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テイク・ゼロ 『TAKE 6 ― 追い詰め』

午後五時を過ぎていた。

窓の外では、雪がまだ降っている。灰色の空から、白い粒が絶え間なく落ちてくる。二日目の午後——あの夜から丸一日以上が経っていた。

戸川が控室から出てきた。手帳を閉じて、私たちを見回す。その目には、何かを掴みかけているような光があった。でも、確信ではない。まだ何かが足りない——そういう顔だ。

私たちはホールに集まっていた。昨日からずっと、同じ空間にいる。でも、誰も近づこうとしない。目を合わせようとしない。疑惑と沈黙が、空気を重くしている。

昨夜、ほとんど眠れなかったのは全員同じだ。目の下に隈ができている。肌の色が悪い。誰もが疲れ切っている。でも、疲労だけではない。緊張と不安が、私たちを締め付けている。

「もう一度、録音を聞かせてもらえませんか」

全員が顔を上げた。

「録音、ですか」

律が聞き返した。窓辺に立ったまま、腕を組んでいる。左顎に手を当てる仕草は、もう何度も見た。楽器を当て続けた場所が、まだ疼いているのだろう。長年、同じ場所に楽器を押し当て続けてきた。その痕跡は、もう消えない。

「ルーム録音です。昨日も聞きましたが——もう一度、全員で聞いていただきたい」

沈黙が落ちた。

「全員で?」

翠が椅子から立ち上がりかけた。肩を回す。緊張が、まだ抜けていない。第二ヴァイオリンとして、常に第一を支え続けてきた彼女の肩は、いつも凝っている。それが今日は特にひどいようだ。

「皆さんの証言と録音を照らし合わせると、どうにも——何かが引っかかるんです」

戸川は手帳を開いた。ページをめくる音が、静かなホールに響いた。高い天井に吸い込まれ、かすかな残響を残して消えていく。

「足音を聞いた人。落ちる音を聞いた人。声を聞いた人。何も聞こえなかったという人。同じ時間、同じ建物にいたはずなのに——全員が、違うことを言っている」

彼は手帳のページを戻した。

「場所が違えば、聞こえるものが違う。それは分かります。でも——録音を聞いていて、何かが腑に落ちない」

律は腕を組んだまま黙っていた。顎のあざが、薄暗い光の中でかすかに見える。

翠は視線を落とした。膝の上で手を組んでいる。指先が、無意識に動いている。弓を持つ時の癖だ。

慎一はストーブの火を見つめている。右手が、無意識に腰のあたりに伸びている。大きな楽器を支え続けてきた腰は、彼の弱点だった。長時間座っていると、どうしても痛む。

凛は静かに窓際に立っていた。指先を組んで、何かを考えている顔だった。彼女の指は冷たい。弾いている時でさえ、指先だけは冷える。今日はなおさらだろう。

そして小峰は——コントロールルームへの階段の下にいた。いつも同じ場所だ。窓の外を見ている。

「小峰さん」

戸川が呼んだ。

「再生をお願いできますか」

小峰は振り返った。その表情からは何も読み取れなかった。昔からこうだったのか、それとも今だけなのか。

「……分かりました」

彼は階段を上がっていった。足音が、古い木の階段に響いた。きしむ音が、ホールにまで届いてくる。


コントロールルームは狭い。六人が入れる広さではなかった。

小峰はホールにスピーカーを引いた。ケーブルがコントロールルームへの階段を伝って伸びている。私たちは椅子を並べて座った。裁判の傍聴席みたいだと思った。いや、違う。私たちは傍聴人ではない。全員が被告だ。

スピーカーの前に、全員が座った。律は窓際に近い椅子を選んだ。翠はその隣。慎一はストーブに近い場所。凛は少し離れて、全員が見える位置に座った。

戸川は中央に立っている。小峰は二階のコントロールルームにいた。窓からホールを見下ろせる位置だ。

「停電の直前から再生してください」

小峰がうなずいた。階段の上で何かを操作する気配がして、スピーカーから音が流れ始めた。

最初は、静かだった。

風の音。窓が鳴る音。暖房が動く低いハム音。古い教会特有の、微かな反響。天井の高い空間に、音が溶けていく感覚がある。録音された音は、今聞いている空間と同じ場所で生まれたものだ。でも、あの夜と今では——全てが違っていた。

