第3章|夕日―魅惑の赤、覚醒の赤― 【#創作大賞2026 #ホラー小説部門 】応募作品。全13章・完。

工場の給料では、
カローラワゴンに
十分に使ってやれない。
そう思ったときには、金がなかった。
工場が終わって、夕方から働ける場所を探した。
見つけたのが「クラブリッチ」。
工場の倍の給料をくれる。
でも、倍もきつくはないだろう。
そう思っていた。
名前は派手だったが、
最初にやらされたのは
店の前に立つことだけだ。
夕方から夜中まで、
入口の横に立つ。
風の強い日でも、雨の日でも、
立つだけだ。
最初は、楽だと思った。
だが、立っているだけというのは
思っていたよりきつい。
時間が進まない。
客が来ても、
自分には何もできない。
ドアを開ける。
頭を下げる。
閉める。
それだけだ。
動きがない分、
寒さが襲ってくる。
煙草を吸う回数が増えた。
白い息と煙草の煙が混じり合う。
「ポケットに手を入れるな。」
と言われていたから、指先が先に冷えていく。
煙草を吸うと、余計に冷える。
店の中から、笑い声と音楽が漏れてくる。
別の世界の音みたいだった。
工場の音ともまるで違う。
そのとき、横から缶コーヒーが差し出された。
「持っとき。」
熱かった。
思わず持ち替えた。
「飲むんやないで。ポケットに入れとくんや。
手ぇ冷えるやろ。」
その男は、少し猫背の男だった。
年上に見えた。
髪は適当に流していて、
シャツの襟も曲がっている。
きっちりしていないのに、
妙に場慣れしている雰囲気だ。
「吉田いうねん。」
吉田は自分の分の缶コーヒーを開けて、
ずずっと音を立てて飲んだ。
「吉田幸平っていうんやけどな。
名字は普通の吉田や。
幸平は幸せの幸に、平らの平。
どっちも一本足やろ。」
知らない。
急に漢字をイメージできない。
そう思ったが、
口には出さなかった。
「せやから、
どこ行ってもフラフラして、
まともに務まらへんのですわ。」
自分で言って、
自分で笑っていた。
「そうですか。」
「なんや、自分。薄いな反応。」
「初対面で濃い反応せんでしょう。」
「ハハハ。そうか。それもそうや。」
それから吉田は、
何かあるたびに話しかけてきた。
客の服がどうだとか、
マネージャーの機嫌がどうだとか、
今日来る女の子の一人が
また彼氏と揉めているだとか、
競艇が大好きだとか。
どうでもいい話ばかりだった。
ただ、競艇の話をするときだけは、
吉田の目は輝いていた。
その日、仕事が終わるころに
吉田が店の裏で煙草を吸っていた。
「乗って帰るん?」
「はい。」
「見せてぇな。」
断る理由もなかった。
店の裏のその奥に停めていた赤いカローラワゴン。
その前で、吉田は口笛を吹いた。
「ええ色しとるなぁ。
3号艇やなぁ。武井はん。
赤が好きなら競艇は3号艇から狙い。」
ボンネットを撫でようとしたので、
思わず声が出た。
「触らんでください。」
吉田は手を引っ込めて、笑った。
「怒るやん。」
「汚れる。」
「分かる分かる。大事なもんって、
人に触らせたないもんなぁ。」
それなら最初から触るな、と思った。
「ちょっとだけ乗せてぇなぁ。」
「今度でいいなら。」
「ほんまに?」
「いいですよ。」
「ほな約束や。平和島まで。」
「平和島?」
「世話になった連れがおるんや。
競艇友達なんやけど、
最近ちょいと顔出せてへんでなぁ。」
「そうですか。」
「一緒に行こうや。」
吉田は煙草を靴の裏で消した。
「ええ車乗って、
ええ景色見ながら行ったら、
ちょっとは男前に見えるやろ。」
「そんなもんですか。」
「見たいねん、ハンドル握ると、
男前になる顔。」
「元が元ですからね。」
「お。言うようになったやん。」
どうも吉田との会話は
いまいち成立しないうえに、
しつこい。
それにカローラワゴンに乗る資格は
俺にしかない。
その約束は守れない。
それからも吉田は、
店の前に立つ俺に
缶コーヒーを持ってきた。
熱すぎるやつだった。
本当にカイロ代わりに
ちょうどよかった。
そのうち、吉田が来る時間が
なんとなく分かるようになった。
1時間くらい経つと来る。
「まだ生きとるか。」
たいていはその一声だ。
「なんとか。」
「顔が死んどるで。」
「元からです。」
「便利やな、その顔。」
便利なわけがない。
だが吉田は、いちいち笑った。
笑う意味が分からない。
吉田は、店の中では少し、
浮いているように見えた。
