聞く限り、鶴見さんはそういう方ではなかったようですね」

律が顔を上げた。

「自殺するような人間じゃない。あの人は——最後まで戦うタイプだ」

戸川は頷いた。

「となると、残る可能性は一つです」

沈黙が落ちた。

「皆さんの証言を整理しました。停電が起きたとき、皆さんは全員、別々の場所にいた。折原さんは1番控室、皆川さんは2番控室、堂本さんはトイレ、藤森さんは食堂、小峰さんはコントロールルーム」

戸川は全員を見回した。

「誰も、誰かと一緒にいなかった。つまり——」

「誰にもアリバイがない」

沈黙が落ちた。

律が顎を上げた。腕を組んだまま、戸川を見返している。その目には、挑戦的な光があった。

翠が視線を逸らした。肩を小さくすぼめて、椅子の中で身を縮めている。

慎一は窓の外を見たままだった。右手が、また腰のあたりに伸びている。

凛は——静かに戸川を見ていた。表情は読み取れない。でも、その目は何かを考えているようだった。

そして小峰は。

コントロールルームへの階段の前に立ったまま、誰の顔も見ていなかった。

小峰が口を開いた。

「……録音データがあります」

戸川が振り返った。

「昨夜はずっと録音を回していました。演奏だけでなく、ホールの音も拾っています」

小峰の声は静かだった。

「ファイルには時刻が記録されています。何時何分に何が起きたか、分単位で分かる。お役に立てるかもしれません」

戸川の目が光った。

「聞かせていただけますか」

「……分かりました」

小峰は無言で階段を上り始めた。戸川がその後を追う。


コントロールルームは、教会の二階にあった。

もともとは聖歌隊のための小部屋だったらしい。今は機材で埋め尽くされている。ミキサー、モニター、レコーダー。壁には吸音材が貼られているが、古い教会の構造では完全には遮断できない。風が強い日は、窓の振動が伝わってくる。

窓から見下ろすと、メインホールが一望できた。演奏者の動きを、ここから見守ることができる。

小峰は慣れた手つきで機材の電源を入れていった。モニターに波形が映る。スピーカーから、かすかなノイズが聞こえた。

「これが昨夜の録音です」

「全部、ですか」

「録音は大きく二種類あります」

小峰は画面を指した。

「一つは演奏のテイク。昨夜は二回録音しました。テイクごとにファイルが分かれています。演奏のテイク1は途中で止まりましたが、テイク2は最後まで通りました」

「もう一つは?」

「ルーム録音です。演奏していない時間も、ホールのマイクは回していました」

「ルーム録音も録っておく必要があるんですか」

「部屋の響きを残しておくと、編集の時に繋ぎ目が自然になります。あと——」

小峰は別のトラックを指した。

「セッション記録用に、コントロールルームにも別のマイクを立てていました」

「何のために?」

「エンジニアの判断やコメントを残しておくと、後で編集する時に参考になります。昔からの癖です」

「録音が途切れたのは、正確には何時ですか」

「二十一時三十二分です。タイムコードに記録されています」

戸川は手帳に書き込んだ。二十年以上、この仕事をしてきた。数字を追うことは苦手ではない。だが、音楽のことは分からない。

「この曲は、どういう曲ですか」

「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲。作品131。七つの楽章を、休みなく続けて演奏します」

