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胃袋のブラック企業|【狸の短編小説】

 その招待状は、
 俺の日常に差し込んだ唯一の光だった。

 『参加費一万円。
  全百種類を完食すれば、賞金百万円』

 俺は、すり減った靴のつま先を見つめ、
 迷わずその光に手を伸ばした。

 会場は、都心の一等地にそびえる
 高層建築の最上階。

 磨き上げられた大理石の床。
 水晶の飾りから放たれる七色の光。

 しかし、その豪奢さには、
 血の通わない無機質さが漂っている。

 窓は分厚い磨りガラスで覆われており、
 昼か夜かの判別さえつかない。

 席に着くとそこには、
 五十人ほどの参加者たちの、
 欲望と期待を浮かべた顔が並んでいる。

 やがて、天井の拡声器から、
 滑らかな声が響き渡る。

 「皆様、ようこそ。
  これより、皆様に結んでいただく、
  契約を読み上げます。

  一、料理をすべて完食された方にのみ、
    賞金百万円が授与されます。

  二、完食するまで、この会場から
    出ることは許されません。

  三、自ら棄権を申し出た方は、
    別室にて相応の時間を
    過ごしていただきます」

 顔のない主催者の声が途切れると、
 背後の巨大な扉が地響きを立てて閉ざされた。
 その前には、屈強な人達が仁王立ちになる。

 俺たちはもう、引き返せない。

***

 最初の九品は、夢のような時間だった。
 
 舌の上でとろける海の幸。
 鼻腔をくすぐる芳醇な肉の香り。

 「一万円の元はすぐに取れる
  
 ここにいる全員が、ほくそ笑んだことだろう。

 だが、その楽観は、
 十品目にして脆くも崩れ去る。

 運ばれてきたのは「現実のビシソワーズ」。
 
 鉄錆のような味がするそれは、
 氷のように冷たいスープだった。

 鼻を突く酸っぱい匂い。
 一口すするたび、胃が痙攣するような味。

 周囲から嗚咽が漏れる。

 二十品目、
 「叱責のタバスコがけショートケーキ
 に至っては、もはや悪意の塊。

 甘さで油断した舌を、
 暴力的な辛さが焼き尽くす。

 涙と汗で、顔をグシャグシャにしながら、
 俺はふと顔を上げた。

 見上げた天井にはレンズらしきものが、
 その鋭い眼光でこちらを監視している。

 ああ、そうか。
 俺は気づいてしまった。

 俺たちは見られているんだ。
 この滑稽な足掻きを。
 この歪んだ顔を。

 どこかのモニターに映し出され、
 誰かの娯楽になっているんだ。

 その時、腹の底から何かがせり上がる。
 それは怒りであり、絶望であり、
 「無様には終われない」という歪んだ意地。

 「絶対に百万を取ってやる」
 
 そう、呟いた瞬間だった。

 「……棄権します!」 一人の男が叫んだ。
 
 即座に、二人の警備員が
 機械的な動きで男を抱え、
 扉の脇にあるドアへと引きずっていく。

 男が響かせた絶叫は、
 ドアが閉まると同時にぴたりと止んだ。

 会場は死のような静寂に包まれる。
 あれが「懺悔室」か。
 
 脱落への恐怖が、鉛のように腹に溜まる。
 俺は目の前の皿を見つめた。
 
 払った一万円。
 耐え抜いた二十皿分の苦痛。
 そして、どこかで見ている名もなき観客。

 後戻りするには、
 あまりに多くのものを失いすぎていた。

***

 気合いで喰らいつく五十品目は、
 「やりがいのビーフステーキ」。

 それはゴム草履のように硬く、
 いくら噛んでも飲み込めない代物。

 それを無理やり喉の奥へと押し込みながら、
 脳裏には、遠い過去の光景が蘇っていた。

 「これはやりがいのある仕事なんだ」
 
 そう自分に言い聞かせ、
 すり減っていく心を無視し続けた日々。

 あの時も、俺はこんな風に、
 意味のない塊を必死に飲み下していた。

 「自分の選択を肯定しろ」

 誰かが囁く。