若いスタッフとも年配の客とも、
どこか距離が合っていない。
それなのに、
なぜか誰とも切れていない。
不思議な立ち回りだった。
マネージャーには
よく怒鳴られていた。
返事が遅いだの、
動きが鈍いだの、
客への愛想が足りないだの。
そのたびに吉田は
「すんません」と言って頭を下げた。
だが、頭を下げた直後には
もう別のことを考えている。
そんな感じに見えた。
ある日、吉田が言った。
「武井はん、昼は工場も行っとるんやろ。
しんどないん?」
「別に。」
「寝る時間ないやろ。
工場って、何しとるん?」
「眠くなったら寝ます。
空調部品の組み立てです。
溶接もあります。」
「溶接か。技術あるんやなぁ。」
「慣れです。作業ですよ。」
「若いなぁ。」
吉田は笑った。
「俺も、若いときにそういうの覚えとったら、
違うとこにおったんかな。」
「吉田さんも、今からでも間に合いますよ。」
「そんな歳でもないで。」
そう言ってから、
吉田は煙草をくわえた。
「ただなぁ、
もうちょい真面目に生きとったら、
違うとこにおったんかなとは思うわ。」
「あ、でも、そしたら
武井はんには会えんかったな。」
吉田は笑っていた。
頭に浮かんだのは、
工場で見ている部品の銀色だった。
新品の部品でも、すぐに錆びる。
若いというのは、そういう色だ。
俺も3年でずいぶん錆びた。
「吉田さんは、なんでここにいるんです?」
つい聞いていた。
吉田は珍しく、
すぐには答えなかった。
缶コーヒーを
ずずっとひと口飲んで、
店の灯りの方を見た。
「なんでやろな。」
「分からないんですか。」
「分からんようになるんよ。
気づいたら、ここにおった。」
「武井はんくらいのときは
日雇いの建設現場で日銭作って
翌日には競艇で使ってしもうとった。」
「ここの仕事もええんやけど、
ずっとは続かんように思っとる。
ほら、名前が一本足の幸平やから。」
ふざけているようで、本気。
そんな感じだ。
「でもまぁ、
寒い日に飲む缶コーヒーだけは本物やな。
落ち着くんよ。
ささやかな幸せってやつや。」
いつものように
ずずっと音を立てて飲んだ。
もう一本を
こっちへ投げて寄こした。
受け取る。熱い。
「これ、経費で落ちるんですか。」
「落ちるわけないやろ。」
「じゃあ自腹ですか。」
「せや。」
「なんでです?」
「なんでやろな。
俺も、そうしてもらったからやろな。」
意味のない会話だ。
その夜は客が少なく、
終わるのも早かった。
店の前を掃いたあと、
吉田と並んで煙草を吸った。
「武井はん。」
「はい。」
「人ってな、誰にでも一個くらい
戻りたい場所あるやろ。」
戻りたい場所。
場所と言われても、
光景しか思い浮かばない。
隣の家が飼っていた、うるさく吠える犬。
「さあ。」
「ないんか。」
「ないですね。」
「ほな強いわ。」
「別に強くないです。」
「いや、ない方が強いんや。
戻りたい場所あると、
そこが足引っ張るから。」
吉田はそう言って笑った。
その笑い方が、疲れて見えた。
吉田は優しすぎる。
ルールを決めれば、楽になる。
触らせない。
近づけない。
約束しない。
競艇の話は、そのあとも何度か出た。
「3号艇から狙えば結構増えるで。」
「当たれば、でしょ。」
「今度でええから。」
「そのうち。」
「忘れんといてや。」
「忘れないです。」
吉田は何度も言った。
競艇の話。
昔の連れの話。
平和島の水面は広くてええ、という話。
「捲り差しもええな。
1号艇と2号艇の狭い隙間から抜く。
最高やで。」
聞き流していたが
少しずつ頭に残っていった。
「1号艇が白、2号艇が黒、3号艇が赤」
被せるように聞いた。
「銀色はないんですか?」
「銀色なんかあったら
眩しすぎてレースにならんわ。」
眩しすぎる。
でも、すぐに錆びる。
俺にはそういう色だ。
寒い夜だった。
入口のガラスに
店内の灯りが反射していた。
その向こうに、
自分の顔がぼんやり映っている。
隣には缶コーヒーを飲む吉田がいる。
知らないうちに、それが当たり前になっていた。
一度くらいなら、
乗せてもいいかもしれない。
そう思った。
平和島へのルートが頭に浮かんだ。
でも、俺だけでは決められない。
カローラワゴンは、どう思うだろうか。



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【第二章・新聞配達編】