「休みなく?」

「アタッカと言います。楽章と楽章の間で止まらない。一度始めたら、約四十分間、止まれない」

戸川は眉をひそめた。

「止まらないのに、第三楽章で止まったと」

「テイク1では、そうです。テイク2は最後まで通りました」

「では、テイク1から聞かせてください」

小峰がマウスを操作した。波形が動き始める。

音楽が流れた。

低い音から始まった。這うような音。暗い、重い——でも、どこか引き込まれるような響きだった。

「フーガです」

小峰が言った。

「四つの声が、順番に同じ主題を歌う。追いかけっこのように」

戸川は頷いた。音楽のことは分からない。でも、四つの糸が絡み合っていく感覚は、なんとなく伝わった。

やがて、曲調が変わった。

暗く沈んでいた音楽が、急に明るくなる。テンポが上がり、弦が跳ねるように動き始めた。

「第二楽章。ニ長調」

だが、その「明るさ」には、どこか息苦しさがあった。走らされている。そんな印象を、戸川は受けた。

「テンポが速すぎる」

小峰がぼそりと言った。

「律さんが先に行きすぎている。翠さんが追いついていない」

戸川は小峰を見た。

「分かるんですか」

「……分かります」

小峰の目は、波形を見つめていた。かつて自分も弾いていた席。今は別の誰かが座っている席。

彼の指が、無意識にボリュームを上げた。第二ヴァイオリンの声が、少しだけ大きくなった。翠の音だ。小峰がかつて弾いていたパート。

戸川は、その仕草に気づいた。でも、何も言わなかった。

第三楽章に入った。短い。橋渡しのような音楽だった。ただ十一小節。深呼吸のように、次へ続いていく。

第三楽章の終わり近く。

音楽が、止まった。

「ここでテイク1は終わりです」

戸川は顔を上げた。

「止まった理由は?」

「律さんが最後の音を長く引き延ばしすぎたんです。翠さんが合わせられなかった」

「それで?」

「やり直しになりました」

「テイク2は?」

「最後まで通りました。聞きますか」

戸川は頷いた。

小峰がマウスを操作した。波形が動く。

第一楽章から第三楽章までは、先ほどと同じだった。だが今度は、止まらなかった。

第四楽章。イ長調。

空気が変わった。音楽が、歌い始めた。ゆったりとした呼吸。温かい光が差し込んだような感覚があった。

「この楽章が、作品の中心です」

小峰の声は、少しだけ柔らかくなっていた。

「傷口に当てたガーゼみたいに、優しい」

第五楽章。プレスト。

急にテンポが上がった。切れ味のあるフレーズが、矢継ぎ早に交錯する。笑っているようで、どこか神経質な音楽だった。

「この楽章は、精度が出ます。雑に弾くと、ひび割れた笑いのようになる」

第六楽章。アダージョ。

音楽が、一度黙った。次に落ちるために、深呼吸をするような音楽だった。暗い。重い。終楽章への助走。

そして第七楽章。嬰ハ短調に帰還する。

推進力はあるが、勝利の凱歌ではない。最初からここに落ちると決まっていた——そんな終わり方だった。

音楽が終わった。

「これがテイク2です」

小峰は言った。

戸川はメモを見た。

「演奏が終わったのは、何時頃ですか」

「七時四十分頃です」

「停電は九時半。二時間近く空いていますね」

「はい。演奏の後、少し話し合いをして、各自シャワーを浴びたり休憩したりしていました」

「その時間のルーム録音も聞かせてもらえますか」

「……分かりました」

小峰は別のファイルを開いた。

「ルーム録音は二時間以上あります。要点だけ聞きますか」

「お願いします」

小峰は録音を操作した。波形が素早く動く。

「まず、夕食の時間です。食堂の声がホールまで届いていたようで、断片的に録れています」

誰かの笑い声が聞こえた。律の声だ。でも、すぐに途切れた。

別の声が聞こえた。鶴見だ。

『編集で繋げば、止まってないように聞こえる。問題ない』

小峰の声。

『聞こえるだけでは——』

『君は裏方だ。演奏に口を出す立場じゃない』

沈黙が落ちた。食器の音だけが続いていた。

戸川は頷いた。

「これが、皆さんが証言していた夕食での言い争いですね」

「……はい」

小峰は波形を指さした。

「このあたりで、私はコントロールルームに戻りました。この後、鶴見さんが私を呼び止めたんです」

「聞かせてください」

小峰はトラックを切り替えた。

「コントロールルームの録音です」

鶴見の声が聞こえた。

『この仕事、いつまで続けるつもりだ』

小峰の声。

『……どういう意味ですか』

『次のアルバムからは、別のエンジニアに頼もうと思ってる。十五年前も、そういう話だっただろう?』

足音が遠ざかった。鶴見がバルコニーの方へ歩いていく音。

「この後、どうなりましたか」

「私はコントロールルームに戻りました。鶴見さんはバルコニーに残った」

小峰は波形を先に進めた。

「この後は特に何もありません」

戸川は頷いた。

「では、停電の直前を聞かせてください」

小峰が操作した。

「コントロールルームの録音です。停電の直前」

マウスのクリック音が聞こえた。機材を操作する音。

小峰の声が入っていた。「……マイナス六。問題ない」

「これが私の声です。レベルを確認していました」

小峰はトラックを切り替えた。

「次にルーム録音。同じ時間帯です」

足音が聞こえた。階段を上がる音。

「バルコニーの方から、足音が聞こえますね。誰かが上がってきたような……」

