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僕痛む、故に僕あり|【狸の短編小説】

 世界は静謐に満ちている。

 僕らの学舎は、
 神が描いた設計図のごとく箱庭だ。

 寸分の狂いもなく配置された机。
 秒針の音すら揃う時計。
 
 ステンドグラスから射す光は、
 床に落ちる角度まで計算されている。

 僕らはここで、完璧な調和を奏でる。

 教科書をめくる音。
 ペンを走らせる仕草。

 全てが、定められた手順書へ従うように、
 滑らかで美しい。

 その調和の中で彼女だけが、
 僕の中の唯一の雑音だった。

 彼女がふと、目を細め、窓の外を見る。
 その僅かな表情の変化。

 長いまつ毛が落とす、影の揺らぎ。
 他の誰とも違う曲線を描く、髪をかける軌跡。

 僕はそのすべてを、
 網膜に焼き付けるように見つめていた。

 その瞬間、僕の世界にだけ不協和音が生じる。

 こめかみの奥で、小さな神経の火花が散る。
 ピリッ、と熱い。

 この感覚には覚えがある。
 
 情報記録庫の片隅で見つけた、
 禁じられた果実の名。

 確か「恋」といったか。

 それは魂に刻印される原罪。
 楽園からの追放を意味する、
 冒涜的な感情錯誤だと記されるもの。

 彼女を想うたびに、罪は僕を罰する。

***

 昼食の時間、彼女が匙を口に運ぶ。

 その唇の微かな潤みに見惚れていると、
 右の眼球裏で光のナイフが閃いた。

 視界の端にギザギザの歯車が現れ、
 ゆっくりと世界を侵食し始める。
 風景が歪み、剥落していく色彩。
 
 ああ、まただ。
 処理不能な誤作動が始まった。

***

 初老の教師は、僕を「異分子」と呼ぶ。
 
 定期的な面談の場で、
 彼は僕の魂を覗き込むように言うのだ。

 「君の思考には雑音が多い。
       思考の最適化が必要だ」

 同時に、白い錠剤を差し出す。
 それを飲むと、凪いだ水面のように、
 思考は平坦になる。

 痛みだけでなく、彼女への渇望も、
 世界の輪郭も、すべてがぼやけていく。

 無痛の牢獄。
 その間、生きているという実感さえ
 麻痺していくような状態だった。

 だから、僕は飲むのをやめる。

 壊れるほどに感じる生の手触りを、
 取り戻したかったから。

***

 放課後の廊下。
 
 陽光がステンドグラスを透かし、
 床に七色の川を作っている。

 川の向こう岸に、彼女は立っていた。
 
 友人と交わす何気ない言葉。
 楽しげに揺れる肩。

 その一つ一つが、
 僕という存在を証明するための啓示。

 綺麗だ。

 そう魂が叫んだ瞬間、
 頭蓋骨の中では嵐が生まれた。

 脳を締め付ける万力。
 脈動に合わせ、ズキン、ズキンと
 内側から誰かが壁を叩く。

 立っていることさえ、おぼつかない。
 五感の洪水に押し流され、
 僕はその場に膝をついた。

 それでも、僕は彼女から目を離さない。

 この痛みこそが、
 彼女を想っている何よりの、愛の証だから。

 この灼熱こそが、
 「人間」であることの、血の証だから。

 情報に還元できない、
 誰にも解析できない、
 僕だけの物語。僕だけの聖痕。

 痛みに震える指先で床を掻き、
 どうにか体を起こす。

 彼女に、この意味の分からない衝動を、
 この甘美な苦痛を伝えなければ。

 僕という物語の、
 たった一人の読者である君に。

 一歩、踏み出す。
 全身の神経が悲鳴を上げる。
 
 もう一歩。
 世界の音が消え、
 ただ拍動性の痛みだけが思考を支配する。

 彼女が僕の異変に気づき、
 心配そうに眉を寄せた。

 その表情は、僕にとっての最後の晩餐。

 ありがとう。
 君がいたから、僕は僕になれた。

 ああ、でも。

 この痛みを抱えて、明日も彼女を想うのか?
 明後日も、この灼熱に焼かれ続けるのか?
 この孤独の質量に、いつまで耐えればいい?
 この魂のよどみを、どうすれば。

 思考が、途切れる。
 
 彼女を想うことも、痛みに耐えることも、
 この調和に抗うことも。

 何もかもが、等しく重い。

 意識が薄れゆく中で、すべての糸は切れた。

 ああ、もうどうなってもいいや。
 めんどくさい。

 



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