 俺は歯を食いしばった。

***

 あれから、どのくらい経っただろうか。 
 
 いつしか参加者たちの間には、
 奇妙な連帯感が生まれている。

 「この苦しみには、きっと意味がある」

 隣の席の女が、虚ろな目で呟いた。

 「そうだ、主催者様は私達の魂を試している」

 向かいの老人が、震える声で応じる。

 彼らのテーブルは、
 狂信者たちの集会と化していた。

 仲間という共同幻想が、
 自己正当化の香辛料になっている。

 「もう無理だ!」

 一人の若者が席を立った時、
 警備員より先に動いたのは、
 他の参加者たちだった。

 「裏切り者!」

 「私達は選ばれたのだぞ!」

 「貴重な機会を無下にする気か!」

 彼らは若者に罵声を浴びせた。
 異端者狩りのそれである。

 「そうだ、逃げるのか!」

 俺もまた、その同調圧力の渦に飲まれ、
 一緒になって叫んでいた。

 自分の言葉が、
 自分のものであると気が付かないくらいに。

*** 

 九十九品を終えた時、
 生き残っていたのは三人だった。

 俺たちは皆、消耗しきった魂に
 殉教者志願の光を宿す。

 それに呼応するように、
 会場の照明が一つを残して消え、
 一本のスポットライトが当たる。

 そこへ、純白のコックコートに身を包んだ
 パティシエが無言でワゴンを押して現れる。

 ワゴンの上では、極上のカスタードプリンが
 銀の器に鎮座している。

 パティシエは芸術的な手つきで、
 色とりどりのフルーツ、金箔、
 飴細工などを飾り付けていく。

 それは、王の頭に王冠を載せる
 戴冠式ごとく荘厳だ。

 完成した一皿のデザートは、
 まばゆいばかりの輝きを放つ。

 「素晴らしい! 
  諸君こそ、期待に応えた真の勝者だ!
  さあ、最後の晩餐を受け取るがいい!
  これは諸君の勝利を祝う栄光の王冠だ!」

 パティシエは完成したプリンを持ち上げ、
 差し出してくる。

 その手が机に届く寸前で、
 パティシエはわざとらしく手を滑らせた。

 銀の器が甲高い音を立てて床に落ち、
 完璧だったプリンは無残に砕け散る。

 磨き上げられた大理石の床に、
 カスタードの黄色い染み、
 潰れたフルーツ、砕けた飴細工が、
 交通事故の現場のように、惨めに広がった。

 「おっと、失礼。だが、栄光とは、
  時に泥の中から掴み取るものだろう?」

 主催者の声が、楽しそうに続く。

 「完食の条件は、
  その床に飛び散ったプリンを、
  その場で全て舐め尽くすことだ」

 ああ、そうか。
 これが、この物語の結末か。

 俺たちは勝者などではなかった。
 最後まで、見せ物の駒だった。

 このゲームの目的は、
 俺たちに栄光を与えることじゃない。

 俺たちが、人間をやめる瞬間を
 鑑賞することだった。

 俺は震える脚でゆっくりと立ち上がった。
 磨き上げられた大理石の床に両膝をつく。

 最後の品は「プライドのプリン」。

 人生を賭けて守ろうとしたプライドの、
 成れの果て。

 俺は四つん這いになり、まるで犬のように、
 床に広がった甘い汚物に舌を伸ばした。

 もはや賞金のためではない。
 払った一万円のためでもない。
 どこかの誰かに見せつけるためですらない。

 この地獄のフルコースに、
 身を投じた俺の選択は間違っていなかった。
 ただ、それを証明するためだけに。

 無心で、ただひたすらに、舐め続ける。

 これまでの人生で飲み込んできた
 すべての諦めと不条理を凝縮した味。

 涙が、一筋頬を伝った。
 それが悔しさからか、
 解放からか、自分でもわからなかった。

 「完食、おめでとうございます」

 顔のない主催者の無機質な声が響く。
 俺はゆっくりと目を閉じた。

 満腹の向こう側に見えるはずの天国は、
 ただただ、暗い。



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