「これがルーム録音です」

小峰の声は平坦だった。昨日も聞いた説明だ。演奏していない時間も、ホールの音を拾い続けていた。

足音が聞こえた。遠い。どこか上の方——階段を上がる音だろうか。

「この足音は——」

戸川が口を開きかけた時だった。

「待って」

律の声だった。

鋭い声だ。演奏中に何かを聞き取った時の声。リハーサルで誰かのミスに気づいた時、彼はこういう声を出す。身を乗り出していた。目が細くなっている。

スピーカーからの音が止まった。

「今のは何だ」

「今の、とは」

戸川が聞き返した。

律は立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。石の床と木の椅子が擦れる、不快な音。

「巻き戻してくれ」

小峰が操作した。逆再生の音が一瞬聞こえて、止まった。

再生。

足音。風の音。そして——

「……ん、に、さん、し」

かすかな声だった。息のような、囁くような声。聞き逃しそうなほど小さい。でも、確かに聞こえた。人の声だ。何かを数えている。

律が振り返った。

「カウントだ」

「カウント?」

戸川が眉をひそめた。知らない言葉だという顔だ。

翠が椅子から立ち上がった。肩を回しながら、説明を始めた。

「演奏を始める前に、テンポを合わせるために数えるんです。リーダーが『いち、に、さん、し』と声を出して——それに合わせて全員が弾き始める」

「弦楽四重奏では、特に重要です」

凛が続けた。静かな声だった。

「指揮者がいないので。四人でテンポを共有するには、カウントが必要なんです。オーケストラなら指揮棒が合図になりますが、室内楽では——声しかない」

戸川はうなずいた。でも、まだ何かを理解していない顔だった。

「でも今のは——普通のカウントとは違うように聞こえました」

翠がうなずいた。

「子音を抜いて、柔らかく数える癖がある人もいます」

「子音を抜く?」

「『いち』じゃなくて——息だけで『んち』。もっと崩れると『ん』だけになる」

翠は自分の口元に手を当てた。説明しながら、無意識に息を吐いている。

「声を出さずに、息だけでテンポを取る感覚です。『ん、に、さん、し』と。録音に余計な声が入らないように、そうする人もいます」

戸川は首を傾げた。

「それが、今聞こえた?」

「ええ」

律は断言した。

「間違いない。カウントが入っていた」


沈黙が落ちた。

誰も動かなかった。スピーカーからは、録音の残響だけが流れている。風の音。遠い足音。そして、もう一度再生すれば聞こえるはずの——あのカウント。

私は、その声を思い出していた。「ん、に、さん、し」。息のような声。あれは——誰の声だったのか。

慎一が口を開いた。

「でも、これは——ルーム録音ですよね」

彼は小峰を見た。それから戸川を見た。

凛が一歩、前に出た。

「カウントは、演奏録音を始める時にしか使いません」

彼女の声は静かだったが、確信に満ちていた。冷たい指先を組んだまま、戸川を真っ直ぐに見ている。

「テイクを始める合図だから。『それじゃあテイク2、行きましょう』というタイミングで、リーダーがカウントを出す。そこから録音が始まる」

「つまり」

戸川は全員を見回した。

「ルーム録音には——カウントは入らない」

「入らないはずです」

凛は断言した。

「演奏が終わった後の環境音を録っているはずなのに——演奏を始める合図であるカウントが入っている。それは——」

彼女は言葉を切った。その先を言うのをためらっているようだった。でも、全員が分かっていた。

戸川がゆっくりと言葉を選んだ。

「このルーム録音には——演奏録音の一部が、混ざっている?」

誰も、答えなかった。

その沈黙が、答えだった。

「編集されている、ということですか」

戸川の声が、高い天井に反響した。残響が長く尾を引いて、消えていく。かつてミサが行われていたこのホールは、声を遠くまで届けるように設計されている。祈りの声を。そして今は——真実を暴く声を。

全員の視線が——一斉に、小峰に向いた。


小峰は動かなかった。

コントロールルームの窓から、その姿が見えた。機材の前に座ったまま、こちらを見ていない。

戸川が声を張った。

「小峰さん、降りてきてもらえますか」

しばらくして、階段を降りる足音が聞こえた。古い木の階段がきしむ音。小峰がホールに現れた。

その表情には、何も浮かんでいなかった。

「このルーム録音を管理していたのは、あなたですね」

「そうです」

小峰の声は平坦だった。何も隠していないような声。でも、だからこそ——何かを隠しているように聞こえた。

「録音データは全て、私のハードディスクにあります。バックアップも、私が取っていました」

「編集する権限があるのも——」

「私だけです」

今度は、小峰が先に答えた。質問を待たずに。まるで、この問いが来ることを分かっていたかのように。

沈黙が落ちた。

律が一歩、前に出た。

「小峰」

低い声だった。二十年来の付き合い——いや、十五年前に途切れた付き合い。その時間の重さが、一言に込められていた。

かつてのリーダーと、追い出された仲間。その二人が、今ここで向き合っている。

小峰は答えなかった。窓の外を見ている。

雪が、まだ降っていた。白い粒が、音もなく落ちている。灰色の空と、白い地面。世界が色を失ったような風景だった。

翠は椅子に座ったまま、唇を噛んでいた。何かを言いたそうに見えた。でも、言葉が出てこないようだった。彼女は小峰の席を引き継いだ人間だ。十五年前、追い出された男の代わりに座った人間。