小峰は波形を見た。

「……分かりません。足音だけでは」

そして、録音が途切れた。

「ここで停電です」

戸川は頷いた。

「停電の時、あなたはここにいた。そして、誰か別の人がバルコニーへ上がっていった」

「……そうです」

「その足音が誰かは分からない」

「分かりません」

沈黙が流れた。

戸川は窓の外を見た。雪が降っている。

「小峰さん。録音エンジニアというのは、編集もするんですか」

「はい。クラシックでは、編集することもあります。何度も演奏して、一番いい部分を繋げる。継ぎ目が分からないように」

小峰の声は、淡々としていた。

戸川はメモを取った。

「録音のプロなんですね。何でも編集できる」

小峰は何も答えなかった。


階段を降りてくる足音が聞こえた。

戸川と小峰が、ホールに戻ってきた。

私は二人の顔を見た。戸川は何かを考え込んでいる。小峰は——いつも通り、何も読み取れない表情だった。

戸川は私たちを見回した。

「録音を聞かせてもらいました」

全員の視線が、戸川に向いた。

「停電の直前、小峰さんはコントロールルームにいました。録音にその声が入っています」

律が顔を上げた。

「つまり、小峰は——」

「容疑者から外れます。今のところは」

小峰は何も言わなかった。窓の外を見ていた。

私は、小峰の横顔を見た。

何かがあった。でも、今は言わない。言えない。


戸川はホールを歩き回りながら、メモを見ていた。

慎一が一人で、ストーブの近くにいた。火を見つめている。

「少しいいですか」

慎一が顔を上げた。

「……何を聞きたいんですか」

「さっきのお話の続きを」

戸川は隣に立った。

「藤森さんは15年前に加入した。皆川さんも同じ時期。ということは——チェロも変わってますよね?」

慎一の顔が、一瞬強張った。

慎一は火を見つめたまま、右手を腰に当てた。

「……ああ。あいつも辞めた」

「辞めた?」

「小峰が追い出された後、すぐに」

戸川は待った。

「あいつは俺と違って、筋を通したんだ」

慎一の声は、苦い。

「『こんなやり方でカルテットを続けるなら、俺は降りる』って。律にも鶴見にも、そう言って辞めていった」

「あなたは?」

「俺は——」

慎一は言葉を切った。

「俺は、何も言えなかった。止められなかったのに、残った。弾き続けた」

ストーブの火が、ぱちりと爆ぜた。

「最後のリハーサルの日——」

慎一は遠い目をしていた。

「あいつは律に向かって言ったんだ。『これがお前たちのやり方か』って。黙ってチェロをしまって、そのまま出て行った」

「止めなかったんですか」

「止めようとした。でも——」

慎一は首を振った。

「あいつは俺の方を見て、『お前はどうするんだ』って聞いた。俺は——何も答えられなかった」

戸川は黙って聞いていた。

「あいつは待ってたんだ。俺が何か言うのを。でも俺は——黙ったまま、楽器を持って座ってた」

「それで?」

「あいつは笑ったよ。苦い笑いだった。『そうか』って一言だけ言って、それきり」

慎一の声が、震えていた。

「十五年間、ずっと——あの『そうか』が耳に残ってる」

彼は顔を上げなかった。

戸川は何も言わなかった。

しばらくして、彼は慎一の肩に軽く触れ、離れていった。


夕方が近づいていた。

窓の外は、まだ雪が降っている。灰色の空は、少しずつ暗くなっていく。

戸川は全員の証言を整理していた。メモを何度も見返している。

律は窓辺に立ったままだった。時々、左顎に手を当てている。

翠は椅子で足を組み替えている。肩を回す。落ち着かない様子だった。

慎一はストーブの傍にいた。右手を腰に当てたまま、火を見つめている。

凛は——静かに座っていた。指先を膝の上で組んでいる。

そして小峰は。

コントロールルームへの階段の下に立っていた。誰とも話さず、窓の外を見ている。

「今日はこれくらいにしましょう」

戸川が言った。

「明日、もう一度お話を聞かせてください。細かい点を確認したいので」

誰も答えなかった。

戸川は踵を返して、控室の方へ歩いていった。

残されたのは、私たちだけだった。

雪は、まだ降っていた。

律が窓辺から離れた。誰とも目を合わせずに、控室の方へ歩いていく。その背中には、何かを抱え込んでいるような重さがあった。

翠が立ち上がった。肩を回しながら、律の後を追った。でも、何も言わなかった。

慎一はストーブの前から動かなかった。火を見つめている。右手は、まだ腰に当てられたまま。

凛が静かに立ち上がった。慎一の方を見たが、何も言わずに食堂の方へ歩いていった。

そして小峰は。

コントロールルームへの階段を見上げていた。何かを考えている。何かを——。

私は、窓の外を見た。

何かがおかしい。でも、何がおかしいのか、分からない。

小峰は犯人から外れた。録音が証拠だと言っていた。

でも——。

あの録音は、本当に「証拠」なのだろうか。

私は小峰の横顔を見た。

彼は何かを隠している。私には、そう見えた。

でも、それは私だけが感じていることなのか。それとも——。

言えなかった。言わなかった。

雪は、まだ降り続いていた。

【TAKE 5へ続く】



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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。