宮崎のタクアンは、なぜラーメンの横にいるのか(さといも本店)
宮崎のラーメンには、必ずタクアンがついている。 これがいいのだ。
東京で暮らしていた頃、ラーメンにタクアンがついてきたことなど一度もなかった。あちらでは紅生姜だの高菜だの、やたらと自己主張の強い連中ばかりが幅をきかせていた。ところが宮崎では、白い小皿に黄色いタクアンが二切れ、しらっと座っている。スープの暴れ者でも、麺の主役でもない。ただ横にいる。控えめである。人知れず土にまみれて幸福を増やす里芋みたいな顔をして、そこにいる。
と、言うわけで、「さといも」という店に入った。

名前は里芋なのに、ラーメンに里芋は入っていない。これは行ってみて初めて知った事実であって、最初に聞いたときは正直、肩透かしを食らった気分になった。
メロンパンにメロンが入っていないようなものだ。
うーん。
オレは、斜め45度斜に構えつつ、鼻の穴を全開にし、ひとしきりうなったのである。
だが店に掲げてある由来書きを読んで、なるほどと唸った。里芋は親芋に子芋がつらなって、子孫繁栄や出世を意味する縁起のいい野菜なのだそうだ。そういう里芋になりたい、と店は言うのである。ラーメン屋がそこまで里芋に憧れていいのか。
いいのだ。

店内は広かった。一枚板の長いカウンターがどんと伸びていて、丸椅子のクッションが花柄やら星柄やら水玉やら、てんでばらばらの柄をしている。壁にはサインがずらりと並び、テレビがついていた。昔ながらの、宮崎のラーメン屋の空気である。オレはこの空気を、たぶん子どもの頃から知っている。
らーめんが来た。注文してから五分も経っていない。

白濁したスープが丼の縁ぎりぎりまで満たされていた。乳白色というよりは、淡い琥珀のまじった白である。細い麺の上に、もやしがしゃっきりと立ち、刻んだ青ねぎが散らされ、チャーシューが二枚、控えめに寄り添っていた。湯気が顔にあたって、まず豚骨の甘いにおいが鼻に入ってきた。
箸をつけた。

スープは熱く、思っていたより脂が軽い。濃すぎず、しつこくない。ごりごりの豚骨で押してくるタイプではなく、するりと喉を通っていく。細麺がそのスープをよく連れてくる。もやしのしゃきっとした歯ごたえが、合間にいいリズムを刻む。これは宮崎の人間が、子どもの頃から食ってきた「ざ・ラーメン」の味だ。奇をてらわない。安心する。額にうっすら汗が浮いて、ああ、と声が漏れた。

テーブルににんにく醤油が置いてあったので、ためしに一滴落としてみた。スープの表情が、ぐっと男くさくなる。これは危険である。残ったスープでめしが一杯いける。いけてしまう。いけないのに、いける。
オレは泣いた。
笑いながら泣いた。
それほどうまいのだ。

そして、横を見ると、例のタクアンがまだ座っている。
オレは一切れ、口に放り込んだ。こりっと鳴った。とんこつの余韻が口に残っているところへ、タクアンの塩気と歯ざわりが入ってくると、舌がいったんリセットされる。次の一口がまた新しくなる。なるほど、このためにいたのか。宮崎のラーメンの横で、長いことしらっと座り続けてきた理由が、ようやく腹に落ちた。控えめな里芋みたいな顔をして、こいつは確かに仕事をしていたのである。
食べ終わって、丼の底にスープが少し残った。
食後の血糖値のことは、食べ終わってから考えることにした。六十八にもなって、血糖値計を持ちながら暖簾をくぐる男というのも、宮崎広しといえどそうはいないだろう。だが、これくらいの量がちょうどいい年齢になってきた。若い頃なら大盛りにして、めしまで頼んでいた。今は一杯で十分なのであった。

それでも、悪くない昼だった。 故郷のラーメンに、故郷のタクアンがついてくる。 これがいいのだ。
さといも福岡店ができればいいのに、としみじみ思いつつオレは店をでたのだった。
#おいしいお店