慎一はストーブの近くで立ち尽くしていた。右手が、腰のあたりに伸びている。あの仕草。長時間弾いていると腰に来る——でも今は、弾いていない。あれは緊張の仕草だ。あるいは、後悔の仕草か。

凛は——静かに全員を見ていた。その目は、何かを確認しているようだった。誰が何を言うか。誰がどう動くか。観察している目だった。

十五年前に追い出された男に、全員の視線が集まっている。

「編集したのは——」

律が言いかけた。

「待ってください」

戸川が手を挙げた。

「もう少し、確認させてください」


戸川が再び口を開いた。

「確認させてください」

彼はメモを見た。ページをめくる。何かを探している。二十年以上の経験で培った、事実を積み上げていく手法だ。

「このカウント——『ん、に、さん、し』という数え方」

戸川は全員を見回した。

「これは、誰かの癖ですか」

沈黙。

翠が最初に答えた。

「子音を抜く癖です。『いち』じゃなくて——『んち』。もっと崩れると『ん』だけになる」

「普通は『いち、に、さん、し』と数えるんですか」

「人によります」

律が腕を組んだまま答えた。

「息の使い方で、癖が出る。声を大きく出す人もいれば、ほとんど息だけで数える人もいる」

「この録音のカウントは——誰の声ですか」

沈黙。

誰も答えなかった。翠は視線を落とした。律は窓の外を見た。凛は黙っていた。

慎一が、ゆっくりと顔を上げた。

「……俺は、知ってる」

全員が慎一を見た。

彼の顔は青白かった。昨夜からほとんど眠れていない。でも、それだけじゃない。何か別のものが、彼の顔に刻まれていた。十五年分の後悔が、今この瞬間に噴き出そうとしている。

慎一の目は、小峰の背中に向いていた。

「これは——」

声が震えていた。

「小峰のカウントだ」

小峰は動かない。振り返らない。

「昔から、そうだった」

慎一は続けた。

「俺たちが一緒に弾いていた頃から。小峰は、カウントを出す時、いつもあの数え方をしていた」

沈黙が落ちた。ストーブの火がぱちりと爆ぜた。

「『ん、に、さん、し』と」

慎一の声が、ホールに響いた。

「息だけで、囁くように。子音を抜く人は他にもいるが——あの間の取り方、あの声は小峰だけだ」

小峰は答えなかった。

窓の外を見たまま、動かなかった。

「十五年間——」

慎一の声が詰まった。

「あのカウントも、忘れたことはなかった」

「お前のカウントだ、小峰」

慎一の声が震えていた。十五年前の後悔が、その声に滲んでいた。あの時、止められなかった。今も——庇う言葉が出てこない。

小峰は答えなかった。


戸川が小峰の前に立った。

「小峰さん」

小峰はゆっくりと振り返った。

その目は——静かだった。諦めでも、恐れでもない。ただ、静かな目。長い間、何かを覚悟してきた人間の目だった。

「このルーム録音を編集したのは、あなたですね」

小峰は答えなかった。

「演奏録音のカウント部分を——ルーム録音に継ぎ足した」

戸川の声は落ち着いていた。追い詰めるような声ではなかった。ただ、事実を確認している。

「停電中の音を隠すために」

沈黙。

長い、長い沈黙だった。

時計の針だけが、かちかちと動いている。風の音が、窓の向こうから聞こえている。古い教会の壁が、寒さに軋んでいる。

「なぜ、隠す必要があったんですか」

戸川の声は、静かだった。刑事の声ではなかった。ただ——知りたいと思っている人間の声だった。

小峰は窓の外を見た。

雪は、まだ降り続いていた。白い粒が、灰色の空から舞い落ちている。音もなく。絶え間なく。この二日間、ずっと降り続けている。止む気配がない。

律が一歩、前に出た。何かを言おうとしている。でも、言葉が出てこない。

翠は椅子に座ったまま、視線を落としていた。

慎一は——動けないでいた。右手が腰に当てられたまま、石のように固まっている。

凛だけが、静かに全員を見ていた。

そして——

小峰が、ゆっくりと口を開いた。

「……聞きたいですか」

戸川が息を呑んだ。

「十五年前のことを」

律の腕が落ちた。翠が顔を上げた。慎一が一歩、後ずさった。凛は、黙って全員を見ていた。

小峰の声は、静かだった。でも、その静けさの奥に——何かが蠢いていた。長い間、閉じ込めてきた何か。言わなかった言葉。飲み込んできた感情。十五年分の時間が、今、溢れ出そうとしている。

「あの時、何があったのか」

小峰は振り返った。その目が——初めて、感情を映していた。

怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと複雑な——十五年分の時間が積み重なった、名前のつけられない感情だった。

「なぜ、鶴見が死んだのか」

誰も、言葉を発せなかった。

戸川だけが、静かに待っていた。手帳を閉じて、小峰を見つめている。

窓の外では、雪がまだ降り続いていた。

音もなく。絶え間なく。

真実が明かされる時を、待っているかのように。

【TAKE 7へ続く】



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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。