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触れて、消えて|【狸の短編小説】

 男は毎朝、同じ時間に目を覚ます。

 トーストを一枚焼き、
 バターナイフの音だけが、部屋には響く。 
 
 ラジオはつけない。

 食卓の隅には、いつも伏せてある写真立て。

 九時になると杖を手に、家を出る。
 公園までは、ちょうど三百歩。

 ベンチは池のほとり、柳の木の下にある。
 他の誰かが座っていることは滅多にない。

 男はそこに座り、ただ池を眺める。
 時折、パンの耳をちぎっては、
 足元に集まる鳩に投げた。

 鳩は人を恐れず、
 革靴のすぐそばまで寄ってくる。

***

 火曜日、近くで一人の少年が
 ボールを蹴って遊んでいた。

 ボールは勢い余って、
 男の足元に転がってくる。

 少年は駆け寄り、黙ってボールを拾う。
 
 とくに振り返りもせず、
 母親の元へ戻っていった。
 
 母親が小さく会釈するのを、ただ見ていた。

***

 次の日は雨だった。
 
 濡れて光る無人のベンチを
 家の窓から一日中眺めていた。

***

 木曜日、公園は乾いていた。

 いつものベンチに座っていると、
 またあの少年がいる。

 今日はシャボン玉で遊んでいた。

 虹色の球体が風に乗り、
 一つ、また一つと男の方へ飛んでくる。

 そのうちの一つが、
 乾き切った手の甲に触れ、静かにはじけた。
 
 濡れた小さな跡が残る。
 
 少年は少し離れた場所から、
 じっと男を見つめていた。

 男も少年を見返した。

 やがて少年は母親に呼ばれ、
 手を振りもせずに行ってしまった。

 男は手の甲に残った、
 ほとんど見えないほどの湿りを、
 日が傾くまで見つめていた。

***

 家に帰り、夕食の準備をする。
 食器の触れ合う音だけが響く。

 食べ終えた後、男は食卓の隅に手を伸ばした。

 伏せてあった写真立てが、
 ゆっくりと起き上がる。



 この物語は、clutchさんの記事に影響を受けました。素敵な記事をありがとうございます。


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